皆が寝静まった頃、再び屋敷を抜け出し、歩いていると、小さな湖にたどり着いた。
――結局、聞きそびれてしまったな……
適当な場所に腰を下ろすと、持ってきた包みを広げ――なんとか回収した月読みの鏡を前に、首を傾げる。
使い方をバドラに聞こうと思っていたのだが、どうやら自分で考えるしかなさそうだ。
「この形……何か入れるのか?」
どう見ても、器に見える。
やはり勝手についてきたラビが、器に入って遊んでいるが、無言でそれをつまみ出し、湖に目をやる。
水面は月を映し出し、まるで黒い鏡のようだった。
何かを入れるとすれば――
「ウンディーネ。いるか?」
「なんや?」
ほとんど間を置かず、ウンディーネが姿を現す。
無言で月読みの鏡を差し出すと、ウンディーネも察したのか、器に水を注ぐ。
しばらくして、波紋が消え、水面が鏡のように見えるが――
「……これだけでは駄目か」
ため息混じりにつぶやく。
儀式や占いで使用していたのなら、水を注いで使う水鏡だと思ったのだが、やはり、魔力がないのでは――
「――月の光は必要かしら?」
姿を現したルナが、自らの光で水面を照らし、まぶしさに目を閉じる。
水が光を反射しているのかと思ったが――違う。
よく見ると、月読みの鏡がルナの光を吸い込み、風もないのに水面が激しく波打つ。
光の吸収が終わった頃、質素な木の杖を持った、長い白髪の女が水面に佇んでいた。
「キュゥッ!」
驚いたのか、膝に乗ってきたラビをなだめながら、女をにらみつける。
「……何者だ?」
頭には鈍い金色の冠、白い毛皮で縁取られた深紅のロングドレスというなんとも派手な格好だったが、妙に落ち着いた雰囲気のせいか、嫌味な感じはしなかった。
見た目は若く見えたが、もっと年老いても見える。もしかすると、魔力で老化を遅らせているのかもしれない。
女は目を閉じたまま、
「私はミエイン……現在は身動きがとれない状態ですので、月読みの鏡を通じて、意識だけをあなたの元へ飛ばしています」
「……ミエイン?」
どこかで聞いたことがあるような気がする。
記憶を探り――ほどなくして、古の女魔術師の名に行き当たる。
たしか、自らの視力を封じてまで魔法を極め、グランデヴィナの称号まで得た女魔術師だ。
視力はないが、心の目で千里先まで見通すとも言われ、歴史に名を残した魔法使いの中でも、特に有名な部類に入る。
ここは古のファ・ディールなのだから、その伝説の魔法使いが生きていたとしても不思議はないのだが――
――そんな魔法使いが……なぜ……
わけがわからない。
もっとも、自分が知っている『ミエイン』と、この『ミエイン』が同一人物なのかまではわからないが、彼女の声に、聞き覚えがあった。
「まさか、このところ私の夢に割り込んできたのは……」
「そう、私。……夢で接触を図ろうとしたのですが、うまくいかず……イザベラに感謝しなくては」
あっさりと認める。
雰囲気からして、敵意といったものは感じない。それに、バドラが話していた『人間の女魔術師』というのも彼女だろう。
「私に何の用だ?」
とりあえず聞いてみると、彼女は顔をこちらに向け、キッパリと、
「単刀直入に言います。あなたは、これから精霊魔法を極めなくてはなりません」
夜の森に、虫の鳴き声だけがしばらく響き渡る。
しばらく、その鳴き声に耳を澄ませ――そして、
「……は?」
「聞こえませんでしたか?」
ようやく発した言葉に、ミエインが首を傾げる。とりあえず、聞き違いではなかったらしい。
「なぜ私なんだ?」
「あなた達兄弟が、この月読みの鏡に映ったから」
言って、ミエインは自分の足下の鏡に視線を落とす。
「ロジェのことも知っているのか?」
うなずくと、彼女は、閉じたままの双眸(そうぼう)をこちらに向け、
「十年前……ヴァンドール帝国が起こした世界大戦は終わったはずだった。ですが私は、どうにも腑に落ちず、この月読みの鏡をもちいてバドラと共に占いをしました」
「イザベラが言っていた、『双子の片割れが死す時、大いなる災いが目覚める』……とかいう、あれか?」
ミエインはひとつうなずき、
「私は、バドラから月読みの鏡を譲り受け、あなた達兄弟を捜しましたが、見つからぬまま時だけが流れ、そして二年前、私は封じられてしまった」
「封じられた? ……こうして話をしているということは、意識は残っているようだな」
彼女は再びうなずくと、見えないはずの目で夜空を見上げ、
「封じられた後も、意識だけを飛ばして捜しましたが見つからず、最近になって、ようやく……」
つぶやき、そしてこちらに目をやる。
風が吹き、木々がざわめく。
その音を聞きながら、
「……くだらん。たかが占いではないか。第一、なぜ私に精霊魔法を? 魔法使いなど他にいくらでもいよう」
わざわざこんな小道具をもちいてまで接触を図るとなると、それなりの理由があるはずなのだが……自分にそんなものがあるとは、到底思えない。
だが、ミエインは自分自身の考えに絶対の自信があると言わんばかりに、
「月読みの鏡が、なぜあなた達を映し出したのかはわからない。ですが、鍵を握っているのは確か。災いを目覚めさせる者なのか……災いを鎮める者なのかまではわかりませんが」
「――ふざけたことを言うな! 当たるかどうかもわからない占いなど……私の知ったことか!」
あまりに突拍子のない話に、さすがに強い口調で返す。
そもそも、ロアに――いや、この世界に来てからというもの、こんなことばかりだ。
魔法のこと、アナイスのこと、種族のこと、ロジェ達のこと、そして自分のこと……様々なことが一度に降りかかってきて、処理するヒマも――いや、どう処理すればいいのかもわからない。
もう、何もわからない。
「……私にはもう、何もない。魔力も失ってしまった。お前が何をたくらんでいるのかは知らんが、期待するだけ無駄なことだ」
自分でも情けないくらい弱々しくつぶやくと、ミエインに背を向け、湖に映った月に目をやる。
風に水面が揺れて――月は、あっけなく消えた。
……どうして、あのまま消えてしまわなかったのだろう。
すべてをなくして――なのに、自分の命だけが残ってしまった。
「いいえ。あなたは、何も失ってはいない。自分で封じてしまっただけ」
「なに?」
まるで、こちらの心をのぞき見したかのような言葉に、一瞬、驚いて振り返るが――鼻で笑うと、
「馬鹿馬鹿しい……きっと私には、最初から何もなかったんだ」
今ごろになって気づく。
どんなに強い力を得ようとも、自分のアーティファクトを失った時から――レニでいる必要がなくなったあの時から、もう、自分は自分でなくなってしまったのだ。
今さら、戻れるわけがない。
「キュゥ……」
視線を落とすと、ラビが自分の存在を主張するように、膝にすり寄ってきた。
ウンディーネも、こちらの後ろからラビを見下ろし、
「少なくともそのラビは、あんたがいいみたいやな」
「…………」
無言で抱き上げると、ラビは耳をぱたぱた振り、胸に鼻を押しつけてくる。
それをなでながら、風で波打つ水面をぼんやりと眺め、
「……私は、一度女神を裏切った身。今さら何を得られる? 私に、何があると言うんだ?」
夕べ見た夢を思い出す。
炎に包まれ、容赦なく殺されていく獣人達。
あれは、夢でもなんでもない。本当にあったこと――
獣人だけでなく、世界各地の国という国が焼かれ、多くの血が流れた。
そこまでしておきながら、何かが手に入ったかというとそうでもなく、今では何を望んでいたのかも思い出せない。
「……あなたは、優しい人」
「…………?」
振り返ると、ミエインは相変わらず目を伏せたまま、淡々と、
「だからこそ、力を封じてしまった。誰かを、そして、自分を傷つけないために」
「…………」
……たった今、会ったばかりだというのに、まるでこちらのことを何もかも知っているような口ぶりだった。
だが、不思議と、怒りや屈辱といった感情は湧かなかった。むしろ静まりかえっていく。
精霊達も、さっきからずっと黙ったまま、辺りを漂っている。特に何かを言ってくる様子もない。
しばらくして――ため息をつくと、
「……優しいかどうかは知らんが……卑怯者であることは確かだ」
「…………」
「私はずっと、自分の手は汚さず、他人に汚れ役をさせてきた。昨日も戦えないことを理由に、弟に殺させ……なのに自分は、恐怖を感じた。獣人ではなく、それを斬った実の弟に」
そう。自分の手は汚さない。
あの戦いでも、直接戦ったのはバジリオスであり、ペダンの兵士達だ。
自分は宮殿の中で、指示をして、見ていただけ――その場にいたこともなければ、直接殺したりもしなかった。
それなのに、ウェンデルの時といい、昨日のことといい――
「……ロジェが斬ってくれねば、自分が死んでいたというのにこのザマだ。女神も見放すさ」
ため息混じりにつぶやく。
弟に裏切り者の汚名を着せ、親友を斬らせ、恋人まで死に追いやった。
ジェレミアが自分に突っかかってきたのも、無理からぬことだ。むしろ、何も言わないほうがおかしい。
いっそのこと、すべての怒りを、憎しみをぶつけてくれたほうが、どんなに楽か――
しばらくの間、木々のざわめきと、虫の声だけが響き渡る。
「……それはそれで、いいんじゃないかしら?」
ふいに、ルナが口を開く。
見上げると、ルナはこちらの頭上を漂いながら、
「あなたに何があったのかは知らないし、聞かないわ。でも、さっき『卑怯者』だって言ったわよね? それがわかったのなら……それでいいじゃない」
「…………」
……彼女達は、知らないからそんなことが言えるのだろう。
自分が一体何をしたのかを知れば、きっと――
「自分が何をしてきたのかがわかったのなら、まだ、やり直せる」
本当に、こちらの心を読み取っているのかもしれない。
振り返ると、ミエインは見えない目をこちらに向け、
「過去を変えることは出来ない。ですが、生きている限り、進まなくてはならない。……あなたには、役目がある」
「役目だと?」
――役目を果たさぬ限り、あの空の果てには行けない――
脳裏に、あの言葉がよぎるが、どういう意味なのか、さっぱりわからない。
わからないが――
「馬鹿馬鹿しい。どいつもこいつも……とんだ見込み違いだ」
「悲観的やな」
ウンディーネが呆れて肩をすくめ――突然、こちらの胸元に手を突っ込んでくると、首から提げていた指輪を引っ張り出す。
「そうなると、この子は無駄死にか。どんな子やったかは知らんけど、しょーもないヤツ助けて、一番大損やったな?」
「…………」
ウンディーネから指輪を奪い返すと、服の中にしまう。
風が止み、湖に目をやると、水面に再び月が姿を現す。
見上げると、ちょうどこちらの真上に月が見えた。
まるで自分で輝いているように見えるのに、実際は、太陽がなければ輝くことが出来ない。なのに、不思議な力を感じる。
ぼんやりと、その月を眺め――
「……ちから……」
無意識に、口から言葉が出る。
「ちからが、欲しい」
「ちから、ですか?」
聞き返すミエインには目も向けず、湖に映る月に視線を落とし、
「私は、今さら死など恐れん。だが、女神がまだ、私を生かすというのなら……せめて、力が欲しい」
「…………」
ミエインも、精霊達も、何も言わなかった。
魔法を失ってからというもの、こんなにも自分の無力さを痛感したことはない。
ほんの少し前まで、当たり前のように――それこそ、息をするように使っていたというのに、今では、どうやってその力を使っていたのか、まったく思い出せない。
まるで、飛ぶことを忘れた鳥のようだ。
しばらく黙り込んでいると、ミエインは、
「……力を得たいのであれば、何のためにその力を使うのか、そこから考えなくてはなりませんね?」
「…………」
――何のために、か。
昔は、それがあったような気がする。
しかし、今は――
「まあ、それはおいおいわかるでしょう。とにかく今は、自分のことだけを考えなさい」
「どうせ今のあんたに、他人のこと考えとる余裕なんてないやろ」
「…………」
たしかに、そうかもしれない。
一応、ロジェ達に監視される側として同行してはいるものの、今の状況ではただの足手まといだ。
それなのに、
「フン……あのバカ共、私など放ってばいいというのに、いなくなっただけで大騒ぎする」
「そりゃ、弱っちくんがおったら、強いモンは守ろうとするやろ」
「弱……」
さも当然と言わんばかりのウンディーネの言葉に、こめかみが引きつるが――彼女はさらに、
「力はないわ、常識欠けとるわ、他人様に迷惑かけまくるわ。ええトコなしやんか」
「……そこまで言うか?」
そこまでひどくはなかったと思うが……
ミエインもクスクス笑いながら、
「では、基礎からやり直してみますか?」
「基礎から?」
聞き返すと、ミエインはひとつうなずいた。
「で……」
ウンディーネが出した雪の固まりを前に、レニはぽつりと、
「なぜ雪だるまなんだ?」
「魔法で作る雪だるまは、微妙なコントロールの練習にちょうどいいんです。ロリマーでは見習いの魔法使いが、この方法で修行をします」
「……見習い、か」
雪の形を整えながら、深いため息をつく。ある意味、今の自分にぴったりの言葉かもしれない。
「ホレ、ちゃっちゃっとせぇ。何事も、基礎が大事やで」
「……基礎は習ったはずなんだがな……」
なんとも不格好な雪だるまを前に、首を傾げる。
なんとか表面を整えようとするが、やはりうまくいかない。
「……思ったより難しいな」
どうにも『手加減』の仕方がいまいちわからない。
今ごろになって、これまで自分が使ってきた魔法が、いかに力任せだったかを思い知る。
「あなた、魔法はどう教わったの?」
ルナの問いに、少し考え、
「すべて父から教わった。他の魔法使いは、知らない」
そもそも自分が教わった魔法は、親から子へ伝えられる一子相伝のものだ。他の誰かから教わるということは、ない。
本来なら、自分もいずれ、次の代に伝えなくてはならなかったのだか――
――そう、か……私で最後か……
ふいに、代々受け継いできたものが、自分で最後になってしまったことに気づく。
おまけに今では、知識はあれども魔法を使う際の感覚というものが思い出せない。本当に、一種の記憶喪失になってしまったのかもしれない。
「…………」
「どうかしましたか?」
急に手を止めたことに、ミエインが首を傾げる。
「……なんでもない」
考えても仕方がない。
首を横に振ると、再び、作業に没頭する。
少しずつコツがつかめてきたのか、だいぶそれらしい形になってきた。
「――なぁ。もうそろそろ戻らなマズいんちゃう? ロジェが、心配して捜し回っとるかもしれんで?」
「……もう少し……これが終わってからだ」
抜け出してからずいぶん経っている。妙におとなしいと思ったら、ラビもいつの間にか近くの木の根本で眠っていた。
自分も強い疲労感があったが――口には出さず、黙々と作業を続ける。
「……こんなものか?」
だいぶそれらしい形になり、ようやく手を止める。
ウンディーネは一言、
「えらいちっちゃいなぁ」
「仕方ないだろう!」
最初は腰の辺りまでの高さだった固まりが、削るにつれてラビを二段重ねにしたくらいの大きさになっていた。
……いや、よく見ると、形もラビを二段重ねにしたような形になっているような……
「ウフフ……こうすれば、もっとかわいいわね」
「おー、かわいいかわいい。ラビだるま二段重ねやな!」
ルナがどこから採ってきたのか、長い葉と木の実を雪だるまに付けていく。
完全に遊んでいる精霊達に、呆れて口を開こうとした瞬間、
「――なに……やってんの?」
反射的に振り返ると、目を点にしたエリスが立っていた。
しばらく――永遠とも思えるくらい不気味な沈黙の後――レニは無表情に湖の方角に回れ右をすると、
「……死ぬ」
「アホか! 雪だるま作っとっただけやろ!」
「そうよ。何も害はないわ。かわいいだけで」
「やはり死ぬ!」
本気で入水自殺を図るレニを、ウンディーネとルナが慌てて止めに入る。
レニは、がっくりとその場に膝をつくと、
「私ともあろうものが……こんな夜中に一人で地味に雪だるま作ってその現場をあんなお気楽娘に目撃されるなど……あってはならないことだ!」
「そーゆーわけのわからんプライドで自殺するアホがどこにおんねん!」
「ちょっと! 『お気楽娘』ってどーゆーことよ!?」
雪だるまはともかく『お気楽娘』が気にくわなかったらしい。エリスが肩を怒らせて怒鳴る。
レニは真顔で、
「違うのか?」
「失礼ね! わたしだって、色々苦労してるのよ!? 『お気楽』なわけないでしょ!」
怒鳴るだけ怒鳴ると、辺りを見回し――
「こんばんは」
月読みの鏡から生えている(ように見える)ミエインに、視線が止まる。
一瞬の沈黙ののち、エリスはこちらに目をやり、
「……変わった知り合いがいるのね」
「まあ、変わってはいるが……」
――その程度か?
他に何か言い様はないのかと思ったが、彼女としては、そんなことはどうでもいいらしい。
「あんたがいないもんだから、ロジェが血相変えて捜し回ってたわよ。帰ってあげたら?」
「ロジェが?」
「ホレみい。ウチが言った通りや」
勝ち誇るウンディーネはともかく、エリスに目をやり、
「お前、私がここにいるとよくわかったな?」
「わたし、昔から勘がいいの」
「勘?」
エリスは、妙に自信たっぷりにうなずき、
「探し物とか、すぐ見つけちゃうんだから」
「探し物、か」
立ち上がり、服のホコリをはたき落とすと、
「……だったら、私の探し物も、お前なら簡単に見つけられるのか?」
「なに? なんかなくしたの?」
それには答えず、月読みの鏡に目をやると、ミエインはいつの間にか姿を消していた。
とりあえず鏡の水を捨て、ふと、
「そういえば、お前も月読みの塔で何か見たのか?」
「え?」
こちらの問いに、エリスは眠っているラビをつつく手を止める。
「私のすぐ後に来たと聞いたが」
「え、ええ。塔を登っているのが見えたから……ニキータとテケリがロジェ達を呼びに行っている間、わたしは先に、あんたの後を追いかけたのよ」
「なるほど……」
質問の答えにはなっていないが、この様子からして、あまりいいものではないようだ。
「……ねぇ」
「なんだ?」
振り返りもせず、鏡を風呂敷に包む。
「逃げるのって、そんなに悪いことかなぁ?」
「なに?」
振り返ると、エリスは起きる気配のないラビを、ここぞとばかりになでながら、
「だって、嫌なことを無理してやる必要ないじゃない。別に自分が望んでるわけでもないのに、周りが勝手に決めて……そこから逃げ出すって、そんなに悪いこと?」
「…………」
彼女が、何を見たのかはわからない。
わからないが――
「……逃げた先に、何があるんだろうな」
「え?」
鏡を抱えて立ち上がると、ラビはエリスに任せて、屋敷へと向かった。
「待たせたね」
翌朝(と言ってもやはり夜だが)、宝石の鑑定を終えたリィが、二人の執事を従えて玄関ホールに姿を現す。
全員、出発の準備を終え、後は宝石の買い取り金と、
「まずはこれを。これでしばらくは、船も動くだろう」
「助かります」
ユリエルは笑みを浮かべて、魔力が込められた魔導球を受け取る。
さすがにこの辺りになると、船の動力源である魔導球の力も底を尽きてしまった。やむなくリィに頼んだ所、こころよく引き受けてくれた。
「あと、月のしずくだが、合計二千ルクで買い取らせていただくよ」
「……やっぱり、あの大きさじゃそれくらいか」
キュカはがっくりと肩を落とし、白の執事が差し出したトレイに乗った袋を受け取る。
「あの水晶はどうだった?」
リィの後ろに控えた黒の執事が持っているトレイに目をやるが、こちらは上に布をかぶせているため、その下が見えない。
リィは、懐から布にくるんだ水晶を取り出すと、
「この石だが――一万で買い取ろう」
『一万!?』
想像していなかった金額に、全員、驚愕の声を上げる。
「――おいおい。その石に一万はないだろう。相手が素人だからと言って、そんな嘘は言うもんじゃない」
その声に顔を上げると、二階からこちらの様子を見ていたイザベラが微笑む。
リィも笑いながら、
「冗談だ。この石は、一万の価値ではない」
「な、なんだ冗談か……」
一番反応を示したキュカが、肩を落とす。
リィはあっさりと、
「二万で買い取ろう」
その言葉に、一瞬、意味が理解出来ずに静まり返る。
「……今、なんて?」
「二万で買い取ると言ったんだ」
念のため聞き返すキュカに、リィはあっさり答える。
「二万って……そんなにすごいのか? その石」
驚くロジェに、リィはうなずき、
「見る目はあるつもりだよ。この石なら、もっと高く買い取る者がいるかもしれない」
「この……石が?」
にわかには信じられないが――嘘をつくような相手とも思えない。
「さて、どうする? 私が買い取ってもいいのかな?」
そう言うと、石をこちらに差し出す。
リィの言っていることが本当なら、もっと高値で買い取ってくれる者を捜したほうがよっぽどいい。
いいのだが――
「いや。お前に買い取ってもらう」
レニの言葉に、リィは意外そうに目を丸め――満足げにうなずくと、
「ふむ。どうやらキミは、『物の価値』というものがわかるようだ」
「どういうことだ?」
「私が教えるまでもないよ」
そう言うと懐に石をしまい、隣に立っていた黒の執事に目配せをする。
執事がトレイにかぶせていた布を取り、その下から金の詰まった袋が姿を現すが、妙に大きい。
「三万ルクで買い取ろう。受け取るといい」
「……三万? 二万と言ってなかったか?」
今度はこちらが目を丸くすると、リィは笑みを浮かべ、
「『見る目はある』と言っただろう。そして『もっと高く買い取る者がいるかもしれない』とも」
そう言うと、金の詰まった袋をこちらに差し出す。
それを、唖然とした顔のまま受け取り、
「お前……変わっているな」
「なに。お互い様だ」
そう言うと、彼は肩をすくめ――二階では、イザベラが大笑いしていた。
「ひぃ、ふぅ……ホントに三万入ってるみたいだな」
停泊した船の下で、キュカが代表して金額を確認し、配分していく。
「……魔族ってのも、よくわからないな。もっと冷酷なものかと思ってたけど」
ロジェの言う通り、魔族というだけで、そういうものだとイメージしていたのは確かだ。
「少なくとも、リィさん達はいい魔族であります。イザベラさんにお菓子もらっちゃったであります!」
「お前は単純だな」
焼き菓子の入った袋を見せびらかすテケリに、ジェレミアは呆れた顔で肩をすくめる。
「よくよく考えてみれば、イメージがあるだけで、実際に魔族がどういうものなのかまではわかりませんからね」
「……獣人と同じだな」
現にここに来るまで、ニキータ以外の獣人と会ったことはない。あくまでイメージしかなかった。
実際に獣化して暴れる姿には恐怖を感じたが――それ以外は、自分達と変わりはない。怒る時は怒るし、悲しむ時は悲しむ。
――結局、何が違うんだ?
それについては、わからないままだ。
なのに、人間はもちろん、獣人達も、どうしてそんなことにこだわるのだろう。死んでしまえば皆同じだというのに……
「――レニ。ちょっといいですか?」
突然ユリエルに肩をつかまれ、抵抗するヒマもなく、茂みの向こうまで引きずられる。
「な、なんだ?」
ロジェ達が見えなくなった辺りで――ユリエルは笑顔でこちらに振り返り、
「……違反、しましたね?」
一瞬、意味がわからなかった。
ユリエルは、ずいっ、と、顔を近づけ、
「私の言ったことを、ちゃんと聞いてませんでしたね?」
「…………!」
そこでようやく、昨日の行動が、ユリエルが定めた法令に触れることに気づき、背筋に冷たい汗が噴き出す。
「月読みの塔に一人で勝手に行き、さらにその後、またしても屋敷を勝手に抜け出し……いやはや、昨日だけで二回も違反行為を行って」
「ま、待て! おかげで三万も手に入っただろう!?」
「それはそれ。これはこれ。罰掃除決定ですね」
さっ、と、全身から血の気が引く。
「ちょっと待て! そもそも私は、お前達の仲間になった覚えはない! なぜお前の定めたルールに従う必要が――」
「郷に入っては郷に従え……仲間であろうとなかろうと、私の船に乗っているからにはルールには従ってもらいます。まあ、ロジェなら一人で放っておいても自分で勝手に対処しますが、あなたは一人で放っておいたが最後、トラブルを起こしまくっているんです。それと最初に言いましたが、あくまであなたは『監視される側』としてこちらにいるということをお忘れなく」
「…………」
「返事は?」
「……わかった」
かなり小さい声だったが、一応うなずく。
初めて遭遇した逆らってはいけない存在に、かすかに足が震えているのが自分でもわかる。
ユリエルは、満足したのかにっこり微笑むと、
「それではしばらくの間、艦内の掃除はお任せします。ああ、掃除の仕方はキュカに聞いてください。今日からですのでよろしく頼みましたよ?」
それだけ言うと、元来た道へと戻っていく。
そして自分は――近くの木に力なくもたれかかり、ずりずりとへたりこむ。
人間だの獣人だの魔族だの、種族などどうでもいい。
ヤツのほうが、よっぽど怖い。
ある意味、種族云々の問題に、自分なりに結論が出た所で――クスクスと、頭上から笑い声がすることに気づく。
「…………?」
精霊かと思ったが――見覚えのある赤毛の少女が、近くの木の上で、腹を抱えて必死に笑いをこらえていた。
「……プリシラ?」
「気安く呼ぶな!」
木の上から一喝し――一喝してから、とうとう耐えきれなくなったのか、声を出してゲラゲラ笑い出す。
彼女はひとしきり笑ってから、
「なんだお前……下っ端なのか?」
「誰がだ!?」
どうやら、一部始終見ていたらしい。
「それはそうと、何か用か?」
にらみつけると、プリシラはようやく笑うのをやめて木から飛び降り、
「やる」
ぶっきらぼうにそう言うと、持っていた木製の杖を突き出す。
「かしの杖、か?」
突き出された杖に、眉をひそめる。
ずいぶん年期のあるものらしく、さらに一度折れたのか、呪文の書かれた布を巻いて修理されている。
プリシラは口をとがらせ、
「念のために言っておくが、おばあ様がやると言うから届けに来てやったんだ。……魔法使いなら、杖の一本でも持っていないと格好がつかないだろうとか言ってな」
「……わざわざこれを届けに? お前が?」
「おばあ様に頼まれて、仕方なく届けに来たんだ! それよりも、受け取るのか!? 受け取らないのか!?」
ほとんど脅すように、プリシラは杖を突き出し――その迫力に押され、思わず受け取る。
魔法で強化されているのか、思ったよりも軽い。普段使いには十分だろう。
ルサの手に渡ったあの黒い杖と比べれば、作りといい、雲泥の差だが――
――今の私には、こちらのほうがお似合いか。
小さくため息をつくと、プリシラに目をやり、
「用件はこれだけか? なら――」
「待て」
去ろうとして、呼び止められる。
プリシラは、少しためらったようだが、
「……この前は悪かった」
一瞬、何のことかわからなかったが、あの時――ルサが去った後のことだと気づく。
「……人間は嫌いだったんじゃないのか?」
「嫌い。だが……誰かのせいにする卑怯者にはなりたくない。それだけだ」
そう言うと、獣人の少女は背を向け、足早に去っていった。その姿は夜の闇に紛れ、あっという間に見えなくなる。
しばらくして、手元の杖に視線を落とし、
「……卑怯者、か」
「――フフッ。良かったじゃない」
様子を見ていたらしいルナが姿を現し、続けてウンディーネも現れ、
「別に、嫌われたわけやなかったみたいやな」
その言葉に、一瞬、きょとんとしたが――
「……そのようだな」
うなずくと、妙によく手に馴染む杖と共に、船へと戻った。
* * *
「……フン。やっと出て行った」
飛び去る船の陰影に、プリシラはぽつりとつぶやく。
隣のバドラは呆れた顔で、
「まったく、もうちょっと素直にならんかい。お前には素直で優しい子になって欲しいから、かわいらしい名をつけたというのに」
「戦士に優しさなど不要です。はっきり言って迷惑です!」
「そんなにその名が嫌いかね?」
「嫌いです」
キッパリ言い放つ。
なにしろ、戦士の名にしては可愛すぎる。おかげで小さい頃はよくからかわれたものだ。
バドラはため息をつくと、
「やれやれ……そんなんじゃから、謝らにゃならん時に素直に謝れんと、後でうじうじするんじゃ」
「余計なお世話です。……それにしても、良かったんですか? あの杖、初恋の人の形見だったんじゃあ……」
「ま、縁起が悪いことは確かじゃな」
並んで、村の方角へと歩きながら、
「じゃが、武器は武器として使ってやるのが一番じゃ。それに……おかげで、スッキリしたじゃろ?」
「……はい」
それについては、正直に認める。
本当なら、昨日言うつもりだったのだが、結局言いそびれてしまった。かといって、そのためだけに人間などに会いに行くことに抵抗があり、一人で頭をを抱えていたら――バドラが、大事な杖をわざわざ引っ張り出してきた。
――結局、他人のことをどうこう言えない、か。
深いため息をつく。
バドラがいなければ、おそらく謝罪も何も出来ず、一人で悶々と頭を抱え続けていただろう。
それではまるで、誇りも種族も関係ない、ただの臆病者――
「のう、プリシラ」
「……なんです?」
「人間は嫌いか?」
「嫌いです」
即答すると、村への帰路についた。