7.それは真実かまぼろしか - 1/4


「ロア、ですかにゃ?」
 レニの言葉に、ニキータは難しい顔をする。
 ロリマーの宿で、朝食を摂りながら今後のことを相談していると、突然、レニがロアに行きたいと言い出した。
 ジェレミアはカラになった皿をテーブルの端にどけると、地図を広げ、
「ロリマーから南の方角にあるな。そんなに遠くはない」
 指さした位置は、自分達の時代でいうビーストキングダムの辺りだ。ということは――
「もしかして、月読みの塔っていうのがあったりしないか? 一日中夜だったりとか」
 こちらの問いに、ニキータはひとつうなずき、
「よくご存じで……確かに、ロアは一日中夜で、大きな塔があるそうですにゃ。いつ建てられたものかは知らにゃいですが」
 その言葉に、テケリはミルクを飲みながら、誰にともなく、
「なんで一日中夜でありますか? お日様に当たんないと、病気になっちゃうでありますよ」
「……月のマナストーンの影響だと聞いたことがある」
 テケリの疑問に、その隣に座っていたレニが口を開く。
「マナストーンが空の月を求めて、空間を歪めているとかなんとか。本当かどうかは知らないがな」
 それだけ言うと、もういらないのか、皿に半分以上の料理を残してフォークを置く。
 キュカはあごヒゲをなでながら、
「ふぅん……やっかいなもんだな。俺はヤだぜ。年中夜なんて」
「獣人にしたって、それは同じなんじゃないのか?」
 ジェレミアに目をやると、彼女は広げた地図を片づけ、
「獣人も、好きこのんで年中夜の森で暮らしているわけじゃないだろう。あたしだって、そんな所で暮らすのはゴメンだ」
 言うと、ぬるいお茶を飲む。
「……では、どうしてそんな所に暮らしているんだ?」
 その言葉に、レニに目を向けると、彼は自分の食べ残しを膝上のラビに与えながら、
「人と獣人と、そんなに違いがあるのか?」
 その頃になって、ようやく兄は他国の歴史といったものをあまり詳しく学んでいないことを思い出す。
 なにしろ、知る必要がないのだ。王ならともかく、常に宮殿にこもっている彼には。
「……確かに獣人は、人間よりも力は強いし、爪やキバもある。夜になると獣に変身までする」
 ジェレミアはレニをにらみつけ、
「人間同士でも、他人と少し違う所があるだけで周囲から何か言われたり傷つけられる。種族の違いとなると、それだけで迫害の対象だ。どんなに獣人が強くても、数の暴力には勝てないからな」
「…………」
 ジェレミアの言葉に、レニはいまひとつ納得がいかないらしい。種族云々以前に、人間ともあまり接したことのない彼にとっては、よくわからない問題なのかもしれない。
「なんだ? お前、獣人に会ったことねーのか?」
「ニキータが初めてだ」
 全員の視線が、なんとなくニキータに集まるが――猫が二足歩行しているようなその姿は、誰がどう見ても人畜無害だった。小柄な体型のせいかもしれない。
「まあ、同じ『獣人』とはいえ、ニキータは『戦士』ではありませんしね」
 ユリエルの言葉に、ニキータも耳の裏をかきながら、
「オイラ達は、商売で生きてる一族ですにゃ。商売人にとっては皆さんがお客様。種族にゃんて関係にゃいですにゃが……」
「が?」
 キュカに聞かれ、ニキータは少し言いにくそうではあったが、
「そのぅ……オイラは、たまに人間のほうが怖いと感じることがありますにゃ」
 その言葉に――全員の視線が、一斉にレニに集まる。
「……なんだ? その目は……」
「――あ! いやいや、そうじゃにゃくて!」
 昨日、レニに船から突き落とされたばかりのニキータが、慌てて首を横に振り、
「えーと、にゃんというか、良くも悪くも己の欲に忠実というか……少なくとも獣人は、同族で殺し合いにゃんてしませんにゃ」
 ……言われてみると、確かにそうだった。
 少なくとも、獣人同士で殺し合いの戦が起こったという話など、聞いたことがない。
 いつの時代も戦いを起こすのは人間であり、彼らはそれに巻き込まれているに過ぎないのだ。
「――で、どうするんだ?」
 静かになった所で、ジェレミアが口を開く。
「月読みの塔に精霊がいるかもしれないんだろう?」
「精霊が? ロアに?」
「ええ。そう聞いたことがあります」
 首を傾げるエリスに、ユリエルが適当に返す。まさか未来のファ・ディールで、すでにマナストーンや精霊に会ったなど言えない。
「でも、あのヘンはヤバいですにゃよ?」
「ヤバい?」
 聞き返すキュカに、ニキータは声をひそめ、
「獣人であるオイラが言うのもアレですにゃが……あの辺りは、昔、人間に迫害された獣人達が追いやられた場所ですにゃ。そこで町を作って静かに暮らしていたんですにゃが……十年前の戦争の時、あの辺りにも軍隊が攻め込んできて、町は壊滅。獣人達が虐殺されたと聞きましたにゃ。そのせいか、人間への恨みが深くて、見つかったが最後、むごたらしく殺されるともっぱらの噂ですにゃ」
「……いつの時代も変わりなし、か」
 ジェレミアがつぶやき――再びレニをにらみつけるが、彼は黙ったままだった。
「――まあ、精霊の力を借りるには、遅かれ早かれ行くことになるわけですし。とりあえず行ってみましょう」
 言うと、ユリエルは席を立つ。
「マ、マジですかにゃ?」
「マジですにゃ!」
 怯えるニキータに、テケリがいつものノリで返す。
 行き先が決まった所で、ロジェはレニに目をやり、
「それにしても、どうしてロアなんだ?」
「……別に。深い理由はない」
 それだけ言うと、そっぽを向いて立ち上がった。

 ◆ ◆ ◆

「…………」
 適当な森に停泊し、他の者が昼食の準備をする中――レニは包みを片手に抜け出すと、森の奥へと向かう。
 見上げると、木々の隙間から見える狭い空は、昼を過ぎた頃にもかかわらず、まるで日没間近のような薄暗さだった。
 まだ、ここはロアの端だ。端でこれなのだから、さらに奥まで行くともっと暗くなるのだろう。しかも、それが一日中。

 ――どうして……こんな所に……

 好きな所へ行けばいいのに、それもせず、闇に閉ざされた森の中で……ある意味、宮殿の外に出ることを許されなかった自分と、似たようなものかもしれない。
 そこまで考えて――慌てて思考を振り払う。今は関係のないことだ。
 適当な所に腰を下ろすと、抱えていた包みを広げる。
 中身は、イザベラからもらった月読みの鏡だった。
 ロリマーで入手してから今日まで、包んだままほったらかしにしていたので、あらためてゆっくり観察する。
「『鏡』と言ってはいたが……」
 持ち上げ、ひっくり返したり横から見たりするが――どう見ても、器に見える。
 第一、鏡といえば、普通は手に持つか、壁に掛けて使うものだ。しかしこれは底に足がついていて、水平にしか置けない。これでは空しか映らない。
「『月読み』……か」
 これから向かう場所の名が『月読みの塔』だが、やはりそれと関係があるのだろうか?
「――なにやっとんねん。一人でコソコソと」
 ウンディーネが姿を現し、月読みの鏡に目をやるなり、怪訝な顔で、
「……それ、どこで手に入れたんや?」
「知っているのか?」
 聞き返すと、ウンディーネは妙に人間くさいしぐさで頭をかきながら、
「まあ、な。でも、なんでアンタがそれを……」
「――レニさん、こんなトコでなにしてるでありますか?」
 テケリがこちらに向かってくることに気づき、慌てて鏡を包むと、後ろの茂みの中に隠す。
「……なんで隠すねん」
「いや……なんとなく……」
 ウンディーネに小声で返す。
 幸い、テケリは気づかなかったらしく、ラビを連れてやってくる。妙に不機嫌そうだ。
「……どうかしたのか?」
 たしか、ロジェ達と一緒に昼食の準備をしていたはずだが、テケリは不機嫌顔のまま、
「手伝おうとしたら、ジャマだからどっか行けと言われたであります」
 どうやら、それで不機嫌だったらしい。
 呆れてため息をつくと、
「……そんなもの、出来るヤツに任せればいいだろう」
「ダメであります! 料理だって、やらなきゃ上達しないであります!」
 意外と強い口調で返してくる。
 テケリはさらに口をとがらせ、
「レニさんだって、出来ることはちゃんと自分でやらないと、いつまで経っても一人前になれないでありますよ?」
「……ほっとけ」
 一瞬、こちらに来て間もない頃のことを思い出す。
 なにしろ、これまで自分の身の回りのことなど、頼まずとも誰かが勝手にやってくれたのだ。洗濯はおろか、服のたたみ方も知らない自分に、キュカ達は笑うどころか同情の視線すら向けてくれた。
 ウンディーネはテケリに意地の悪い笑みを浮かべ、
「とかなんとかゆーて、おおかた、つまみ食いでもしようとしたんちゃうか?」
「うっ」
 どうやら図星だったらしい。テケリは慌てて、
「だって、テケリは育ち盛りであります! みなさんよりおなか減るのが早いであります!」
「単に、耐えられるかどうかの問題だと思うが……」
 そう言っている間にも、テケリの腹の虫が鳴る。
「う~。レニさんは、おなか空かないでありますか?」
「では、霞でも食うとしよう」
「……根に持つタイプでありますねー」
 こちらの言葉に、テケリは頬をふくらませる。
 ふと、ラビが、しきりにテケリのポケットのにおいをかいでいることに気づく。
「何か入ってるのか?」
「――あ! そういえば!」
 本人も気づいたのか、慌ててポケットを探る。
「いいもの持ってたであります。あやうく忘れるところだったであります!」
 そう言うと、ポケットからぱっくんチョコを引っ張り出す。
 そう言えば、この前、ジャンカにぱっくんチョコをもらっていたが、まだ食べていなかったらしい。
 とたんにテケリは機嫌をよくしたらしく、ぱっくんチョコを包みごと半分に割ると、
「半分、あげるであります」
 そう言って、片方をこちらに差し出す。

 ――はい、ぱっくんチョコ。半分こね――

 ……ふいに、来て早々、閉じこめられたあの倉庫でのことを思い出す。
「どうしたでありますか?」
 ぱっくんチョコを差し出したまま、不思議そうに首を傾げるテケリに、我に返る。
「……いい。一人で食え」
 首を横に振るが、テケリは差し出した手をひっこめず、
「そういうわけにはいかないであります。仲間を差し置いて、テケリ一人が食べるわけにはいかないであります」
 そのお気楽な言葉に、肩を落とし、
「……いつ、私がお前達の仲間になった?」
「うきょっ!? テケリ的には、もう仲間のつもりだったであります!」
「勝手に決めるな」
 冷たく言い放つが、それでもテケリは食い下がり、
「うー、でもでも、やっぱりテケリ一人で食べるわけにはイカンであります! レニさんだって、おなかが空くであります」
「……わかった。もらっておく」
 しぶしぶ受け取ると、テケリはぱっ、と表情を輝かせ、
「それでいいであります! 一緒に食べたほうがおいしいであります」
「味など変わらんだろうが……」
 何がそんなに嬉しいのだろうか。
 どう考えても、一人で全部食べたほうが腹はふくれる。しかし、テケリはさらにラビにもひとかけ与えている。(ラビに食べさせていいものなのかどうかは知らないが)
 一応受け取ったものの、どうにも朝から食欲が湧かない。テケリに気づかれないよう、チョコをハンカチに包んでポケットにしまう。
「……そういやアンタ、気になっとったんやけどな」
「なんだ?」
 こちらの真上に来たウンディーネを見上げると、彼女は不思議そうに、
「なんで魔法使わへんの?」
「…………」
 単刀直入な問いに、言葉をなくす。
 自分でもわからない。
 魔力を失ったからだと思っていたが――先日のことからして、あながちそうでもなさそうだ。
 事実、あの一件のせいなのかは知らないが、自分の中にわずかながらも魔力が戻っていることを感じる。
 なのに、どうしても魔法が使えない。
「――そうだ! 精霊のちからを借りれば、魔法なんてすぐ使えるようになるであります!」
 チョコを食べ終わったテケリが、なんとも楽観的なことを言ってくれるが、こちらはため息をつくと、
「……あいにく精霊魔法は専門外だ。私が教わったのは、闇の呪術だからな」
「何ゆーとるねん。闇の呪術かて、女神様の力を借りた魔法やってことに変わりはあらへんで。基本は同じや」
「…………」
「というか、闇の呪術やて? そんなん使えるんやったら他の魔法かて楽勝やろ。いけるいける」
「この前、暴走させたばかりだが?」
 皮肉混じりに言ってやるが、ウンディーネは元来の気質なのか、特に気にした様子もなく、
「かまへんかまへん。おかげでジャマな人形一網打尽に出来たし。ケガ人は出ぇへんかったし。結果オーライや」
「…………」
 そう言われてしまうと、もはや呆れるしかない。
「なんやったら、簡単なヤツから練習するか? 付きおうたるで」
「……考えておくよ」
 立ち上がり、服のホコリをはたき落とす。
「キュゥッ……」
「どうした?」
 足下のラビが身をすくませたことに気づき、周囲を見渡す。
「――何か、くる」
 ウンディーネの顔から笑みが消え、険しい表情で辺りを見回す。
「敵か?」
 ほどなくして、誰かがやってくる物音が聞こえ、
「――おい、そこの人間! ここで何をしている!」
 四人の男達が、殺気立った様子で姿を現した。

 ――これが、獣人……?

 場所が場所なだけに、そうだろう。
 全員、体格は大きく、生まれつきなのか年中夜の森にもかかわらず浅黒い肌をしている。年は自分と大差なさそうだ。
 こうして、直接獣人を見るのは初めてだったが、その姿はどう見ても――
「……わからん」
「は?」
「人と獣人の違いだ」
 眉をひそめるウンディーネに、小声で返す。
 どう見ても、人間とたいした差があるとは思えない。せいぜい、耳が長く、犬歯を生やしているくらいだ。
 確かに体格は大きいかもしれないが、人間にだって体格が大きい者はいる。爪やキバも、人間が剣で武装しているのと同じようなものだ。
 ジェレミアはああ言ってはいたものの、どうにも、自分には彼らが迫害の対象になる理由がわからなかった。
「――何コソコソしている!?」
 怒鳴りつけられ、我に返る。
「ここは我々一族の住まう土地! 人間が気安く入ってくるな!」
 今にも襲いかかってきそうな形相で怒鳴りつけてくる。その勢いに、ラビは慌てて茂みの向こうへ逃げ出した。
 その勢いに怯えながらも、テケリは前に出て、
「テ、テケリ達は、単に月読みの塔に用事があって――」
「なんだと!?」
 テケリの言葉に、獣人達が色めき立つ。
「馬鹿者! 余計なことを言うな!」
「あうぅ……」
 獣人達に怯えて、テケリがこちらの後ろに隠れる。
 彼らにとって、月読みの塔は命に代えても守るべき聖地だ。
 そんな所に人間が行くなどと言ったら、怒るのは当然だろう。
 獣人達は怒りで顔を真っ赤にして、
「やはり、お前達もマナストーンを狙ってやってきたんだろう!」

 ――お前達も?

 自分達より先に、誰か来たのだろうか?
 いや、今はそれどころではない。
 ウンディーネも慌てて前に出て、
「ちょい待ちーや! 話せばわかる!」
「うるさい! お前、精霊か? 精霊だろうと、人間に味方するならお前も敵だ!」
「どーゆー理屈やまったく!」
 精霊の声にも耳を貸さず、彼らの体に変化が起こった。
 元々とがっていた爪がさらに鋭く伸び、全身が黒い体毛に覆われていく。
「…………!」
 人の姿をしたものが、獣の姿へと変貌していく光景に、思わず息を呑む。
「――兄さん!?」
 その声に振り返ると、ロジェ達が血相を変えて駆けつけた。さすがにエリスとニキータは置いてきたらしく、姿が見あたらない。
「キィッ!」
 ロジェ達より少し遅れて、逃げたと思っていたラビが茂みから飛び出し、こちらの足下にやってくる。どうやら逃げたのではなく、助けを呼びに行っていたらしい。
「何やってんだお前らは!?」
「あうぅ……」
 キュカに怒鳴られ、テケリは反論も出来ずにこちらの腰にしがみつく。
 ジェレミアも舌打ちして、
「戦うしかないようだな」
 完全に獣化した獣人達を前に、吐き捨てるように言うと、双剣を抜き放つ。
 そして暗い森に、咆哮が響き渡った。

 止める間もなくロジェ達が駆け出し、ユリエルも弓を構え、
「あなたはテケリを連れて船まで逃げてください」
 そう言うと、獣人達に向かって矢を放つ。

 ――逃げろと言われても……

 ついさっきまで静かな森だったというのに、突然戦いの場となり、困惑した顔で辺りを見回す。
 テケリは相変わらずこちらの体にしがみつき、ラビも足下で震えている。
 確かに、自分はテケリを連れて逃げたほうがいいのだろうが――
「――どうする? あいつら置いて逃げるか?」
 見上げると、ウンディーネがこちらの頭上を漂っていた。
「相手は獣人やからな。正直、あいつらだけやと分が悪いで」
 現に、目の前の光景を見ると、獣人達の速さと力に押され気味だ。
 おまけに視界も悪く、相手は獣化している。真っ向勝負となると、さすがのロジェ達も不利だろう。
「……先に逃げろ」
「で、でも……」
 テケリはためらってすぐには逃げなかったが、背中を押してラビと一緒に茂みの向こうに逃がすと――自分はウンディーネと共に、木陰に隠れながら近づく。
「ええか? 余計なことは考えんと、集中するんやで」
 ウンディーネの言葉は適当に聞き流し、こちらに背を向けている獣人に狙いをさだめ、アイススマッシュの呪文を唱える。
 少しながらも魔力は戻っている。
 これくらいの術なら、きっと――
 魔力が集まる手応えに、うまくいったと確信すると、術を発動させる。

 ――こんっ。

「イテっ!」
 氷がぶつかる軽い音と共に、獣人が頭を押さえた。
「……え?」
 地面に転がり落ちた小さな氷を目の当たりにし――目が点になる。
 ウンディーネも思わず頭を抱え、
「うわ、ヘタクソ!」
 その言葉に、反論も思いつかない。
 獣人の脳天に落ちたのは、イメージには到底及ばない、こぶし大の小さな氷だった。こんなものをぶつけた所で、気絶させることはおろか、コブひとつ出来ない。
 しかし、注意を引くには十分だったようで――氷をぶつけられた獣人は、こちらに振り返り、
「なんだテメェ……」
「あ」
 その鋭い眼光に、さすがに凍り付く。
 逃げるべきなのだろうが、まるで蛇ににらまれたカエルのように、足が動かない。
「――兄さん!」
 こちらの状況に気づいたロジェの声が聞こえたが、その姿を確認する余裕などなかった。
 やっとの思いで、一歩、後ろに下がろうと足を動かすが――木の根を踏み外して、その場に倒れ込む。
 そして獣人は、一気に間合いを詰めると、こちらの喉を目掛けて鋭い爪を振り上げた。
 こうなってはもう、切り裂かれるしかない。
 覚悟を決めた瞬間、
「――レニさん!」
 突然、逃がしたはずのテケリが飛び出し、かぶさるように抱きつく。制止するヒマもない。
「――――!」
 とっさにテケリの背に手を回し、来るべき攻撃に備えるが――数秒待っても、それは来なかった。
 代わりに、自分達の前に何かが倒れる音が聞こえる。
 ほんの一瞬の出来事だった。
 それなのに、異様に長い一瞬だったような、そんな気分だ。
 恐る恐る目を開けると、目の前には背中を袈裟懸(けさが)けにバッサリ斬られ、血を流す獣人が倒れていた。
 さらに視線を上げると、肩で荒い息をしながら、血のついた剣を握ったロジェが立っている。
「…………!」
 その光景に、背筋に寒気が走り、息を呑む。
 ロジェは自分の顔に飛んだ血をぬぐいながら、こちらに目をやると、
「二人とも、大丈夫か?」
「あ……ああ……」
 テケリも抱きついたまま、こくこくうなずく。
 斬られた獣人は、しばらくか細い息を漏らしていたが――ほどなくして、目を見開いたまま動かなくなった。
 他も勝負がつきかけているらしく、キュカ目掛けて拳を突き出そうとした獣人の肩に、ユリエルが放った矢が刺さり、相手がひるんだスキを見逃さず、キュカの刃がその喉を斬り裂く。
「――キサマァッ!」
 仲間がやられたことに逆上したのか、獣人の一人がキュカを狙って駆け出すが――そこにジェレミアが割って入り、双剣で舞うように腹を斬り裂き、さらに、ユリエルが心臓に矢を打ち込む。
 どさり、と、獣人は仰向けに倒れ――見る見るうちに、赤黒い血が地面に広がる。
「――ひぃっ!」
 逃げ出す最後の獣人に、ユリエルが二本、三本と矢を放つが、木々に阻(はば)まれ、その姿はあっという間に見えなくなった。

「……逃がしましたか」
 ユリエルは四本目の矢を構えたものの――あきらめたのか、弓を下ろす。
「……な、なにも、逃げた人まで攻撃しなくても……」
 顔面蒼白のテケリがつぶやくが、ユリエルは獣人が逃げ去った方角をにらみつけたまま、
「仲間意識の強い獣人のことです。仲間を殺されたと知れば、すぐに新手がやってきます。少しでも遅らせたかったのですが……」
 ジェレミアも、剣についた血を振り落とし、
「殺さないよう倒す――というのが理想だろうが、殺す気でかかってくる相手に、そんな難しい芸当、そうそう出来るもんじゃない」
 双剣を鞘にしまい、へたり込んだままのこちらをにらみつける。
「…………」
 再び、自分の前に倒れた獣人に視線を落とすと、獣化が解け、元の人間の姿へと戻っていく所だった。その姿は自分達と何も変わりがなく、開かれたままの虚ろな目が、こちらを恨めしそうに見ている。
 もう、ぴくりとも動かない。
 キュカ達に目を向けると、そちらも倒れた獣人達を前に、
「こいつらはどうする?」
「このままにしておきましょう。……彼らも、どうせなら仲間に弔ってもらいたいでしょうし」
「……ああ」
 ロジェもうなずき、さっき、自分が斬った獣人の目を閉じてやる。こうして見ると、まるで眠っているようだったが、漂う血の臭いは本物だった。
 なんとも手際のいいもので、亡骸を一カ所に集めると、胸の前に手を組ませて並べていく。
 その光景を、ぽかんと見ていると――未だ、しがみついたままのテケリの手に、力がこもるのを感じる。
「こ、これ……テケリのせいでありますか?」
「…………?」
 意味がわからず目をやると、テケリは今にも泣き出しそうな顔で、
「だって、テケリ、余計なこと言っちゃったであります……」
 震える声でつぶやき、眼前の血の跡をにらみつける。
 自分も座り込んだまま、血の跡に目をやり――
「……言った言わない関係なしに、こうなっていただろうさ」
 本当の所はわからない。
 わからないが、とりあえずそう言っておく。
 短い黙とうを済ませたユリエルは、全員をぐるりと見回し、
「急いでここから離れましょう。でないと、彼らの仲間達がやってきます」
「…………」
 ジェレミアは、何かもの言いたげな目でこちらをにらみつけていたが――ほどなくして、船の方角へと向かう。
「兄さん、行こう」
「…………」
 ロジェが手を差し出すが、その手は取らずに、なんとか自分で立ち上がる。
「……テケリ。行くぞ」
「…………」
 立つよう促すが――テケリは下を向いたまま、立ち上がろうとしない。
 ため息をひとつつくと、手を差し出し、
「行くぞ」
 テケリはきょとんとした顔で、こちらの顔と手を見比べていたが――ようやくこちらの手を取り、立ち上がった。

「とにかく月読みの塔を探しましょう。空からならすぐに見つかるはずです」
 船で待っていたエリスとニキータに簡単に事情説明をし――船がゆっくりと上昇を始めると、ユリエルはいつものように全員に指示を出す。
「……月読みの塔、か」
 窓の外を眺めながら、ロジェが、どこか浮かない顔でつぶやく。
「……ロジェ?」
 ロジェはこちらの視線には気づかなかったのか、外に目を向けたままだ。
 どうやら完全にロアの中に入ったらしく、いつの間にか周辺が暗くなり、遠くに月が見えた。

 ――月……

 ……何かを忘れている気がする。
 妙な引っかかりを感じながら、ぼんやりと月を眺め――そして、
「あ。」
 あることを思い出し、思わず大声を上げる。
 船内の視線が一斉に集まり、口をふさぐが――言ってからふさいでも意味がない。
「どうしたの? 急に」
「な、なんでもない」
 エリスが聞いてくるが、首を横に振りながら、そそくさと壁際まで後退する。
 幸い、誰も深くは追求しないまま、怪訝な顔をしつつも外へと視線を戻す。
「…………」
「……どないしたん? いきなり」
 姿を現したウンディーネが小声で聞いてくる。
 ロジェ達に背を向けると、こちらも声をひそめて、
「……月読みの鏡を忘れてきた……」
「なんやて!?」
 ウンディーネは目を見開き――そして、呆れきったまなざしで、
「おドジ」
「うるさい!」
 おそらく、あそこだ。
 テケリがやってきて、とっさに後ろの茂みに隠し――そのまま、そこに置き忘れてきたのだ。
「今から取りに行ったらどうや? ちょっと船停めてもらって」
「今さら出来るか!」
 全員、思考は月読みの塔に行っている。今さら、『忘れ物したから戻れ』とは言いにくい。
 ウンディーネも、それくらいはわかっているようだが、
「ンなことゆーても、しゃーないやん。それともなんや? あのままほったらかしにするんか?」
「後で……後で取りに行けばいい」
「その間に、誰かに持ってかれたりして?」
「……くっ……!」
 もっともすぎて、反論が思いつかない。
 やはり、ここは素直に引き返してもらうべきか……いや、そんなことをすれば、さすがに全員、いい顔はしないだろう。それに今戻れば、他の獣人と鉢合わせるかもしれない。
「――おい。あれはなんだ?」
 ジェレミアの声に振り返ると、月明かりで照らされた藍色の空に、黒い点のようなものが見えた。それも複数の。
 自分も窓に近寄り、夜空を舞う黒い影に目をこらす。
「あれは……鳥の群れじゃにゃいですかね?」
 ニキータの言う通り、たしかに鳥に見えたが――
「――違う! あれは……バットムの群れだ!」
 飛び方といい、形といい、間違いない。
 何百羽というバットムの群れは、真っ直ぐこちらに向かって飛んできて――あっという間に、船を囲む。
「おいおい! なんだこいつら!?」
 すさまじい羽音と鳴き声に囲まれ、思わず耳をふさぐ。
 ほどなくして、一羽のバットムが船内に入り込んできた。
「キィッ!」
 よほど驚いたのか、ラビが慌ててこちらの腕の中に逃げ込む。
 腕の中で震えるラビを、呆れた目で見下ろし、
「……たかがバットム一匹だろう」
「キュゥゥ……」
 体もラビのほうが大きいと思うのだが、怖いものは怖いらしい。
 見上げると、バットムは何をするでもなく、天井近くをぐるぐる飛び回る。
「まさか……誰かの指示を受けたMOBなのでは?」
 たしかに、野生のバットムが、突然船を囲むなど考えられない。
 そうなるとユリエルの言う通り、誰かの指示を受けたMOBと考えたほうが自然だろうが、一体誰が……
 ふいに、エリスが、
「ねぇ。どこかに案内しようとしてるんじゃないの?」
 その言葉に、バットムが呼応するように、エリスの頭上を飛び回る。
 エリスは頭上を飛び回るバットムを見上げたまま、
「うん。やっぱりそうよ。『ついてこい』って言ってるんだわ」
「……わかんのか?」
「当然よ」
 半信半疑のキュカに、自信たっぷりにいい加減なことを言い張る。
「テケリもそう思うであります! バットムさんについていくであります!」
 テケリまでもがそんなことを言い出す。
 一同、さすがに呆れた顔をするが――ほどなくして、
「まあ……この状況ですし。ここは二人を信じて、このバットムについて行くとしましょう」
「やれやれ……」
 ユリエルの言葉にジェレミアがため息をつき、他に反論も出ない。ラビだけは嫌そうな顔をしていたが。
 船内に入り込んだバットムは、しばらく天井付近を飛び回っていたが――やがて、外へ出て行く。
「……やはり、誰かの指示を受けたMOBだったようですね」
 ユリエルの予想通り、船を囲んでいたバットムの群れは、こちらを先導するように船の前を飛び始める。
 そのバットムの群れの後をついていくと――一軒の、不気味な屋敷へとたどりついた。

「……オバケ屋敷みたいであります」
 屋敷の鉄門の前に立つなり、テケリが不安げにつぶやく。 
 小高い丘の上に建つ、黒い森に囲まれた小さな屋敷――屋敷の外壁にはツタがびっしりと生い茂り、それを囲む鉄門には錆びが浮いている。周辺には、ここまで案内してくれたバットム達が飛び交っていた。
 ニキータも、後ろのほうでシッポを丸め、
「にゃんか出てきそうですにゃ。オイラ、オバケとかそういうのは苦手ですにゃ~」
 本気で怖いらしく、今にも逃げ出しそうだったが、それに首を傾げ、
「……ただの屋敷だろう」
 こちらの言葉に、テケリは頬をふくらませ、
「レニさんのおうちは元々オバケ屋敷みたいだから、この怖さがわからないであります!」
「なんだと!?」
「へ~。やっぱり葬儀屋だから華やかに出来ないとか? 大変ねぇ……」
 テケリを殴るレニに、エリスが気の毒そうにわけのわからんコメントをする。
 ロジェは、鉄柵越しに屋敷を眺め、
「……誰か住んでるみたいだ」
 ロジェの視線の先に目をやると、木々に隠れて見えにくいものの、窓から明かりが漏れている。
 それに――
「……招かれているようですね」
 ギギッ、と、目の前の鉄門が勝手に開き、屋敷の玄関まで案内するように、並んで立っていた灯籠に次々と火が灯る。
「い、行くですかにゃ!?」
「そりゃ、招待されたからには、行かなきゃ失礼だろ」
 逃げ腰になっているニキータの首根っこをつかんだキュカを先頭に、ぞろぞろ屋敷の敷地内へと入る。
 自分も後に続こうとしたが――
「……待て」
 ジェレミアに呼び止められ、足を止める。
 近くにいたユリエルも足を止めるが、彼女は先に行くよう言い――姿が見えなくなってから、あらためてこちらに目をやり、
「お前に聞きたいことがある」
「……なんだ?」
 ジェレミアはこちらをにらみつけ、
「お前は、なぜ最初にビーストキングダムを襲撃した?」
 一瞬なんの話かわからなかったが――すぐに、こちらの世界に来る前、Ψ計画が始まって間もない時のことだと気づく。
「……単純に、近かったからだ。他国との交流もなく、前線基地として利用するのに都合がよかった」
「本当にそれだけか? 相手が獣人だからといった考えが、少しでもあったりしなかったのか?」
「…………?」
 さらなる問いかけに、眉をひそめる。
 どうやら種族について聞いているようだが、少なくとも自分は、そんなこと考えたこともなかった。
 しかし、他の者はもしかすると――
「あたしは、獣人がペダン兵に虐殺される光景を目の前で見た。信じられなかったさ。同じ人間……同じペダンの兵士でありながら、まるで血に飢えたケダモノのようだった」
「…………」
 こちらが黙っていると、ジェレミアはイラついた様子で、
「――わかっているのか!? お前がペダンにそれをさせたんだぞ!」
 普段無口なジェレミアが、いつになく感情的に怒鳴りつける。
 何も答えられないまま、暗い森が静まりかえり――しばらくして、ぽつりと、
「……ジェレミア。お前にとって、ペダンはどんな国だった?」
 こちらの問いに、ジェレミアは怪訝な顔で、
「…………? 聞いているのはこっちだぞ」
「いいから教えてくれ。どんな国だった?」
 ジェレミアは少し考えてから、
「……叔父上が、命を賭けて守ろうとした国、だ」
「叔父……大臣か」
「そうだ。……両親を失ったあたしを引き取って、実の娘のように育ててくれた。だからあたしは、軍に入った」
「…………?」
 意味がわからなかった。
 大臣の姪なら、特に何をせずとも安定した生活を送れるはずだ。それが、なんだって軍隊に入る必要があるのか――
 こちらの疑問を察したのか、ジェレミアはようやく肩の力を抜くと、夜空を見上げ、
「あたしは、政治だのなんだの、小難しいことをやるのは性に合わない。叔父上が政治でペダンを守るなら、あたしは、力でペダンを守る。それだけだ」
 なんとも単純明快で、わかりやすいものだった。
 しかしジェレミアは、再び拳を握りしめると、
「だが、現実は……」
「…………」
 冷たい風が吹き、ざわざわと木々がこすれあう音に混じって、バットムの羽音が不気味に響く。
 それ以上は何も言わず、屋敷の方角へ足を踏み出そうとして、
「――待て。お前にとって、ペダンはどんな国だった?」
「…………」
 背を向けたまま、足を止める。
「あの戦いで、ペダンは侵略国として世界に恨まれ、数え切れないほどの兵が死に、生き残った民も故郷を失い……お前の本来の役目は、ペダンを守ることだったんじゃないのか? 代々受け継いできた使命じゃなかったのか?」
「…………」
「答えろ! 幻夢の主教!」
「…………」
 ……何も、答えられるわけがなかった。
 ただ一つ、答えられることは――
「遠い……遠い国」
「…………?」
 意味がわからなかったのか、ジェレミアは眉をひそめるが、かまわずに、
「私にとって、ペダンは……手を伸ばしても届かない……遠い、遠い国だ」
「…………」
 それだけ答えると、後は無言のまま、屋敷へと向かった。