24.古の勇者達へ - 2/3

「これが女神の聖なる剣、か」
 精霊達が持ってきた剣を受け取る。全体的に錆びていて、ずっしりと重い。言われなければ、これが聖剣だなんて誰も思わないだろう。
 不思議に思っていたことがある。
 世界がΨに呑まれた時、なぜロジェの元に聖剣が降ってきたのかと。
 あの剣が自分に向けられた時――自分は、完全に女神に見放されたのだと思った。
 女神が自分を敵と見なし、滅するために聖剣を送り込んだのだと。
 その剣が今、自分の手元にある。
「こんな錆びた剣では、何の役にも立たんな」
「ちょっと期待外れでしたね」
 鼻で笑うと、操舵席のミエインもどこかがっかりした様子で、
「聖剣は、女神が世界の創造にもちいた『黄金の杖』の仮の姿と言われています。望めば杖に化けるかと思いましたけど、とんだ骨折り損でしたね」
「フン。杖なら間に合っている」
 剣を床に置くと、真新しい杖で肩を叩く。
 そして、ふと、
「そういえば……お前、目はどうなっているんだ?」
「はい?」
「いくら魔法で視界を補うにしても、限度があるだろう。むしろ、普通よりよく見えているように思えるが」
「あら、言ってませんでしたっけ?」
 この船はナイトソウルズのような操舵管ではなく、操舵席の前に設置された水晶体に術者が触れることで船の目となり、船体を動かしている。
 あまりに普通に動かしているので忘れていたが、目が見えないのに船の操縦なんて出来るのか? いや、日常生活だってそうだ。
 ミエインは小首を傾げると、こともなげに、
「魔界からとても視力のいい悪魔の目だけ召喚して、この冠に封印しました。そして私の目として働いてもらっています。一生」
「……むごい……」
「だからこの人キライなんスよオイラ」
 水晶体の中のウィスプが吐き捨てる。
「それよりも、来ますよ」
 ミエインの声と同時に空を引き裂くような奇声が響き、船が大きく揺れる。
 杖を支えに踏ん張り、目を開けると、海が、大きく裂けていた。
 神獣を中心に十字の形に黒い海が裂けている。その裂け目は大地を引き裂き、地形が大きく変形する。
 大地の裂け目――そういえば、そんな場所があったことを思い出す。まさか、こうやって作られたものだったのだろうか?
 
 ――ありのままを受け入れなさい。そうすれば、キミが恐れるものはすべて消え去る――
 
 ふいに、ガイアの声が脳裏によみがえる。
「――マナストーンの制御は一通り終わったぞ」
 外の様子を見てきたシェイドが現れる。
「マナストーンの様子は?」
「今は安定している。いつでもエネルギーを引き出せるはずだ」
 報告を聞くと、ウィスプに目をやり、
「ウィスプ、シェイドと交代だ。手はず通り、マナストーンの元についたら、すぐエネルギーを引き出してくれ」
「うぃーッス……あんま気乗りしないッスけど、大丈夫ッスかねー?」
「気乗りしないなら消しますよ」
「ぶっそーなこと言うなッス! アンタ、きれいなの外面だけで、やることエグいんスよこの悪魔!」
 悪態をつきながら、慌てて姿を消す。よっぽどミエインが苦手なようだ。
「さて。それではそろそろ始めますか」
「お、おう……」
 外面のきれいな悪魔が微笑む。なんとなく、弟子のエレモスがミエインを裏切った理由がわかった気がする。
「……本当にやるのか?」
 シェイドが耳元でささやく。
「改めて言うまでもないだろうが、命の保証はないぞ」
「『やっぱりやめます』と言い出したら、困るのはお前達だろう」
「それはそれで仕方ない。我らは女神の意思に委ねるだけ」
「そうか」
 目を閉じ、大きく息を吐く。
「安心しろ。これで終わる」
 周囲のマナがふくれあがる。
 ウィスプがマナストーンのエネルギーを引き出し始めたようだ。それを合図に、他の精霊達も石のマナを引き出す。
 とたんに、船が、大きく揺れた。
 船の周囲を強力なマナの嵐が吹き荒れ、風音に混じって、船のあちこちからぴしぴしときしむ音が聞こえる。
 暴風が海水を巻き上げているのか、船体に水が叩きつけられ、外もよく見えなくなる。
「……船が、持ちこたえてくれるといいんですが」
 強力なマナの波動に、さすがのミエインの声に苦痛が感じられたが、船どころではないのは明白だ。
「う……」
 全身が重い。息が苦しい。
 強力なマナの波動を全身に浴びることなど初めてではない。それこそ、先祖代々、あの宮殿でずっとやってきたことだ。
 溜まりに溜まったマナをその身に受け止め、あるべきほうに流す。それだけのことが、これほど難しいことだとは。
 気を緩めると押しつぶされそうな中、マナエネルギーを砲台に納めようとするが、暴れ狂う獣のように言うことを聞かない。
 思ったようにまとまらないマナに、シェイドが少し焦った様子で、
「大丈夫か!? ヤツらにマナの出力を押さえさせたほうが――」
「このままだ! このまま行く!」
「しかし――」
「予定通り、ありったけのエネルギーを解放しろ!」
「レニ! あなたはともかく私が危ない!」
「残念ながら道連れになってくれ!」
「まあ!」
 ミエインの苦情を流し、マナの制御に集中する。
 正直、どうなるかなんてわからない。
 ただわかっているのは、これが最後だということだけ。
 マナの嵐に、シェイドも実体を保つことが難しくなってきたのか、床に置いた聖剣の傍らに伏せながら、
「これ以上は人間の限界だ! マナストーンも暴走しかねないぞ!?」
「人間の限界!? 上等だ! だから私がやるんだ!」
 とっくに人間やめているヤツに、何を今さら。
「シェイド、私を闇に引きずり込もうとしても無駄だ。孤独も、絶望も、そんなものはとっくに通り過ぎた! 小難しい理屈はなしだ。やると決めたら私はやる! それだけだ!」
 渾身の力を込め、杖を床に突き立てる。
 そして視界が、一瞬にして青白い粒子に覆われた。
 
 ◇ ◇ ◇
 
「うきょっ!?」
「なんだ!?」
 唐突な出来事に、全員、わけがわからず声を上げる。
 とっさに手のひらを見ると、端からじわじわと砕けていく。
 痛みも何も感じない。ただ、砕けた破片は青白く輝く粒子となって、溶けるように消えていくだけだ。
「これは……どうなって……」
「女神が……完全に死んだ、のか?」
 ルサだった。
 彼女も、自分の砕ける手を眺めながら、
「この世界のすべてはマナで構成されている。すべての生き物、すべての物質、全部が『マナ』だ」
「ちょっと待て! マナの消滅ってのは、精霊や、魔法が消えてしまうだけじゃないっていうのか!?」
「わからない。だが……世界が、分解されている。私達も含めて」
「は? それって死ぬってことか? いや、死ぬってのとも違うな? それともやっぱ死ぬのか? 世界中が?」
 キュカが混乱して意味不明なことを言っているが、そうしている間にも、体は端からどんどん消えていく。
「……どうなっているんだ? エリス! お前、なにするつもりだ!?」
 ジェレミアの怒鳴り声が響き渡り、視界が、白く覆い尽くされた。
 
 ◆ ◆ ◆
 
「これが、マナの分解?」
 呆然とつぶやく。
 まるで、時間が止まったような奇妙な感覚だった。
 痛みも熱さも、何も感じない。
 ただ、青白い光の粒子が辺りを飛び交い、世界を包み込む。
 まるで、ひとつの命の終焉の、最後の輝きだった。
 不思議と、恐怖は感じなかった。
「……きれいだな」
 まぶたを閉じる。
 何も見えないはずの中で、はっきりと、白銀に輝く一降りの剣が見えた。
 
 ――剣?
 
 あの錆びた剣が、いつからそうなっていたのかはわからない。
 わからないが、その剣の柄を、白い手がしっかりと握りしめていた。
「――ありがとう。じゃ、もらっていくわね」
 突然、女の声が聞こえ、思わず目を開いた。
「え?」
 後ろで、ミエインの間の抜けた声が聞こえた。
 さっきまでの光景が一変、船内は元通りの静けさだった。あまりに静かすぎて、不気味なくらいだ。
 足下を見ると、さっきまであったはずの錆びた剣は、影も形もなくなっていた。
 海を覆っていたはずの黒い霧もタナトスの影もきれいに消え去り、空が、青い。
 荒れ狂うマナの嵐は、今や完全に収束し、安定していた。
 そして船の真ん前にいた神獣は、太陽のまぶしさに、完全に動きを止めていた。
 世界中にあふれていたはずのタナトスが、消えていた。
「――――!」
 慌てて自分の手を見ると、青黒かった肌が、元の肌色に戻っていたが――
「え?」
 皮膚に浮き出ていた黒いはずの模様が、白くなっている。
 いる。
 消えてしまうかもしれないと思っていたタナトスが、自分の中に確かに存在している。
 そう自覚したとたん、体の内側から、力があふれ出してくるのを感じた。
 いける。
「あ。いけない」
 背後では、ミエインが何か思い出した様子で、
「撃ちますねー」
 約束通り、事前に一言伝えたようだ。
「レニ!」
「ああ……」
 シェイドの呼びかけに顔を上げると、闇の神獣の赤い瞳と目が合った。
「幻夢の主教、最後の仕事だ」
 両手で、杖を握りしめる。
「次元魔導砲、撃てーーーーーーー!」
 声と共に杖を突き出し、ありったけの魔力を放出する。
 反動で船が激しく振動し、青白い光が神獣目掛けて突き進む。
 あまりのまぶしさと轟音に、一瞬、視界も聴覚も機能を失い、ただただ、魔力が引きずり出される感覚に、立っているのかどうかすらわからなくなる。
 ……どこからか、ぴぃぴぃと鳥の雛のような鳴き声が聞こえた。
『よく……生まれてきました』
 何も見えない真っ白な世界で、誰かの声が聞こえる。誰だっただろう。知っている声だ。
『何も恐れることはない。世界は、女神の愛で満ちている……』
 真っ白な世界の中で、か弱く、それでいてどこか力強い鳴き声はどんどん増えていく。
 そしてその声が増えるのと同時に、さらさらと、体は砂のように崩れていき――最後に、空を見上げるのを感じた。
 
 
「……え?」
 気がつくと、床に仰向けに倒れ込み、肩で荒い息を繰り返していた。
 船内がとてつもなく暑い。汗が噴き出す。
 一瞬、別の誰かになっていた。
「ヴァディス……?」
 
 ――あなたは私に名を。私はあなたに目と耳を。絆の証として、交換です。
 
「役目を、終えたか……」
 そこまで深い縁ではなかったというのに。
 あの竜にとっては、袖すり合う程度であったとしても、誰かに伝えたかったのだろうか。
 希望を、未来に繋げたと。
 その時、がたん、と、船が大きく揺れた。
 ミエインは、のほほんとした声で、
「どうやらこっちも、役目を終えたみたいですねー」
「あ」
 そして状況を確認する暇もないまま、船は、情け容赦なく海へと落下していった。
 
 * * *
 
「バカな……バカな……」
 どれくらい経ったのだろう。いつの間にか、景色が一変していた。
 さんさんと降り注ぐ太陽の光に辺りは照らされ、荒れ地だと思っていたはずの大地が、緑の草で覆われていた。
 前方から、去ったと思っていたはずの死を喰らう男が、何やらぶつぶつつぶやきながら、真っ直ぐこちらに向かってくる。
「こんな、こんなことが……あるわけがない! なぜだ!? なぜあんな虫ケラ共に、闇の神獣を倒せる力がある!?」
 自分に聞いているのだろうか? よくわからなかったので、適当に座ったまま、黙って見ていると、
「もう、こうなったからには仕方がない……せめて、お前の魂だけは頂く!」
 鎌が、振り上げられる。
 なんの感慨もないまま、黙ってその切っ先を眺めていると、
 
 ――ごぶぉっ!
 
 突然、死を喰らう男が、横に大きく吹っ飛んだ。
 吹っ飛んだ体は二転、三転して、ようやく止まる。なかなかコミカルな吹っ飛び方だった。
「……ルサ?」
「アナイス、様……」
 たった今、死を喰らう男を杖で吹っ飛ばしたルサは、肩を上下させたまま、
「よくぞ、ご無事、で……」
 安堵した顔で、それだけつぶやく。
「なっ、なん、なんだ一体!?」
「うるさい! この下級魔族が!」
 飛び起きた死を喰らう男に、ルサは杖を突きつけ、
「お前! 全部お前のせいだ! アナイス様をそそのかして! よくも好き勝手やってくれたな! 神獣が復活したのも! 世界がめちゃくちゃになったのも! 父上がラビリオン飼わせてくれなかったのも全部お前のせい!」
「はいぃ!?」
 そそのかされた覚えはないのだが、とりあえず全部他人のせいにすることにしたらしい。現実逃避の言い掛かりもいいところだった。
 ルサは杖を振り上げると、
「とっとと失せろ! さもなくば、殺す!」
「ヒィッ!?」
 勢いに押されたか、死を喰らう男は飛び上がると、慌てて姿を消した。
 わけが分からない茶番劇に、しばしぽかんとしていたが、
「なんでここに?」
「なんで……」
 とりあえず聞いてみると、ルサはようやく我に返ったように辺りを見渡し、
「……わかりません。あなたのことを考えていて……気がついたら、ここに」
「女神が気を利かせたって? ……ま、なんだっていいか」
 ため息をつき、ぼんやりと虚空を眺める。
 しばらくして、
「殺さないの?」
 彼女は、妹の死については、他人のせいにはしなかった。
 つまりは、そういうことなのだろう。
「……ルカは、私に『生きろ』と言いました」
 しかし彼女は、こちらのすぐ隣に膝をつくと、
「私の生きる場所は、あなたの側です。どうかこのまま……最後の時まで、お側に……」
「…………」
 返ってきたのは、期待外れで、とてもつまらない回答だった。
「……馬鹿だな。キミも」
 ごろんと、そのまま仰向けに倒れる。
 そして、そのまま視線が釘付けになった。
「……空、きれいですね」
 ルサのつぶやきの通り、青一色だった。
 何もない。まぶしい太陽があるだけだ。
「こんな空、初めて見ました」
「そう……かな?」
 ルサは初めてのようだが――自分はどこかで、見たことがあるような気がする。
 余計なものなどひとつもなく、どこまでも青一色で、手を伸ばせば、届きそうな――
 
 ――ああ、そうか。あの時――
 
 いつだっただろうか。
 その日の夜は、ひどい雨が降っていた。
 大雨は朝には止んでいたが、その雨量に川があふれ、大人達が街の被害で騒いでいるにもかかわらず、自分ははしゃいでいた。
 空が、とてもきれいだったのだ。
 余計な雲も何もなく、どこまでも青一色で――そんな空、初めてだった。
 自分は夢中で城を飛び出し、ミラージュパレスに駆け込んで――その空を、宮殿で一番高いバルコニーから、三人で見たのだ。
 それだけで、自分は満足した。とても、満たされた気分だった。
 その日が、彼らの父が死んだ日だったなど、思いもしなかったから。
 死んだ日――そういえば、母が死んだ日は――
「……今日、何日だっけ?」
「え?」
「誕生日。そういや、今日くらいだったかも」
 ようやく思い出す。
 ふいに、空が隠れ、影が出来る。
 いつの間にかルサが、こちらの顔をのぞき込んでいた。
「お誕生日、おめでとうございます」
 何も知らないルサは、無邪気な笑顔で祝福してくれた。
 
 * * *
 
「やった! やりましたにゃ!」
 真っ先に、屋敷を飛び出したのはニキータだった。
 ニキータは庭のど真ん中で、空に向かって両手を上げ、くるくる回りながら、
「レニさん達がやってくれたんですにゃ! これで商売繁盛、世界は安泰ですにゃ! にゃっほぅ!」
 商売が繁盛するかどうかは知らないが、木々の向こう、初めて見る空の色に、プリシラは言葉を失い、ただただ、立ち尽くすだけだった。
 空というものは、こんな色をしていたのか。そして、月とは比べものにならない、まぶしい輝き。
「ほぅ……この年になって、まだ驚くことがあるとは……」
「あれが、太陽?」
 バドラは目を丸くし、その隣のプリシラも、ぽかんとした顔で、青一色の空を見上げる。
 空を見上げたまま、玄関ポーチから庭に出ようとして、
「うあっ!?」
 段差を踏み外し、緩い斜面を滑り落ちる。
「プリシラ、大丈夫か?」
 雑草のせいで滑りやすくなっていたようだ。尻もちついでに仰向けになると、光が全身に降り注ぐ。あまりのまぶしさに、目を閉じる。
「……あったかい……」
 初めてのはずなのに、なぜか懐かしい気がする。いつもは冷たくてじめじめしている土と草の感触が、今は心地よかった。
 初めて見る太陽と空の色に、最初は怯えて屋敷の奥へ引っ込んだ獣人達も、一人、また一人と外へと出て来て明るい空を見上げる。子供は歓声を上げて走り回り、騒がしくなるのに、そう時間はかからなかった。
 外が騒がしくなり――逆に静かになった礼拝堂の中から、リィは窓の外を眺めると、
「やれやれ。この万年夜の森で、太陽を拝める日が来るとは」
「あ、あの、伯爵。あまり日光に当たると、お体に障ります」
「そうですよ。ヴァンパイアが日光に当たっては灰になってしまいますよ?」
「馬鹿を言うな。この私が、この程度で灰になるわけないだろう。つまらん迷信だ」
 物陰に隠れながら忠告する二人の執事に、リィは呆れながら、
「マナストーンが戻れば、再びこの地は夜の闇に閉ざされる。お前達も、今のうちに堪能しておけ。少し……まぶしいがな」
『は、はぁ……』
 適当にうなずく執事の前を通り過ぎ、奥の、杖を持った女神像の前に立つ。
 この夜の森では何の意味もなかった、像の後ろのステンドグラスから光が差し込み、手にした杖が、不思議な輝きを放っている。
「ふむ……美しい。やはり、輝きがまるで違う」
「リィ。この杖に、どんな物語があるんだ?」
「とて興味深い……面白い物語だよ。まさに、アーティファクトと呼ぶにふさわしい」
 いつの間にか現れたイザベラに、振り返ることなく答える。
「ところで……キミが目をつけた三人は、全員違ったようだな?」
「フン、からかってやっただけさ。まったく、私の貴公子様は一体どこにいらっしゃるのやら」
「やはり、早く来すぎたか。魔王の世継ぎは、まだこの世に生まれていないようだ」
「いいさ。時間はたっぷりある」
 イザベラは長イスに腰を下ろし、女神像を見上げると、
「それまで、新しい女神の世界を、ゆっくり見守るとしよう……」
 
 ◇ ◇ ◇
 
「――兄さん、兄さん!」
 海岸に不時着したルジオマリスから、兄を外へ運び出す。
 芝生の上に横たえ何度も揺さぶるが、反応がない。
「さすがに……あれほどのマナの放出を行えば、船も墜ちますね……」
 墜落の拍子に打ったのか、ミエインが腰をさすりながらルジオマリスから出てくる。無茶な魔導砲の発射で、船の周辺は真夏のような熱気が漂い、無数の亀裂からは煙が噴き出し、焦げた臭いが鼻をついた。
 ジェレミアは辺りを見回し、
「精霊達はどうした? ルサも、どこに……」
「ウソだろ……?」
 最悪の事態が脳裏をよぎり、全身から血の気が引く。
 たとえ神獣を倒しても、世界の危機を回避出来たとしても――
「ダメだ……世界が救われても、兄さんが死んだんじゃ意味がないんだ! 頼む! 目を開け――ぅぶっ!?」
 突然、顔面に裏拳がめり込み、セリフが強制終了する。
「……耳元で……うるさい……」
 兄は目を閉じたまま眉間にシワをよせ、こちらの顔面に叩き込んだ拳を下ろす。
「キュゥッ!」
「うきょ! レニさん、無事でありますか!?」
 レニは体を起こし、すり寄ってきたラビをなでながら、
「この私が、あんな怪物と相打ち? 馬鹿にしてるのか!?」
「馬鹿にって……」
「むしろなんで生きてんですかあなた達は」
 ユリエルが真顔で疑問を口にする。
 あれだけの魔法をぶっ放し、船まで落ちたというのに。
 それでもやはり、体は辛いようだ。どこかぐったりしている。
「おい、なにがどうなったんだ? なんか……魔導砲ぶっ放す前になんかあったよーな……なかったよーな……」
 キュカが、誰にともなく疑問を投げる。
 どうにも記憶が曖昧だった。
 真っ暗で、絶望的な光景だったはずが、唐突に青空が現れ、光が照らしていた。
 一瞬、その部分だけ記憶がすっぽ抜けたような、奇妙な感覚だった。
 そして我に返った時には魔導砲が放たれ、どういうわけか、ルサの姿が船内から消えていた。
「マナの分解と、再構築」
 疑問に答えたのは兄だった。
「新しい女神がマナを分解し、そして再構築した。……その際に、不純物は取り除かれたようだな」
「不純物?」
「タナトスだ」
「え? そういえば兄さん……」
 見える範囲でも、顔の半分や腕にタナトスの模様が浮き出ていたが、それが白く変わっている。
「この世界には、もうタナトスはいない。私の中の、一体だけだ」
「兄さん、なんで……」
「決めたからだ」
「決めた?」
「共に生きていく。そう決めた。私も、タナトスも」
 疲れたのか、その場に仰向けに倒れ込む。
 そして、驚いた顔をした。
「兄さん?」
 つられて見上げると――そこには、雲ひとつない、真っ青な空があった。太陽だけが、地上を暖かく照らしている。
「は~……きれいさっぱり、飛んでったって感じだな」
「……こんな空、初めて見たであります」
 思わず感嘆の息がもれる、雲ひとつない真っ青な空だった。キュカの言う通り、余計なものがきれいさっぱり吹き飛んでしまったようだ。
 不思議と、前にも一度、こんな空を見たことがあるような気がした。
 そうだ。あの時――
「……『私の息子達へ。キミ達はもう自由だ。どこへでも好きなところへ行き、好きなように生きなさい』」
「え?」
 反射的に兄に視線を落とすと、彼はまぶしそうに空を見上げたまま、
「父上の、遺言状だ」
「父さんの?」
「ひどい内容だ。ひどい内容だった……」
 口元は笑っていたが、その顔は、今にも泣きそうだった。
 その顔に――急に、思い出した。
 あの日、何も知らなかった自分は、突然の父の死と兄の冷たい仕打ちに、泣きながら出て行く準備をしていた。
 そんな時だった。アナイスが突然、兄を引きずって部屋に飛び込んできたのは。
 父の訃報を聞いた――とかではなく、たまたま思いつきで遊びに来ただけだった。
 そして強引にテラスまで連れて行かれ、視界に入ったのは、雲ひとつない、真っ青な空だった。
 それはそうだろう。雨があんなに降ったのだから。降り尽くして――雲ひとつ、残らなかった。
 あの時の空は、手が届きそうなくらい、近くに見えた。
 そしてふと横を見た時、兄の目が、赤く腫れていることに気がついた。
 その時になって、ようやく思い至ったのだ。この人も、一人で泣いていたのだと。
 泣く時は、いつも一人。弟には弱音も吐かなければ、一緒に泣くこともしてくれなかった。
 どうして、忘れていたのだろう。
「――悪いが、思い出話はそのくらいにしてもらおう」
 声がした方角に振り返ると、精霊の杖と共に、シェイドが姿を現した。
 
 
「シェイド! 無事だったのか!?」
 ジェレミアの言葉に、シェイドはうなずき、
「なんとかな。他の連中はマナストーンを元の場所に戻しに行った。いずれ戻ってくるだろう」
 シェイドは宙に浮いた杖を下ろすと、
「それより、まだ一仕事残っているぞ」
「……ああ」
 兄はシェイドの言葉にうなずき、杖を手に立ち上がろうとするが――足に力が入らないらしく、その場に膝をつく。
「……肩、貸すよ」
 止めて聞く人ではない。
 なんとか立たせると、ある方角へと向かう。
 シェイドの道案内でしばらく歩くと、
「……まったく、しぶといな」
 深い闇を前に、ジェレミアがつぶやく。
 ここまで吹っ飛ばされたらしい。
 首から下を失い、三つの顔だけとなった闇の神獣が、巨大なくぼみの中でうごめいていた。
 だいぶ弱ってはいるようだが、不思議な圧力に、これ以上は近づけそうにない。
「闇のマナストーンは消滅したわけではない。消滅していないということは、まだ、神獣はマナストーンの束縛から、完全に解放されたわけではない」
 シェイドの言葉に、ミエインは頬に人差し指を当て、
「マナストーンの束縛……つまり、現世にあったマナストーンと、マナストーンの内側に封じられていた神獣が入れ替わったに過ぎない、ということですね」
「う~……意味がさっぱりわからんであります~」
 頭を抱えるテケリは無視して、しばらく考え込む。
「現世と入れ替わった……表と裏……」
 ふと、腰に下げていた幻想の鏡を手に取る。
 相変わらず、この鏡は自分の姿を映してはくれない。
 まるで自分自身が、この鏡の向こう側から出てきた存在のようだ。
 
 ――鏡の、向こう側……同じで、異なるもの……
 
 試しにその鏡面を、顔だけになった闇の神獣へと向ける。
「――マナストーン!?」
 ジェレミアの言葉に、全員の視線が鏡に集まる。
 横からのぞくと、本来なら神獣の姿を映し出すはずの鏡面には、消えた闇のマナストーンが映っていた。
 存在している。
「後はもう知らん。そっちでどうにかしろ」
「え?」
 兄は、その場にすとんと座り込むと、
「『幻夢の主教』は、さっきのあれで店じまいだ。いつまでも頼るな」
「こらこら! ここで突き放すなよ!」
「あら。女神ですら封印するのがやっとの怪物。褒めてくれてもよくありません?」
 キュカの苦情に、ミエインが不満そうに口をとがらせる。
 二人とも、魔力を使い果たしたようだ。口では突き放すように丸投げしているが――不思議と自分には、助けを求めているように見えた。
 出来ることはやった。もう、これ以上はお手上げだ、と。
「……わかったよ。こっちでなんとかする」
「は? どうやってだよ? 聖剣もないんだぞ」
「どうやるかは知らないけど、どうにかする」
 我ながら意味不明な発言に、全員、呆れた顔でため息をつく。
 聖剣のあるなしなんて関係ない。
 ただ、目の前の出来事に、自分の意思に従って生きてきた。
 結局は、自己満足でしかなかった。
 おかげで散々痛い目に遭ったが、きっとこれが自分なのだ。
 もう、迷わない。
「え?」
 手にした鏡に視線を落とすと、くっきりと、自分の顔が映っていた。
 そして、鏡は突然手からすっぽ抜け――あっという間に、ある人物の手の内へと収まる。
「いい鏡だな。借りるぞ」
 そう言うと、ルサは鏡の縁をなでた。