17.廻る運命の輪 - 2/3


 辺りには、焦げた臭いが充満していた。

「……なに? これ……」

 目の前の光景に、エリスは呆然とつぶやく。

 エリスの案内でたどり着いたのは小さな島だった。

 空から見た限り、海沿いに小さな村があるだけで、ほとんどが森だ。

 しかし、その村に降り立った今、見える範囲の家はすべてが黒く焼け焦げ、ガレキと化している。

「ヒィッ!?」

 ニキータの悲鳴に振り返ると、彼のすぐ近くのガレキの下に、真っ黒に炭化した人の手のようなものが見えた。

「この村、まさか……」

「……わたしの、村……」

 エリスは青白い顔で、呆然とつぶやく。

 

 ――ここは……ミントスなのか?

 

 それとも、ジャドのメノス村か?

 眠っていたところを襲われたのだろう。倒れている村人はほとんど寝間着姿だ。中には真っ黒に焦げ、性別すら判断がつかない遺体もある。

 家にいても死ぬ。外に逃げても死ぬ。逃げ場もなく追いつめられ、炎と煙の中、苦しみ、もがきながら――

「エリス!?」

 ジェレミアの声に我に返る。

 顔を上げると、エリスがどこかに向かって走って行くのが見えた。

 慌ててエリスの後を追い、村の中を走るが、生きている人間の姿は見当たらない。

 しばらく走ると、一軒の小さな家にたどり着く。家と言っても奥の壁一枚をかろうじて残して倒壊し、見るも無惨な姿だった。

 その倒壊した家の隙間から白い手が見え、キュカとユリエルがガレキを動かすと、下からうつぶせになった女性が出てきた。

「母さん……」

「エリスさん!」

 ふらついたエリスの体を、ニキータが後ろから慌てて支える。

 しかしエリスはなんとか立ち直ると、その女性に近づき、

「母さん……母さん!」

 何度も揺さぶり、呼びかけるが、生きていないのは誰がどう見ても明白だ。

 母の側で泣き出すエリスにかける言葉もなく、その場に突っ立って見ているしか出来ない。

「――父さんは!?」

 思い出したのか、顔を上げ、悲鳴にも似た声で叫ぶ。

「兄さんもいない! どこにいるの!?」

 その声に、慌てて周囲を見渡すが、人の姿はない。

「キッ」

「どうした?」

 ラビが何か見つけたのか、細い鎖で繋げられた一枚の羽根をくわえてやってくる。

「これはたしか……」

「兄さんのだ!」

 エリスが横から羽根をひったくると、脇目もふらず、ラビが羽根を拾った辺りのガレキを掘り始める。

「おいおい、ここは俺達に任せろ!」

「イヤ!」

 止めようとするキュカの手を振りほどき、エリスは折れた柱をどけようと力を込めるが、びくともしない。

「落ち着け! この下にいるとは限らないだろう! もしかするとうまく脱出して、どこかに避難しているかもしれない!」

「…………」

 ジェレミアの言葉に、エリスはようやく手を止めた。爪が割れ、皮がめくれたのか血まみれだ。

「うきょ? あれはなんでありますか?」

 テケリが何か気づいたのか、つられて上空を見上げると、強い風に混じって羽音が聞こえた。

 鳥かと思ったが、違う。近づいてくるにつれ、姿がはっきり見えてくる。

 白い獣の体に、四枚の翼をはやしていた。

 エリスも顔を上げ、

「あれは……フラミー?」

「フラミー?」

「守護精霊じゃねえか! なんでこんなとこに……」

 キュカが驚いた声を上げたが、その疑問に答える間も惜しいのか、エリスは守護精霊を追って走り出した。

 

 

「――キュゥッ!」

 守護精霊を追って村を抜け、森に入って間もなく、ラビが止まった。

「どうした?」

 足を止め、ラビが見つめる先の茂みをのぞき込む。

「――――!?」

 と、同時に、鼻先に、何か尖ったものが突きつけられた。

「どうしました?」

 気づいたユリエルが引き返してきたが、茂みの奥の暗がりから目を離せない。今うかつな動きを見せたら、刃は確実にこちらを突き刺す。

「なに? 誰かいるの!?」

「……エリス?」

 引き返してきたエリスの声に、急速に殺気は消え、突きつけられた剣の切っ先が力なく下ろされる。

「うきょ! エリスさんのおにーさんでありますか!?」

「よかった、無事でしたか」

 ようやく、茂みに潜んでいた者の正体が捜していたカシムと気づき、安堵する。

 とはいえ、髪はぼさぼさで、服装もシャツにサンダルと、ほとんど寝間着姿だ。逃げる途中に負ったのか、あちこち傷だらけだった。

 彼はその場にへたり込み、絶望した顔で、

「……なんで……帰ってきたんだ」

「『いつでも帰ってこい』って言ったからよ!」

 エリスはカシムの前に膝をつくと、すぐにヒールライトで治療を始める。

 カシムは首を傾げ、

「お前、いつの間にこんな術を覚えたんだ?」

「ここで教わったんじゃないのか?」

 驚いて聞き返すと、エリスは怒った様子で、

「そんなのいつだっていいでしょ! そんなことより、父さんは?」

「……家に行ったのか?」

「……うん」

「…………」

 彼は何も答えず、重苦しい沈黙だけがのしかかる。

「あのぅ……これ、どうぞですにゃ」

 傷が治った頃を見計らい、ニキータが、ぬらしたハンカチと水筒をカシムに差し出す。

 彼は一瞬、驚いたようだが、

「あ……ああ。ありがとう」

 ニキータの気遣いに、ようやく安堵した顔を見せる。

「……何があったんです?」

 ユリエルの質問に、カシムは水筒の水を一口飲むと、

「夜中に火事で騒ぎになって、外に出たら妙な人形が……」

「人形……アナイスの野郎か!」

 真っ先に、教団の――いや、正確には元教団のゴーレム兵を思い出す。

 教団とおさらばするにあたり、あの人形を置いて行くはずがない。いや、むしろ、あの人形を作るために教団を利用したのかもしれない。

 理由はなんでもいい。人形をまとめて船か何かでどこかへ運び、自分は死んだことにしてうやむやにしたのだろう。

 しかし今は、それ以上に、

「ロジェは? 私の双子の弟は見なかったか?」

「弟? あんたの?」

 この質問に不思議そうな顔をしたが、彼は記憶を探りながら、

「……わからない。暗かったし、俺は人形しか見ていないが……この村を襲う理由となると、ひとつしかない」

「マナの、聖域……」

「聖域? マナの?」

 エリスはひとつうなずくと、

「この島には、マナの聖域への扉があるの」

「聖域の扉が、ここに!?」

 あっさり答えるエリスに、全員目を丸くする。

 聖域とは、マナの女神が世界を創造した後、マナの樹へと姿を変え、眠りについたと言われる禁断の地だ。

 もっとも、世間ではただの言い伝えでしかないのだが――この場にいるニキータを除く全員が、それが言い伝えではないことを知っている。

 現に、遠目であろうと見たのだから。

 しかし、自分達が見たのは次元の裂け目越しだ。正確な入り口は見ていないし、どこにあるのかも知らない。

「この島は、世界で唯一、聖域へと繋がる道だ。俺達一族は、その扉を守る役目を担っている。だが……このざまだ」

「夜中に奇襲されて、しかも相手は普通の攻撃が効かない。仕方のないことだ」

 ジェレミアがフォローするが、そんなことで気が晴れるわけもない。彼は地面をにらみつけ、

「頼む。エリスを連れて、この島から逃げてくれ」

「兄さん?」

 カシムは、抜き身の剣を手に立ち上がると、

「マナの聖域が危険だ。守り人として、放っておくわけにはいかない」

「何言ってんのよ! まさか一人で行くつもり!? ふらふらのくせに!」

「気持ちはわかるが、ここは俺達に任せて休んでろ。はっきり言って、無駄死にするだけだ」

 見かねたキュカも口を挟むが、聞く気はなさそうだ。強引に押しどけ、先へ進もうとする。

「それでは、一緒に行きましょう」

 ユリエルが手を差し出すが、カシムは剣を突きつけ、

「言っただろう。あんたらはエリスを連れて逃げるんだ。無関係なヤツは引っ込んでろ」

「――無関係は兄さんよ! わたしだけが行けばいいの!」

 突然、エリスが大声で怒鳴る。

「こうなったのは、全部わたしのせいよ! だからわたしが行かなきゃいけないの! みんなは関係ないわ!」

「何を言って……お前、鍵はどうしたんだ?」

「鍵?」

 エリスは全員に振り返ると、

「……ごめんなさい。ここから先はわたしが行くから、あんた達は兄さん連れて逃げて」

「待て。わかるように説明しろ」

 一方的なエリスに、ジェレミアが口を挟む。

「ようするに、聖域に入るためには鍵が必要で……それをエリスが持っていた、ということですか?」

「なんでそんなもん、お前が持ってるんだよ?」

「単純に、エリスがマナの巫女だからだ」

 キュカの疑問に、カシムが疲れたように口を開く。

 彼はエリスに目をやり、

「こいつは、村の掟や巫女としての役割に嫌気が差して、ある日突然いなくなったんだ。この島からどうやって出たのかは知らんがな」

「……わたし、なりたくてなったんじゃないもん」

「――そんなことはどうでもいい」

 時間が惜しい。

 しびれを切らし、口を開く。

「私はロジェに呼ばれたんだ。聖域だろうが奈落だろうが、私は行くぞ」

「あの鏡には『イルージャ島に来い』と書いてあっただけで、誰が来いとまでは書いてなかったはずですが?」

「…………」

 しれっとした顔で、ユリエルが口を挟む。

 ジェレミアも、エリスとカシムをにらみつけ、

「ロジェやアナイスが関係している以上、あたしらは立派な関係者だ。むしろ、お前達こそ無関係だ。さっさと逃げろ」

「だからわたしが行かなきゃ意味ないんだってば! 第一、わかんないでしょ!」

「何がだ?」

「道!」

 その一言に、全員言葉を失う。

「マナの樹に繋がる道は、前任の巫女とわたしくらいしか知らないのよ? あんた達だけで行ったところで、遭難するだけよ」

 テケリは目を丸くして、

「道を知ってるということは、エリスさんはマナの樹を見たことがあるでありますか?」

「ないわ。わたしが知っているのは、マナの樹の直前まで」

「でも、マナの樹ってのはとんでもなくでかいんだろ? 遠目でも見えるんじゃねぇのか?」

 キュカの言葉に、エリスは首を横に振り、

「あそこは一見同じ森の中だけど、所々次元が歪んでいるの。だからマナの樹は見えないし、見たくもない」

「見たくもない?」

「とにかく、わたし抜きで行ったって意味ないの!」

「わかりました。ではエリス、案内してください。あなたも」

 まさか自分も呼ばれるとは思っていなかったのか、カシムは一瞬、驚いた顔をする。

 あっさり同行を許可したユリエルに、キュカは小声で、

「なあ、隊長……エリスは仕方ないとして、兄貴のほうは……」

「置いて行ったところで、追ってきます」

 その言葉に納得したのか、キュカはそれ以上何も言わなくなる。

「それではエリス。道案内をお願いします」

「……ええ」

 彼女はうなずくと、先頭に立とうとして、

「――エリス」

 突然、カシムがエリスを呼び止める。

 彼はどこか思い悩んだ顔で、

「……さっきの質問なんだけどな。父さんはとっくに死んだんだ。お前がいなくなって半年ほど経った頃に……病気で」

「え?」

 エリスはぽかんとした顔で、

「……うそ」

 やっとといった面持ちで、つぶやく。

「なんで教えてくれなかったの!?」

「教えたら、お前、帰っただろう?」

 カシムの言葉に、エリスは口をつぐむ。

「決めたんだろう? 自分の生き方は、自分で決めるって」

「…………」

 彼女は何か言おうとして口をぱくぱくさせたが――結局、何も言わないまま背を向けると、

「……こっち。案内するわ」

 それだけ言うと、後は無言で歩き始めた。

 

 ◇ ◇ ◇

 

「ご存じですか? この世で起こるすべての出来事は、必然だと」

 前を歩く死を喰らう男は、突然そんなことを言い出した。

 彼は鎌を担いで歩きながら、

「無駄なことなどひとつもない……誰かが死んでくれたおかげで、助かる命がある。感じることはありませんか? 戦にしろなんにしろ、自分では逆らうことの出来ない、大きな力が働いている、と」

 

 ――必然、だって?

 

 戦が起こったことも、自分がユハニを殺したことも、エレナが死んだことも、ペダンが滅びたことも――すべて、必然だったと?

「後付け、ですよ」

 死を喰らう男は足を止め、こちらに振り返ると、

「生き残ってしまった罪深き者どもが、自分の罪から目をそらすために言い出した、愚かで美しい言い訳ですよ……ククッ……」

 そして再び背を向け、歩き出す。

「…………」

 ……生者は死者に、死者は生者に生かされるという。

 なるほど、言われてみれば、なんともきれいな『言い訳』だ。

 

 ――お前など、永遠に地獄の底で苦しむがいい!

 

 ……ユハニは、こうなることがわかってあんなことを言ったのだろうか? そして、エレナも。

 だとすると、まさに今の自分は、二人の望みを叶えているのだろう。

「――あったあった。あれだよ」

 先頭を歩いていたアナイスの声に、顔を上げる。

「これが、マナの樹……」

 とてつもなく巨大な木。

 とっくに見えていてもおかしくない大きさだというのに、ここに来るまで気づかなかった。まるで、突然現れたみたいだ。

 しかし、その乾いた木から生気は感じられず、変色した葉が、はらはらと絶え間なく落ち続けている。足下は、枯れた葉がじゅうたんのように広がっていた。

 その伝説の大樹を前に、心に去来したのは、妙なむなしさだった。

 ……以前、『この世界はマナの女神のアーティファクトだ』と言った者がいた。

 その話を聞きながら、心のどこかで、ならばなぜ、女神は何もしないのかと憤りを感じていた。この世界を守ることが女神の役目ではないのか、この世界は、お前のアーティファクトではないのか、と。

 だが、なんのことはない。理由は至極単純なものだった。

 

 死んでしまったからだ。

 

 死んでしまえば、女神であろうとなんであろうと、何も出来はしない。こんな枯れた木のために、皆、祈りを捧げているのか――

「さて、ロジェ?」

 我に返ると、アナイスはマナの樹の根本に目をやり、

「あれだけどさ。ちょっと引っこ抜いてきてよ」

「あれは……聖剣!?」

 大樹の根元に突き刺さった一振りの剣に、目を丸くする。

 間違いない。

 世界がΨに呑まれた時、突然空から降ってきた女神の剣――

 しかし形こそ同じものの、柄に絡まったツタは枯れ、銀色の刃も輝きを無くし、さびすら浮いている。

「女神の力はまるで感じられないね。まあいいや。さっさと抜いてくれる?」

「……俺に、聖剣が抜けるって?」

 こちらの言葉に、アナイスは笑いながら、

「そうだとも。過去だか未来だかどっちでもいいけど、キミは一度、聖剣を手にしている。そのことは事実だろう?」

「…………」

 その答えに納得したわけではないが、近づくと、恐る恐る、柄に手を触れてみる。

 ……何も起こらなかった。

 今度は柄を握ると、力を込めて、思い切り引っ張る。

「――――!」

 あっさりと。

 拍子抜けするほどあっさり剣は抜け、その勢いで後ろによろめく。

「…………」

 

 ――こんなもの、なのか。

 

 かつて手にした時は、不可能を可能に出来るような不思議な力を感じたというのに、今、この手にあるものは、同じものとは思えないほどなんの力も感じられない。

 ただの、さびた剣だ。

「アナイス……こんなものに、なんの価値があるっていうんだ?」

「フフッ……たしかに、そのままじゃあ価値はないさ」

「どういうことだ?」

 振り返るが、アナイスが口を開くより早く、

「――キィッ!」

 落ち葉をまき散らしながら、一匹のラビが跳んできた。

「――ロジェ!」

 そして、来るだろうと予想していた顔ぶれが、次々と駆けつけた。

 

 ◆ ◆ ◆

 

「ロジェ……アナイス!」

 捜していた顔を見つけ、息を切らしながらようやく足を止める。

 アナイスはいつもの調子で、

「やあ、レニ。ひどい声だけど、喉の具合はいかがかな?」

「アナイス――」

「これが、マナの樹?」

 誰かが、呆然とつぶやく。

 顔を上げると、いつの間にか前方に巨大な木が生えていた。さっきまで見えなかったのに、エリスが言ったとおり突然現れたかのようだ。

 しかし、生気がまるで感じられない。変色した葉が落ち続け、じゅうたんのように地面を埋め尽くしている。

 枯れかけていた。

「――アナイス! どういうことなの!?」

 エリスの声に、我に返る。

 振り返ると、彼女は怒りに満ちた顔で、

「ペンダントのこと、知らないって言ってたじゃない! 村だってあんたの仕業ね!?」

 驚いて言葉を無くしていると、アナイスは軽く手を挙げて、

「やあエリス。『どういうこと』って、どういうこと?」

「そのまんまの意味よ! やっぱりあんたが盗んだのね!」

「人聞きが悪いね。ペンダントなんて知らないよ。……あ、ひょっとして、これのことだったの? 知らなかったなぁ」

 悪びれた様子もなく、ポケットから、革紐の先に青い石がついたペンダントを取り出す。

「そっか、キミが探してたのってこれだったんだ。じゃ、返すね」

 そう言うと、アナイスは手にしたペンダントを、エリスの足下にぽいっと捨てる。

 言葉を無くすエリスを横切り、カシムが剣を手に前に立ち、

「村を襲ったのはお前達だな! 一体、どういうつもりだ!?」

「うん? キミは?」

 カシムの姿に、アナイスは少し驚いた顔で首を傾げ、

「ああ……ひょっとして、あの村の生き残り? まったく、あいつらも詰めが甘いなぁ」

「答えろ! エリスを島の外に連れ去ったのもお前達だろう!」

「連れ去るとは人聞きの悪い……自分からついてきたんだよ」

「なに?」

 アナイスの言葉に、エリスに視線が集まる。

 彼女は青ざめた顔で、無言のままうつむいていた。

 アナイスは呆れた顔で、

「第一、村と巫女を守るのはキミ達の仕事だろう。なのに守るべき巫女には逃げられるわ、村もあっさり壊滅させられるわ……ホント、がっかりだよ。なんのため存在しているのやら」

「なんだと!?」

「落ち着け! 挑発に乗るな!」

 飛びかかろうとするカシムを、キュカが後ろから押さえこむ。

「ロジェ、その剣は……」

 突然、ユリエルが驚いた声を上げる。

 アナイスに気を取られ、気づくのが遅れたが――ようやく、ロジェの持つ剣に気づく。

 さびていた。

 しかし、どこかで見たような気がする。

 ロジェは手にした剣を掲げ、

「……見ろ。これが女神の……聖剣のなれの果て、だ。なんの力もない。世界の危機を回避する力どころか、俺達を拒む力すらない」

 さび付いた剣の切っ先を、こちらに突きつける。

「聖剣? それが?」

 言われてみれば、形が似ている。

 しかし、以前見たような輝きはなく、今にも折れそうだ。

「おい、ロジェ! アナイスの側につくなんて、正気か!?」

「そんなの、どうだっていいだろ」

「なに?」

 ロジェは、これまで見たことのない恐ろしい形相でキュカをにらみつけ、

「お前達こそなんだ? なんでそんなヤツを受け入れようとしてるんだ? まさか、本気で仲間だとでも思ってるんじゃないだろうな!?」

「ロジェ……」

 テケリが今にも泣き出しそうな顔をしたが、ロジェは今度はこちらをにらみつけ、

「兄さんも兄さんさ……何、今さら元に戻ろうとしてるんだ? 散々殺して、メチャクチャにしておいて……今さら、何を後悔してるんだ? いっそのこと、アニスに心を囚われたまま、突き進めばよかったんだ! なのになぜ、今さら元に戻ろうとする!?」

「…………」

「あのまま、元に戻らないでいてくれたら……俺だって、素直に憎めたさ。それとも、愚かな兄を止めようとする健気な弟を演じられたかもな? それなのに……今さら昔の優しい兄さんに戻ったって、遅いんだ!」

「――ロジェ! ダメ!」

 エリスが声を上げるが、手遅れだった。

「聖剣が……」

 剣の周囲に邪気が集まり、刀身が、不気味な黒い光を放ち始める。

「……マナの剣は、使い手の心を映す鏡、か」

 アナイスがぽつりとつぶやき――そして、口を笑みの形に歪めると、

「アハハハハ! 傑作じゃないか! 世界を救うため一度は聖剣に選ばれた勇者が、今度は恨みを晴らすために聖剣を抜いて――見ろ! 女神の聖なる剣が、暗黒剣に生まれ変わるさまを!」

「…………!」

 目の前で起こる聖剣の変化に、息を呑む。

 刀身がどす黒く染まり、形状までもが禍々しい形へと変化していく。

「ロジェ! その剣を捨てろ!」

 剣の変化を待たずして、ジェレミアが双剣を構えて飛びかかるが、ロジェはためらいもなく剣を振るう。

「ぐっ!?」

 ジェレミアは攻撃を受け止めようとしたが、パワーが違いすぎたようだ。あっさりはじかれ、落ち葉をまき散らしながら地面を転がる。

「ジェレミア!」

「……寄るな!」

 近寄ろうとすると、ジェレミアは体を起こしながら、噛みつかんばかりの形相でこちらをにらみつけてくる。

 ……自分を恨んでいるのは弟だけではないと、改めて認識する。

「お前達は、あの黒い鏡を砕いて『めでたしめでたし』とでも思っていたのかな?」

 アナイスは場違いなほど穏やかな笑みを浮かべ、

「確かに鏡は砕けた。でも、砕けた欠片はどこに行ったんだろうね?」

「欠片、だと?」

「そうさ。鏡を砕いたって、その黒い欠片が消えるわけじゃない。……そういえば、バジリオスが言ってたね。人の心にアニスはいる……例外なんてあり得ない。例外なんて許さない!」

「――伏せろ!」

 叫ぶと同時に、自分達の頭上に結界を展開し――間もなく、アナイスのセイントビームが雨のように降り注ぐ。

 しかし、防御壁を張るには時間が足りなかった。一部の光線が結界を突破し、落ち葉を舞い上げる。葉に引火したのか、煙と焦げた臭いが辺りを漂う。

「しょせんお前達は、ごっこ遊びをしていただけさ。自分達が正しいと平気で思っている。正しいって言うんなら……女神を味方につけてみな!」

「――アナイス!」

 立ち上がり、アナイスに術を放とうとして、

「お前の相手はこっちだ!」

 その声に振り返ると、黒い剣を構えたロジェと目が合った。

 その目は、かつてのロジェでは想像もつかない、背筋の凍り付くような血走った目だった。

 

 ――私も、こんな目をしていたのか……?

 

 まるで蛇ににらまれたように、体が凍り付く。

 ロジェが剣を振り上げても、体は動かなかった。

 妙にゆっくり、剣が迫るのが見え――

「――ロジェ! ダメ!」

 突然突き飛ばされ、枯れ葉の上に転倒する。

 ようやく動けるようになり、慌てて体を起こすと、エリスが両手を広げてロジェの前に立ちはだかっていた。

「エリス!?」

 突然割って入ってきたエリスに、ロジェは剣を持つ手を止めた。

 不気味な沈黙の末、ロジェはゆっくり剣を下ろすと、

「……そうだな」

 ぽつりとつぶやいたロジェの言葉に、安堵したのか、エリスの肩から少し力が抜ける。

 ロジェは剣を握ったまま、

「お前から……始末するべきだったんだ!」

「え――」

 ためらいもなく、一度下ろした剣を振り上げる。止める間も、状況を理解する暇もなかった。

「…………っ!」

 ようやく頭が状況に追いついた時には、ロジェの手にした剣が地中から飛び出した無数のツタに絡め取られ、エリスに到達する寸前で止まっていた。

「お願いです! その剣を捨てて!」

「うるさい!」

 ツタで剣を止めたドリアードが必死な顔で懇願するが、ロジェは剣に絡まったツタを力任せに引きちぎり、そのままの勢いで剣を振るう。

 

 ――ギンッ!

 

 金属がぶつかり合う音が響く。

「っ……!」

 ロジェの剣は、横から飛びかかってきたカシムの剣を受け止めていた。

「兄さん!?」

「行け! エリス!」

 カシムは振り返りもせずそれだけ言うと、剣でロジェ押し、エリスから遠ざける。

「――エリス!」

 その隙に立ち上がり、エリスの腕をつかむと強引に引っ張る。

 ロジェが、立ちはだかったエリスに何を思ったのかはわからない。

 しかし今のロジェなら、エリスですら殺しかねない。

「離して! 兄さんが!」

「お前に何が出来る!」

 そして、自分も。

 

 ロジェとは、戦えない。

 

「あなた達はさっさと逃げてください!」

 ユリエルが弓を引こうとした次の瞬間、彼のすぐ横を白い光線が走り抜け――その場に膝をつく。

「隊長!?」

「……かすっただけです」

 キュカにそう言いつつも、押さえた左腕を中心に、みるみるうちに服に赤い染みが広がっていく。弓の弦も切れたようだ。

「あれー? 今のが避けられないなんて、意外と動揺してる? 隊長さん?」

「アナイス!」

 ジェレミアが怒鳴るが、さすがに今度は飛びかかるようなことはしなかった。アナイスの前には、鎌を手にした死を喰らう男がいる。

 あれを突破してアナイスに一撃を与えることがどれほど困難か、わからないわけがない。

「――退くぞ!」

 負傷したユリエルに代わって、キュカが指示を出す。

「兄さん――」

「エリス!」

 再びカシムに駆け寄ろうとするエリスを、強引に引っ張る。

 ジェレミアがカシムの加勢に加わろうとするが、アナイスのセイントビームが再び辺りに降り注ぎ、枯れ葉が燃えて煙が立ち上る。

 もう、どうにもならない。

 助けることも、戦うことも出来ない。

「――行け! お前ら!」

 煙で視界が白くなる中、カシムの声が響く。

「行くんだエリス! 行ってくれ!」

「――――!」

 その言葉に背を押され、一斉に走り出す。

 ひとたび走り出すと、振り返らなかった。振り返ることが、出来なかった。

 

 

 ……そこから先のことは、よく覚えていない。

 どこをどう逃げたのか――気が付くと、ナイトソウルズの中にいた。

 一人減った船内は不気味なほど静かで、陸地が見えるまで、誰一人、口を開くことはなかった。