7.それは真実かまぼろしか - 2/4


「おや、来ましたか」
 開きっぱなしになっていた玄関の扉をくぐり、中に入ると、ユリエルがこちらに気づいて振り返る。
「ねえ。なんの話してたの?」
「…………」
 少し遅れてジェレミアもやってきたが、エリスの問いには答えず、不機嫌そうに中を見渡し、
「……誰もいないのか?」
 ぽつりとつぶやく。
 正面の階段両脇には扉がひとつずつ。天井は吹き抜けになっていて、ここから二階の扉が三つほど見えた。
 清掃が行き届いているのか、床に敷かれた赤いじゅうたんには汚れひとつなく、天井のシャンデリアが広いエントランスを照らしている。
 見たところ、屋敷の者はまだ姿を現していないらしい。明かりがついていて、さらにわざわざ入り口まで開けてくれたのだから、無人ということはないと思うが――
 ふいに、二階に目をやると、ゆっくりと中央の扉が開いた。
 まるで全員そろうのを待っていたようなタイミングだ。扉の向こうから、一人の男が姿を現す。
 漆黒の衣装とマントを身にまとい、銀髪を肩の辺りまで伸ばした男だった。年齢はユリエルと同じくらいに見えたが、落ち着いた雰囲気のせいか、もっと年を取っているようにも見える。
 彼は眼鏡を軽くかけ直し、階段の上からこちらの顔ぶれを見渡すと、
「――ようこそ。我が屋敷へ」
「バットムを使って、あたし達をここまで連れてきたのはお前か?」
 あいさつもなしに、真っ先に、ジェレミアが警戒心むき出しに男をにらみつける。
 男は階段を下りながら、
「驚かせたのは悪かったが、まずは自己紹介といこうか。私はリィ。この屋敷の主だ」
 怪しいのはたしかだが、敵意は感じない。こちらも順番に名乗り――それが終わった辺りで、今度は一階の扉が開き、一人の女が姿を現す。
「――イザベラ!?」
 思わず、その名が口から飛び出す。
 現れたのは、ロリマーで出会った女、イザベラだった。
 イザベラはこちらの前まで来ると、
「来たか。待っていたよ」
 言うと、魅惑的な微笑みを浮かべる。
 すると突然、キュカがこちらの胸ぐらをつかみ、小声で、
「――おい! なんでお前が、あんな美女と知り合いなんだよ!?」
「なんでと聞かれても……」
 心底悔しそうに問いつめてくるキュカに、困った顔で返す。
「彼女はイザベラ。私の古くからの友人だ。キミ達をここへ案内したのは、彼女の頼みでね」
 リィはイザベラの隣に立つと、簡単に紹介する。
 イザベラはリィに目をやり、
「こんな所で立ち話もなんだ。執事達にお茶の準備をするよう言っておいた。続きは奥でしたらどうだ?」
「ふむ。それもそうだ」
 うなずくと、リィはイザベラが出てきた扉へと向かい、
「ついてきたまえ。何も、取って食いはしない」
 言うと、自ら一行を屋敷の奥へと案内した。

「……なーんで、お前があんな美女と知り合いなんだよ? 一体どこで知り会ったんだ?」
 屋敷の奥へ案内されている間も、キュカは前を歩くイザベラをちらちら見ながら、同じ質問をしつこく繰り返す。
 さすがにうんざりした顔で、
「……だからロリマーで会って、少し話をしただけだ」
 こちらも同じ答えを繰り返すが、納得が行かないらしく、疑いの目でにらみつける。
 人数が多いせいか、通されたのは広い食堂だった。中央には白いテーブルクロスが掛けられた長机があり、その上座にリィが座り、その斜め横の席にイザベラが座る。
 自分達も適当な席に座るが――壁に目をやると、数本の剣が飾られていた。
 飾りとしては地味な――むしろ、飾りとしては相応しくない剣だ。
 首を傾げつつも、ちゃっかりイザベラの向かいの席を確保したキュカの隣に座る。
 全員が席に着いた所で、リィは、並んで座ったレニとロジェを見比べ、
「さっきから気になっていたが、キミ達は双子かね?」
「あ、ああ」
「……それがどうかしたか?」
 聞き返すと、リィは扉に目をやり、
「うちの執事も双子でね」
「――お待たせいたしました」
 扉が開き、ティーセットを乗せた台車を押して、黒いタキシード姿の執事が姿を現し――その後からもう一人、こちらは白いタキシード姿の執事が現れる。
 髪の色こそ違うものの、顔はまったく同じだった。
「…………」
「感想は?」
 隣のキュカに小声で聞かれ、こちらも小声で、
「気にしたことはなかったが……同じ顔が二人いるというのは、少し不気味かもしれない……」
 初めて自分達以外の双子を見たが、傍目には、自分達もこんな風に見られていたのだろうか……
 キュカも二人の執事を見比べながら、
「ん~……まあ、あっちよりは、まだお前らのほうがかわいげがあるからマシだと思うぞ」
「かわいげ……?」
「二人とも、そういう失礼な話するなよ……」
 聞こえたのか、ロジェが小声で注意する。
 リィは、二人の執事がお茶と焼き菓子を並べ終わり、退室するのを待ってから、
「さて、と。キミ達は精霊を連れているようだが……目的は、月読みの塔の精霊かな?」
「わかるでありますか? テケリ達が精霊を連れてるって」
 一番端に座ったテケリが目を丸くし――ウンディーネが姿を現す。
 ウンディーネは、リィとイザベラを順に眺め、
「ふぅん……おかしい思っとったけど、アンタら、やっぱ人とちゃうな? どっちかっちゅうと、闇の世界のもんや」
「なんだって?」
 レニを除く全員が驚く中、リィは笑みを浮かべ、
「確かに、我らは魔界の住人。とはいえ、人間界に住む変わり者の一人や二人、いた所で問題あるまい?」
「フフッ……特にこいつは変わり者でな。興味があるのだよ。人間という生き物に」
 言いながら、イザベラは立ち上がり、壁に飾ってあった剣を手に取る。
 見たところ、特別装飾がしてあるわけでもなく、部屋の雰囲気に不釣り合いだ。素人目にも高価なものとは思えない。
 イザベラは、テケリの向かいに座っていたニキータに剣を差し出し、
「キミ。この剣の価値がわかるかね?」
「は、はい!? オイラですかにゃ!?」
 突然の指名に、驚いて顔を上げる。
 ニキータはイザベラから剣を受け取ると、しげしげと鑑定し――ほどなくして、
「その……言いにくいですにゃが」
「ハッキリ言ってくれて構わんよ」
 リィに言われて、ニキータは剣に視線を落とすと、
「……これ、ただのブロンズソードですにゃ。刃も欠けてますし、錆びも浮いてますし……二束三文にもにゃらないですにゃ」
「だろうな」
 ニキータの鑑定に、リィは満足げにうなずく。
 イザベラは困った笑みを浮かべ、
「まったく、こいつは困ったヤツでな。趣味で古い武器や道具を集めているんだ。そのどれもが、価値のないガラクタのようなものばかりで、執事達も困っていたよ」
「おいおい、ガラクタはないだろう。私にとっては価値のあるものさ」
「こんな剣がぁ?」
 ニキータの隣で、一緒に剣を見ていたエリスが無遠慮きわまりないことを言うが、リィは笑みを浮かべ、
「その剣は、歴史に名を刻んだ剣豪の父が使っていたものだそうだ。彼は英雄となった後も、父の教えを忘れないよう、ずっとその剣を手放さなかったという」
「は、はあ……」
 ニキータはイザベラに剣を返し、剣を受け取ったイザベラは、今度はリィにその剣を手渡す。
 リィは剣の柄を逆手に握り、錆びた刀身に視線を落とすと、
「……私が『価値がある』と感じるのは、素晴らしい物語を持つもの」
 刀身に指を滑らせ――顔を上げると、なぜかこちらと目が合った。
「どんなに優れた武器であっても、物語も何もないものはクズ同然。逆に、ただの錆びた剣であろうとも、素晴らしい物語があるのなら――私は、それに価値を感じる」
「錆びた剣でも、か?」
「そうだ」
 こちらの言葉に、彼はひとつうなずくと立ち上がり、
「魔界には、そういったものがなくてね。長命でありながら、その長い『時』を持て余している。なのにキミ達人間は、我らと比べるとはるかに短い『時』しか生きられないというのに、その間に素晴らしい物語を作る。……実に興味深い」
 言うと、剣を元の場所に戻す。
「まったく、道具はただの道具に過ぎないというのに、それ以外のものを求めるとは困ったヤツだよ」
 イザベラは呆れた顔でリィを見やるが、リィは特に気にした様子もない。
「えーと、つまり……リィさんは、人間が好きだからここに住んでるでありますね?」
 テケリの言葉に、リィはきょとんとした顔で振り返り、
「……好き? 人間が?」
 首を傾げるリィに、テケリは妙に自信たっぷりな笑みを浮かべると、
「だってキライだったら、人間の世界に住んだりしないであります!」
 その単純な言葉に、リィはしばらく、首を傾げたまま考えていたが、
「まあ……たしかに、嫌いではないな。人間の弱い所も、愚かな所も」
 苦笑混じりにうなずく。
「それで? とりあえず、あんたが変わり者だということはわかったが、なぜあたし達を屋敷に招いたんだ?」
 これまで、イザベラの隣で黙っていたジェレミアが、話を戻す。
「ああ、すまない。その話だったな」
「キミ達、月読みの塔へ行くのだろう? だったら気をつけたほうがいい」
 リィではなく、今度はイザベラが口を開く。
「あの塔は獣人達の聖地。人間が不用意に近づくと、殺されてしまうぞ」
「…………」
 その言葉に、さっきの獣人達のことを思い出す。
 ロアの端であれなのだ。獣人の聖地となると、なおさら危険だろう。
 しかしイザベラは、見透かしたかのように、
「だが、行くのだろう?」
「……ああ。マナの教団が、マナストーンを狙っているらしい」
「ウチんトコのマナストーンも持ってかれてもーたしな。他の精霊達も心配や」
 ロジェがうなずき、ウンディーネも眉間にシワを寄せる。
「教団はマミーシーカーという人形を使っている。それが来たら、さすがの獣人達も歯が立たないはずだ」
「ふむ……」
 ジェレミアの言葉に、リィはあごに手を当て、
「そうだな……バドラなら、話を聞いてくれるかもしれん」
「バドラ? 獣人ですか?」
 ユリエルが聞き返すと、彼はうなずき、
「彼女は獣人達の長老であり、『月読み師』と呼ばれる占い師だ。……私がここに屋敷を構え、暮らせるよう、最初に交渉したのが彼女でね。どこにでも、どんな種族にも、変わり者というのがいるものさ」
「私達からすれば、キミ達は人間の変わり者、といった所かな?」
 イザベラの言葉に、ロジェ達が苦笑いを浮かべる。
「……しかし我々は、さっき、獣人達を殺したばかりだ」
 こちらの言葉に、しん……と、室内が静まり返る。
 自分の前に置かれたティーカップに視線を落とすと、
「そのバドラとかいう獣人がいくら変わり者とは言え……同胞を殺した連中の話など、聞いてくれるのか?」
「…………」
 こちらの言葉に、リィはしばし目を伏せて考えていたようだが――ほどなくして、
「……ロアの獣人達は、生まれついての誇り高き戦士だ」
 そして、こちらに目をやると、
「戦って死んだのなら、本望だろう」
「……どうだか」
 つぶやき、ティーカップを手に取る。
「やっちまったもんは、今さらどうにもなんねぇだろ」
「…………」
 キュカの言葉に、一瞬、手を止めるが――無言のまま、お茶を口に運ぶ。
「……他に手がないなら、当たってみるしかありませんね」
 結局、いつものようにユリエルがまとめる。
「まあ、細かいことはキミ達が決めるとして……今、執事達が部屋の準備をしている。今日は泊まっていくといい」
 リィのその言葉を合図にするかのように、扉が開き、執事達が現れた。

「うわ~、フカフカであります~!」
 隣のベッドの上で、テケリとラビが無邪気に跳ねて遊んでいるのを眺めながら、ぽつりと、
「……なぜ、お前と私が同じ部屋なんだ?」
 ロリマーでもそうだったが――まあ、気を遣わなくていいという点では、楽かもしれない。
 テケリに背を向けてベッドに腰を下ろし、そのまま仰向けに横たわる。この世界に来てからというもの、野宿だったり安宿の固いベッドだったりと、それらと比べれば雲泥の差だ。
 屋敷の雰囲気といい、なんとなく、ミラージュパレスを思い出す。
 なぜか、懐かしい気分だった。
 しばらく、テケリとラビがベッドの上で跳ねる音が響く。
 その音を聞きながら、
「……なぜ、あんなことをした?」
 ぼんやりと天井に視線を向けたまま、ぽつりとつぶやく。
「? なんでありますか?」
「なぜあんなことをしたかと聞いているんだ」
 よく聞こえなかったのか、跳ねるのをやめるテケリに、あらためてもう一度言う。
 体を起こし、テケリに背を向けたまま、
「……ロジェがもう少し遅ければ、自分がやられていたんだぞ。わかっているのか?」
 ようやく意味がわかったのか、テケリは『ああ』とうなずき、
「だって、レニさんがあぶなかったであります」

 ――全然わかってないな……

 がっくりと肩を落とす。
 なんと言えばいいのか考えた末、
「……もう、二度とするな」
 短く、それだけ言う。
 しばらく返事を待つが――
「聞いているのか?」
 振り返ると、テケリはベッドの上に立ったまま、
「……それは、約束できないであります」
「なに?」
 テケリは腕を組み、しばらく考えていたが、
「さっきみたいなことがあったら、きっとテケリは、何度でも同じことをするであります」
「…………」
 その言葉に、しばらく唖然とするが――
「――ふざけるな! さっきも言ったが、自分が死んでいたかもしれないんだぞ!? それでもいいのか!?」
「仲間が傷つくのは、もっとイヤであります!」
「…………」
 思わぬ反論に言葉を無くしていると、テケリはベッドの上に腰を下ろし、
「……テケリ、いつもみなさんにかばってもらったり、助けてもらってるであります。だから、テケリに出来ることはテケリがするであります」
「…………」
 その言葉に――しばらく考えた末、再びテケリに背を向けると、
「それでも……ああいうことはするな。身代わりに死なれたりしたら、気分が悪い」
 なんとなく胸元に手をやり、服越しにあの指輪に触れる。
 こちらの言葉に、結局テケリはうなずかず、代わりに、
「……レニさんも、無茶しちゃダメであります」
 そう言うと、部屋を出て行く。
「…………」
 足音が遠ざかっていくのを聞きながら――ため息をつくと、再び仰向けに横たわる。
 もしかすると、テケリはさっきの獣人達のことに責任を感じているのかもしれない。
 だが――もし自分が、かつてのように魔法を使えたら?
 おそらく、殺さずとも、その場を丸く収められただろう。
 そうすれば――
「……あの子、両親を流行病で亡くしとるらしいな」
 ふいに、ウンディーネがこちらの真上に姿を現す。
「一緒におるみんなが家族みたいなもんなんやろ。堪忍したり」
「……フン」
 寝返りをうつと、目を閉じる。
 なんともお節介な精霊は、ため息をつくと姿を消した。おそらく、テケリの元へ行ったのだろう。
 とにかく、ひどく疲れた。
 考えることをやめ、しばらくまどろんでいると、人の気配がした。
 一瞬、テケリが戻ってきたのかと思ったが……それにしては、足音も、扉が開く音もしなかったような――
「……キミ」
「―――!」
 想像していなかった声に、一瞬で意識が覚醒する。
 横になったまま、目だけを上に向けると――いつの間にやってきたのか、イザベラがこちらを見下ろし、微笑んでいた。

 無言で起きあがり、にらみつけるが、イザベラはこちらの反応をおもしろがるように、
「驚かせてすまないな。寝顔がかわいかったものだから、つい」
「…………」
 悪びれる様子もなく、クスクスと笑う。
「――キィッ!」
 すると突然、ラビが膝上に乗ってきて、イザベラに向かって威嚇を始めた。
「……お前、テケリと行かなかったのか?」
 どうやら、勝手にこちらの隣で眠っていたらしい。
 なぜかイザベラに敵意むき出しのラビを、なだめるように抱きかかえると、
「そういえば、まだ聞いていなかったな。お前はロリマーで何をしていたんだ?」
 こちらの問いに、イザベラは肩をすくめ、
「十年前の戦……その時に知り合ったヤツがいてね。マナの教団といい、最近、気になることが多いものだから会いに行ったんだ。……ところで月読みの鏡はどうした?」

 ――うっ!?

 出かけたうめきを、かろうじて呑み込む。
 イザベラは鼻先がつきそうなくらい、ずいっ、と顔を近づけ、
「まさか――『無くした』なんてことはないだろうね?」
「い、いや、船に置いてきただけだ」
 自分でも見え透いた嘘だとは思ったが、イザベラは顔を離すと、
「フフッ……では、そういうことにしておこう。なんにせよ、そいつだよ。あの予言と共に、月読みの鏡をキミに届けるよう頼んで来たのは」
「…………」
 内心冷や汗をかきつつも、平静を装い、
「それで……リィはともかく、お前がこの世界に来た理由はなんだ? お前は、何か目的があって来たんじゃないのか?」
 リィが、人間に興味があってこの世界に住んでいるという話は、不思議と信じることが出来たが――イザベラは、何か違うものを感じた。
 イザベラは考えるそぶりを見せると、
「そうだな……キミには特別に教えてやろう。私の目的は、次の王を見つけ出すこと」
「王? 魔界のか?」
 意味がわからず聞き返すと、イザベラは窓枠にもたれかかり、
「魔王の予言でね。世継ぎがこの世界のどこかに生まれるらしい。だから人間界に下りたことのある私とリィが使わされたのだよ」
「世継ぎ……人間が?」
 にわかには信じられない話だ。
 そもそも、魔界の王なら魔界の者がなるべきだ。
 それなのに、魔族にしてみれば寿命も短く、か弱い存在であるはずの人間が王になるなど――例えるなら、ラビが自分達の王になるようなものだ。
「もちろん、大勢の者が反対している」
 こちらの言わんとする事がわかったのか、イザベラは腕を組み、
「だが、王が予言したのならそうなのだろう。私はそれを見つけ出す。たとえ何百年かかろうとも」
 人間にとってはなんとも気の長いことを言うと、こちらに背を向け、窓の外に目をやる。
「お前は……いいのか? 人間などが王になっても」 
 イザベラは無言のまま、窓の外を眺めていたが――ぽつりと、
「……魔界の住人は、長い時を生きながらも変化に乏しい。だが、人間界はめまぐるしく変わっていく……リィが人間の世界に惹かれたのも、その変化の激しさゆえだ。魔界では考えられない」
「…………」
「退屈な魔界に、これまでにない、まったく新しい王が立つ……魔界がどう変わるのか、考えただけでゾクゾクする」
 こちらに背を向けたまま、イザベラは肩を震わせ、心底楽しそうに笑う。
 少なくとも彼女は、人間が王になってもかまわないらしい。むしろ、歓迎しているようだ。
「……それで、魔王候補は見つかったのか?」
「ああ。三人ほど」
 彼女は振り返ると、特に隠す様子もなく、
「マナの教団の光の主教……まだ直接会ってはいないが、ヤツが第一候補だ」
「アナイスが?」
 一瞬、悪い冗談だろうと思ったが――イザベラは自信たっぷりに、
「知り合いなのかね? だったら話は早い。私の見立てでは、王の気質はある」
「…………。あれにか?」
 やはり冗談だ。冗談に違いないと確信するが、彼女はこちらの心中を見透かしたのか、
「私の目を疑っているようだね。だが、魔界の王だ。深い闇……暗き心……それを知り尽くした者にこそ相応しい」
「アナイスが……そうだというのか?」
 膝の上に視線を落とすと、不思議そうにこちらを見上げていたラビと目が合う。
 魔界の王云々はどうでもいいとして――アナイスは幼い頃からよく知っているが、時々、わからなくなることがある。
 不気味なほど優しい時もあれば、時折、ゾッとするような残酷なことを平気でする。Ψ計画の時も、アニスの黒い鏡に心を囚われていた自分やバジリオスと違って、アナイスだけは自分の意志があったような――
「…………?」
 ふいに、頬に手を当てられ、思考が停止する。
 顔を上げると、息が届きそうなくらい、イザベラの顔が近くにあった。
 イザベラは目を細め、唇を笑みの形に歪めると、
「そして二人目は――キミだよ。レニ」
 その言葉に、完全に凍り付いた。

「……なっ……!」
 ようやく声を出せたのは、ずいぶん経ってからだった。
 イザベラは、こちらから手を放すと、
「驚くことではあるまい? 素質は十分だ」
「なに……馬鹿なことを! 冗談じゃない!」
 ようやっと声を絞り出すが、イザベラは笑いながら、
「安心したまえ。まだ『候補』に挙がっているだけだ。決まったわけではない」
「それだけでも十分気味が悪い!」
 イザベラから逃げるように、座っていたベッドから立ち上がると、膝に乗っていたラビが床に転がり落ちる。
「この世界に、どれだけの人間がいると思っているんだ? なぜ私が、その候補の一人になる?」
 問いつめるが、イザベラは呆れたように肩をすくめ、
「おいおい……それはまるで、なぜ自分が双子として生まれたのかと聞いているようなものだぞ?」
「…………」
 その返答に、言葉を無くす。
 ふいに、なぜ自分は、幻夢の主教となるべく生まれてしまったのか、自問自答していた頃のことを思い出す。
 確率の問題ではないのだ。そうなるべくして生まれてしまった者にとっては。
 イザベラは窓の外――夜空の星を見上げ、
「確かに、人間は山ほど……それこそ、星の数ほどいる。その中のたった一人を見つけ出すなど、まるで砂漠に落とした針を見つけ出すようなものだ」
 そしてこちらに目をやると、笑みを浮かべ、
「ならば、自分が出会った者の中から選んだほうが、手っ取り早いと思わないかね?」
「……だったら、通りすがりの者でもいいということか?」
 こちらの言葉に、イザベラはクスクス笑いながら、
「出会いというのも、ひとつの奇跡だよ。今、こうしてキミと私が話をしていることも、奇跡だ」
「…………」
 うまくはぐらかされたような気がしたが、どのみち、満足の行く回答が来るとは思えない。
「……さっき、候補は三人と言っていたな? 最後の一人は誰だ?」
「それは、知らないほうがいい」
 イザベラは意味深な笑みを浮かべると、こちらの前を通り過ぎ――部屋を後にする。
「キュゥ……」
 足下で、ラビが心配そうにこちらを見上げていたが、無視してベッドに座り込む。
「私が……魔王候補だと……?」
 たちの悪い冗談だ。
 イザベラも、まさか本気ではないだろうが――それなのに、得体の知れないものに背筋が寒くなり、冷たい汗が噴き出す。
「――レニさん、ゴハンの時間であります~」
 イザベラと入れ替わるように、テケリが部屋に戻ってくる。どうやらイザベラには気づかなかったようだ。
「お昼食べ損ねたから、早めに用意してくれたであります。――レニさん?」
 テケリはこちらの顔をのぞき込むと、いぶかしげに、
「……大丈夫でありますか? 顔、真っ青であります」
「ああ……大丈夫だ」
 なんとかそれだけをつぶやくと――そのまま、ベッドに倒れ込む。
「レニさん、ゴハンはどうするでありますか?」
「……いらん」
 それだけ言うと、テケリに背を向ける。
 しかしテケリは、わざわざ回り込んでこちらの顔をのぞき込むと、
「具合が悪いでありますか? ロジェを呼んで――」
「余計なお世話だ」
 再び寝返りをうって背を向けるが、テケリは再び回り込んできて、
「でも、ちゃんと食べなきゃダメであります。なんなら、テケリがここまで持ってくるであります」
「いらないと言っている」
 やはり背を向けるが、テケリはしつこく回り込んでくる。
 それを数回繰り返し――起きあがると、
「……わかった。部屋まで持ってきてくれ」
 結局、根負けしてそう頼むと、やっとテケリは部屋を出て行った。
 壁越しに足音が遠ざかっていくのを聞きながら、ぽつりと、
「……なんで悩んでいたんだっけ?」
「キュゥ?」
 傍らで見ていたラビは、ありもしない首を傾げるように、丸い体を傾けた。

 ◇ ◇ ◇

 明らかに他の部屋よりも立派な扉に、ロジェは思わず足を止めた。
 場所的に、屋敷の一番奥だろう。一瞬、入っていいのかためらったものの――ゆっくり扉を押し開け、中をのぞき込む。
「礼拝堂、か……?」
 魔族でも、神に祈りを捧げるのだろうか?
 中に入り、あらためて見渡す。
 礼拝堂といっても、奥に小さな祭壇と、さらにその奥の台座の上に、ステンドグラスを背に、杖を持った女神像があるだけの簡素なものだった。
 奥の石像の側まで行き、見上げる。
 とても穏やかな微笑みを浮かべた女神像は、先端に水晶がついた古びた杖を、大事な宝物のように抱きかかえていた。
 屋敷の主が魔族なのだから、てっきり、こういう所に飾るのは悪魔像だろうと思っていたが――それが偏見だと気づき、軽い自己嫌悪に首を横に振る。そんなことを決めつけられるほど、自分は魔族のことを知らない。
 あらためてよく見ると、この女神像のために杖が作られたというよりも、この杖のために女神像が作られたような印象を受けた。現に、石像よりも杖のほうが古く、長い柄には魔法処理の施されたテープを巻いて、修理された跡まである。
 先端に取り付けられた水晶も、半分は割れて失われてしまったらしく、残り半分にも細かい亀裂が走り、触れれば、簡単に崩れてしまいそうだ。
「…………」
 しばらくの間、炎に照らされ、オレンジ色に光る水晶をぼんやりと眺める。
「――失礼します」
 その声に振り返ると、いつの間にか、黒の執事が扉の前に直立不動で立っていた。
 彼は軽く一礼すると、
「お食事の準備が整いました。食堂へどうぞ」
「あ、ああ」
 うなずくと、もう一度女神像を見上げる。
 女神像は相変わらず優しい微笑みを浮かべ、杖の水晶が、今度は白く輝いた。