――ぱきんっ。
木製の柄が割れる音に、我に返った。
とうとう割れたらしい。ナイフを引き抜こうとすると、刃は喉に突き刺さったまま、割れた柄だけが手の中に残る。
「死んだ……?」
ふらふらと立ち上がると、そこから数歩離れ、ぼんやりと『それ』を見下ろす。
もう何度刺しただろうか。めった刺しにした喉からは大量の血が流れ、大きな黒い水たまりが出来ていた。これで死んでいなければ、もう人間じゃない。
右手に握った柄から手を離そうとするが、力一杯握りしめていたせいか、手が固まって、なかなか開かない。
何度か手を振って、ようやく柄が落ちた。柄も、握っていた右手も、赤く濡れていた。
「――はぁっ、はぁっ……」
柄が落ちる軽い音が聞こえたとたん、息が切れる。
心臓が、痛いくらい激しく鼓動する。
笑った。
なぜなのかは、もはや確認のしようがない。しかし確かに、刺す直前、彼は笑ったのだ。
見間違いなんかじゃない。
「…………」
息を切らしながら、さっきまでナイフを握っていた手を眺める。生暖かい液体が、風に吹かれて一瞬で冷えた。
「なんだ、ガキ相手に返り討ちか。せっかく招待状を書いてやったというのに、みっともない」
血と煙の臭いに混じって、覚えのある香りが鼻をついた。振り返ると、いつからいたのか、黒い影の中から誰かが姿を現す。
……この男、お香か香水かは知らないが、そのにおいに混じって、別の何かの臭いがする。
とても、嫌な臭いだ。
「おめでとう。勝負はキミの勝ちだ」
そう言って、タナトスはパチパチと白々しい拍手を鳴らす。
「勝負? これが?」
毒で動きを封じ、不意打ちの末にめった差し。ただの殺人事件の現場ではないか。
しかし、そんなことは知ったことではないのか、タナトスは大げさに肩をすくめてみせると、
「しかし驚いた。『聖剣の勇者』が、剣を使わず小さなナイフ一本で。その度胸。狡猾さ。とんだ化け物だな」
無視して、剣と、破れたバンダナを拾う。
「……自分で招待しておいて、出てこないんじゃないかと心配してましたよ」
コートニーからもらった手紙には、短くこう書かれていた。
ルシェイメアの紋章を持つ者へ。
預かった客人をお返しする。
貴殿も城へ来られたし。
「一度は捕らえたレジスタンスを解放したのも、手紙と地図を確実に届けさせるため。……自分で地図を渡しておいて、地図の存在を覚えていなかったけど、そういう魔法でもあるんですか?」
自分は『ついで』に呼ばれたのだと思っていた。
逆だった。クリス達こそが『ついで』だったのだ。
彼女達を、巻き込んでしまった。
タナトスは笑いながら、
「ま、レジスタンスを解放してやったのは、捕らえたものの使い道に困っていただけで、さほど深い意味はない。私の気まぐれに感謝してもらいたいところだ」
そう言って、改めてゲシュタールに顔を向けると、
「キミに会ったことを教えたら、呼べとうるさくてね。知り合いのよしみで取り計らってやったらこのざまだ。ま、期待はずれは死んで当然だから、仕方ないな。ははは」
――『仲間』とは言わないんだな。
どうやら、身内からも面倒がられていたようだ。たしかに面倒くさい人だった。
「この人のこと、これ以上はもういい」
剣を持つ手に、自然と力が入る。
「ディラックは? 『返品する』と呼んでおいて、品を持ってこないのはどういうつもり?」
「おお、怖い。そんな顔をしないでくれたまえ。彼はすっかりキミに怯えてしまってね。次は命がないと引きこもってしまったよ」
「……じゃあ、首根っこつかんで引きずり出さなきゃ」
炎に照らされた口元が、ずっとニヤニヤ笑っている。
そもそも、諸悪の根源はこいつだ。
さっさと都を攻め滅ぼせばいいのにそれもせず、どういうわけかディラックやパメラを連れ去って。おかげであんな厄介なお嬢様に振り回されて。あげく、罠とわかってこんな城にまで来るはめになった。
あの人を取り戻さないと、プリムが帰ってくれないのだ。
「……お前、何者だ?」
「え?」
唐突に、タナトスの口元から笑みが消えた。
「ディラックに何をした? ……いや、殴られたのはきっかけで、やはり本人が自力で再封印したのか……?」
ぶつぶつと、意味不明なことをつぶやきながら、舐めるように見てくる。気持ち悪い。
「危険だな」
仮面の向こうの目が、こちらの目を見据えた。
「小さな蛇にも毒牙はある。大きく育てば、かつての天敵をも絞め殺す。今のうちに駆除しておかねば、後々の災いになりかねん」
「災い……」
――ずしん。
どこかが崩れたのか、足下が揺れる。
「おっと。そろそろここも危険だな。さっさと済ませるか」
手のひらをこちらに向ける。
逃げたところで、すんなり逃がしてくれる相手じゃない。
どのみちこの場を切り抜けたところで、どうやって脱出する?
……いや。もう、そんなことを考えるのはよそう。
自然と、剣を構えていた。
「ほう、あらがう気か? さすがは化け物だな」
「……それをわざわざ呼び出したあなたは、ただの間抜けですね」
「かもしれん」
すっかり感覚が麻痺している。死体を見ても何とも思わない。人に剣を向けることにも、まるで抵抗がない。
だが、そんなことは今さらだ。この手はとっくに汚れている。
あの薄暗い森で、一人の少年をこの剣で斬った、あの時から。
もう、引き返せない。
――キュィィィィィィィィ――
覚悟を決めた次の瞬間、どこからか、甲高い声が聞こえた。
「へ?」
突然の強風にたまらず目を閉じ、全身が何かに包まれる。
状況を理解する暇もなく、足が地面から離れていた。
「は? え?」
さっきまで自分がいた場所が、みるみる遠ざかる。
「――ぅおーい! 無事かー!?」
ようやく、白い毛むくじゃらに抱きかかえられて飛んでいるのだと気づく。
そして、声が聞こえた方角に顔を上げると、
「ト、トリュフォー?」
姿はよく見えなかったが、その声。間違いない。
「よっしゃフラミー! 下に降りるぞ!」
「え? フラミー?」
「キュー」
振り返ると、月明かりに照らされた青い瞳と目が合った。