23.震える大地、運命の時 - 1/2


「くそっ、なんなんだあいつら……」
「プリシラ、しっかりせぇ!」
 息を切らし、膝をつく。左腕の傷口から流れる血が体毛を濡らし、地面へと落ちていく。
「おばあ様、先に逃げてください!」
「バカ言うな! 逃げるのは、先の短い年寄りよりおまえ達じゃ!」
「長老、そうは言いましても……」
 怒鳴りつける祖母に、共に逃げてきた仲間達も困った顔をする。全員傷だらけで、見たことのない敵を相手に、困惑し、怯えを隠せないでいた。
 影のような異形の姿はもちろんだが、攻撃がまるで効かない。
 そんな得体のしれない相手、戦いたくても戦いようがない。みじめに逃げ出すしかなかった。
 祖母はこちらの腕の傷をハンカチで縛りながら、
「『大いなる災い』……今、まさに恐れていたことが起こっておる」
「双子の片割れが、死んだと?」
 
 ――死んだのか? あいつ……
 
 占いの『双子』が誰を指すかなんてわかりっこないのに。しかし脳裏をよぎったのは、かつて森にやってきた双子の片割れだった。
 人間の生死などどうでもいい。
 どうでもいいはずなのに。なんだろう。この不安感は。
「――プリシラ!」
「え? あ――」
 風を切る音に顔を上げると、黒い影が、鋭い爪を振り上げて降って来た。
 よけられない。
「きゃあ!」
 強烈な光に視界がくらみ、その場に尻もちをつく。
「プリシラ!」
「たたっ……え?」
 来ると思っていた衝撃が来なかった。
 尻をさすりながら体を起こすと、あちこちで白い光が爆発し、黒い影の怪物を次々と消し去っていく。
「これは……魔法?」
「セイントビームじゃ。この森に、ここまでの使い手はおらぬぞ」
 間もなく光が収まり、暗がりから、誰かがやってくるのが見えた。
「――お久しぶりです。バドラ。……覚えていますか?」
「おぬし……まさかミエイン? ミエインか?」
 現れたのは、派手な赤いドレスに金色の冠を身につけた女だった。
 
 ◆ ◆ ◆
 
「――はい、バンバン戦ってやー!」
「こーなりゃヤケっス! ガンガン働くッスよー!」
 精霊達が飛び回り、獣人達に魔法をかけて行く。
 そのままでは攻撃が利かなかったが、セイバー魔法をかけた上なら効果があった。先陣を切って、ジェレミアが剣を手にタナトスに斬りかかる。
「ジェレミア! 前に出すぎです!」
「だったら隊長があたしの分もやってくれ! これじゃあ調子が出ない!」
 愛用の双剣を紛失し、余っていた剣を使うしかなかったのだが、やはり勝手が違うらしい。不満げに怒鳴る。
「――効いてる!?」
「これなら行けるぞ!」
 敵に突っ込むジェレミアに刺激を受けたか、獣人達もタナトス相手に拳を振るう。
「あいつら、よく戦えるな……」
 あんな得体の知れない怪物。
 もちろん、それを期待してロアへ来たわけだが、予想通りか、それ以上だ。
「――ひょっとして、プリシラ? ケガしてるじゃない! ちょっと見せて」
「余計なお世話だ!」
 振り返ると、伸ばしたエリスの手を、赤毛の獣人が払いのけていた。
「プリシラ? お前、プリシラなのか?」
 獣化していたので一瞬わからなかったが、声に覚えがある。
 赤毛の人狼に変身した彼女は、自嘲気味に笑いながら、
「お前達からすれば、さぞかしおぞましい怪物だろうよ。一緒に退治したければすればいい」
「怪物だと?」
 その言葉に、呆れて、かぶっていたフードを下ろす。獣人達を驚かさないように配慮したつもりでかぶっていたが、余計だった。
「ずいぶんなめられたものだ」
「おぬし、その姿はまさか……」
 心当たりがあるのか、バドラが血相を変える。
 プリシラもしっぽを丸め、後ろに下がりながら、
「お前……その姿、なん、だ?」
「『怪物』とは、こういうのを言うんだ。私と比べたら、お前達などかわいいだけの犬っころ。怪物を甘く見るな」
 単に狼のような姿になったくらいで、なにが怪物だ。
 こっちは、もはや人ですらなくなったというのに。
「ああ、わかる? 前も会った性格最悪の魔法使い」
「……お前に言われたくはなかった」
 性格最悪の小娘に紹介され、こめかみが引きつる。
「……生きてたのか」
 プリシラは、気の抜けた顔でその場にへたり込むと、
「死んだかと」
「……十年前、異形の怪物に取り憑かれた人々の話を聞いたことがあるが……皆、発狂して死んだと聞いておるぞ。一体、なにがどうなってそうなったのじゃ」
 プリシラを支えながら、バドラも困惑している。
 改めて、自分の手を見下ろす。
 人でもなければタナトスでもない半端者。これが怪物でなければ、なんだというのか。
「……ある意味、死んだのかもな」
 きっと、人間としてのレニはあの時死んだのだろう。
 死んだのかもしれないが、
「とりあえず、生きてみることにした」
 しばらく前まで、いつ死んでもいいと思っていたのに。死ぬどころか、死ぬに死ねない体になるとは。この時代に流れ着いたばかりの頃の自分が知れば、驚いたことだろう。
「死ぬ気がないならお前も手伝え。戦えるだろう?」
「…………」
 プリシラは何も言わなかったが――伸ばしたエリスの手を払いのけることなく、おとなしく治療を受けた。
 
 
「――リィ伯爵に話を付けてきたわよ」
「おお、ルナ! 元気にしておったか?」
 ルナが戻って来たのは、タナトスが一通り片付いた頃だった。
 獣人達との久しぶりの再会もそこそこに、ルナはうなずくと、
「ひとまず伯爵の屋敷へ。あの屋敷は強力な結界が張られているから、しばらくは持ちこたえられるはず」
「リィじゃと?」
「リィにしてみれば、この森に住ませてもらっているんだ。それくらい頼んでもバチは当たらんだろう」
「うぅむ……」
「長老……相手は人間と魔族ですよ。信じるんですか?」
 考え込むバドラに、若い獣人が不安げな顔で耳打ちする。
「――私、村に戻りたい。いない間に畑を荒らされたら困るよ」
「あんなことがあったのに、また村を離れるなんて……」
「魔族なんて信用出来るのか?」
 一人が口を開くと、我も我もとしゃべりだす。加勢がなければ全滅していただろうに、そんなことはすっかり忘れて、口々に不満を言い出す。
「落ち着けお前ら! さっきの怪物はまたやってくる! 今は精霊達の助けがあったから切り抜けられたが、次はもう太刀打ち出来ぬぞ!」
「それはそうですけど……」
「――わたしは屋敷に行く」
 プリシラだった。
「あんな怪物相手に、なすすべなくやられて終わりなんてまっぴらごめんだ」
「信用するのか?」
「信用するもしないもあるか! 現に今だって、人間に助けられたんだぞ!? この間も! 今さらプライドもへったくれもあるか! 生きてさえいれば……何度でもやり直せる! 何度だって立ち上がれる!」
 プリシラは獣化を解き、人の姿に戻ると、
「帰りたければ帰れ! わたしはお前達みたいな臆病者とは違う! わたしは逃げない!」
 言うだけ言うと、リィの屋敷に向かってずかずか歩いていく。
 キュカはぽつりと、
「……逃げるための避難先なんだけどな……」
「まあ、いいんじゃないですか?」
 ユリエルが向けた視線の先に目をやると、プリシラの勢いに押されたか、一人、また一人と、プリシラの後についていった。
 
 
「やれやれ。自分でも物好きであることは自覚していたが、まさか人間と獣人に避難場所を提供することになるとはな」
「家賃代わりだと思えば安いだろう」
 久しぶりに再会したリィは、自分で自分に呆れるような顔で肩をすくめる。
 いくら獣人達が少人数の種族とはいえ、さほど広くはない屋敷。全員に十分なスペースが用意出来るわけもなく、屋敷に入りきらなかった者は、見張りも兼ねて庭で野宿だった。
 応接室に通され、リィは改めてこちらに振り返ると、
「それにしても、しばらく会わないうちに、ずいぶんユニークな姿になったな」
「ほっとけ」
 わかっているだろうに、あえてわざわざ言ってくることに悪意を感じる。
「ね、ねえ……今さらなんだけどさ」
「なんだ?」
 エリスにつつかれ、振り返る。
 彼女は恐る恐る、
「その……大丈夫、なの?」
「なにがだ?」
「いや、なにがって」
 ちょうど壁に鏡が掛けられていたのでのぞき込むと、目は赤く、毛色も黒く変わってしまい、青黒くなった皮膚に黒い模様が浮び上がっていた。一瞬、自分で自分の姿に驚いたくらいだ。
「エリス」
「な、なに?」
「惜しかったな。『スバーッ』じゃなくて『ぶすーっ』だった」
「何の話よ!?」
「その格好、なんとかならないでありますか? ラビきちも怯えてるであります」
「傷つくな……」
 テケリはともかく、ラビがちょっと冷たくなった。怖がって、あまり寄ってこない。
 そうでなくとも、確かにこんな姿では人里にも行けない。
「それでしたら、用意しておきましたよ。腕を出してください」
 なんとなく右腕を出すと、ミエインは『用意しておいた』という金色の腕輪を、ぱちん、と、留める。
 よく見ると、ミエインが元々つけていた腕輪だった。腕輪自体特別な感じはしなかったが、なにやら術を施したらしい。
「魔封じです。いくらタナトスと完全同化したとはいえ、ベースは人間。常にフルパワーでは体が保ちません」
「ふぅん……」
「ちなみに、身につけている本人には外せません」
「は!?」
 ミエインは呆れた顔で、
「ホイホイ外せては魔封じの意味がないでしょう。第一、暴走しないとも限りませんし。もし必要になった時は、合意を得た上で誰かにはずしてもらってください」
「合意だと!? なんでわざわざそんなこと――」
「ちょ、ちょっとあんた!」
 エリスにつつかれ、鏡に目をやる。
「……便利だな」
 人としてはともかく、魔法使いとしては一流であることは認めざるを得ない。
 さすがに、まったく元通りとまではいかなかったが、皮膚に浮かんでいたタナトスはすっかり引っ込み、ほとんど人間の姿に戻っていた。
 
 
「ふむ……だいたいの話はわかった」
 簡単にではあるが、ヴァンドールで起こったことを話す。席が限られているので、何人かは立ったままだ。
 リィは窓際に立ち、外に目を向けると、
「イザベラからも話は聞いていたからな。そろそろとは思っていたが、ついに目覚めたか」
 振り返り、入口近くに立っていたイザベラに目を向ける。
 彼女は壁に背を預け、
「闇の力が一気に強まるのを感じていたからな。私達、闇の世界の者からすれば、楽しいショーの始まりだ」
「悪趣味だな」
 ジェレミアがぽつりとつぶやく。
「……これから、どうにゃっちゃうんですかね」
 ふいに、部屋の隅でおとなしくしていたニキータが口を開く。
「あんにゃ怪物、剣振り回してどうにかにゃるもんじゃないですし。タニャトスだけでも、魔法がにゃいと太刀打ちできにゃいのに……あの光景、まさにこの世の終わりだったじゃにゃいですか」
 全身の毛が逆立っている。ヴァンドールから逃げる間中、ずっとだった。
 リィや獣人達はタナトスしか見ていないから実感は湧かないだろうが、こちらは巨大な闇の神獣を見ている。ニキータの言う通り、普通に武器を振り回そうが、魔法を放とうが、太刀打ちできる大きさではない。
「聖剣……」
 ロジェのつぶやきに振り返ると、部屋の外へ出ようとしているところだった。
「待て、ロジェ。どこへ行く?」
「…………」
 ジェレミアの声に、足を止める。
 振り返らないまま、
「ここまで成り行きで一緒に来たけど……やっぱり俺――」
「ふざけるな!」
 ジェレミアの怒鳴り声に、思わずこちらまですくみ上る。
 彼女はロジェに詰め寄ると、
「これから、タナトスが押しかけて来るかもしれないんだぞ!? そんな時に、お前一人で外をふらついてみろ! タナトス相手に、どう戦う!? もし、取り憑かれでもしたら!?」
「ジェレミア……」
「駆除対象が増えるんだぞ!」
「……ジェレミア……」
 正論に、なぜか泣きそうな顔になった。
「そういえば、たしかに気になりますね。聖剣は今、どうなっているんでしょうか?」
「――そうであります! 聖剣があれば、あんなバケモノけちょんけちょんであります!」
 ユリエルの言葉にテケリが目を輝かせるが、キュカは呆れた顔でため息をつくと、
「『聖剣』ったって剣なんだよ。近づかないと斬れねぇの。『困った時の神頼み』と同じじゃねぇか」
「う~……」
 ぽんぽんと、後ろからテケリの頭を叩く。
「聖剣は……私が捨てた後、ルカが」
 脳裏に、自ら剣で胸を貫いたルカの姿がよぎる。
「その後すぐ、闇のマナストーンの封印を解くことに使われた」
「……ちょっと待て。まさか闇の神獣の中、なんてことはないだろうな!?」
 嫌な予想に、ジェレミアの顔が青ざめる。
「聖剣は今、暗黒剣になっているんだろう!?」
「……蓄えられたエネルギーが封印を解くために使われたなら、もう消費されてしまったはずだ」
「そうだとしても! 聖剣があの怪物に影響を及ぼしていないなんて言い切れないだろう!」
「だとしたら、『頼みの綱』どころか『危険なアイテム』ですね」
「のんきなこと言ってる場合か!」
「焦っても仕方ないでしょう」
 ユリエルはジェレミアとはまるで対照的だ。こんな時でもマイペースというか――もしくは、マイペースぶっているのか。
 突然、建物全体が揺れる。
「地震か?」
 置物がカタカタ揺れだし、ほどなくして、
 
 ――ずしん。
 
「きゃあ!?」
 一気に、激しくなる。
 そんなに長い時間ではなかったが、揺れが収まった頃には、棚の上の物がほとんど床に落ちていた。
「……結構、大きかったですね」
「こここ、この世の終わりの前触れ!?」
「縁起の悪いこと言うな!」
 しっぽを丸めるニキータにジェレミアが怒鳴る。さっきから落ち着きがない。
「……やれやれ。片付けが大変だ」
 部屋の惨状に、リィは割れた壺の破片を拾いながらつぶやく。
「たしか……マナストーンも、同じ場所にあったのだろう?」
「ああ」
「聖剣だけでなく、マナストーンまで一カ所に集まって。今、世界中のマナが極端に偏っているというわけか。……天変地異のひとつやふたつ、起きないほうがおかしい」
「マナストーン……」
 女神が作り出した、神獣を封じるための石。
 それ自体がマナの塊で、強力なエネルギーを秘めている。むしろ今必要なのは――
「……ロジェ。聖剣を取り戻せるか?」
「は? ……何言ってんだよ?」
「役に立とうが立たなかろうが、聖剣は回収せねばならんだろう。……闇の神獣に影響を与えているかもしれないとなるとなおのこと」
「俺が? ……聖剣を?」
「いきさつはどうあれ、お前だろう。聖剣を扱ったのは。ちょっとは責任を取れ」
「何かいい案でも思いつきましたか?」
 ミエインが小首を傾げる。
「この際だから、お前も協力しろ。何年も氷漬けで、体がなまっているだろう」
「あら、人使いの荒いこと。……まあ、なまっていたのはその通りですけど」
 この女も大概バケモノだ。解放された直後だというのにピンピンしている。
「何か策でも?」
「とにかく、お前達は聖剣を回収してくれ。……後は、私がなんとかする」
「お前が?」
「元はといえば、私のヘマだ。……けじめは、つけねばならん」
「はあ?」
 キュカは目を丸くして、
「バカじゃねーのか? お前ひとりのヘマでこうなったわけじゃないだろ」
「それを言うなら、魔女一人の力、女神一人の力でどうとでもなる世界だ。私一人でもどうとでもなるだろう」
「神様じゃあるまいし……もー知らね。なんか俺、もう疲れた。頭働かねーわ」
「……ろくに休んでないですからね」
 さすがに全員、疲労が出ている。ずっと気が張り詰めて、ピリピリしている。
 ここで話は終了と判断したか、リィは笑みを浮かべ、
「なにはともあれ、タナトスが世界中に蔓延するまで、まだ時間はありそうだ。キミ達の部屋は先に確保しておいたから、少し休んだほうがいい。こっちもこんな状況だから、もてなしは出来ないがな」
「いえ、十分です。ありがとうございます」
「クタクタであります……」
 ユリエルの横で、テケリもうとうとしたまま、膝の上のラビにあごを乗せる。
「――ねえ。わたし、あんたに聞きたいことがあるの」
 エリスだった。
 彼女はソファに座ったまま、ロジェをにらみつけ、
「イルージャのこと。あなたは関わった? 一人でも、斬ったりした?」
「…………」
「正直に答えて」
 しばらく黙り込んでいたが――やがて、
「……俺が行った時には、もう、村は焼かれた後だった。俺は一人も斬っていない」
「兄さんを殺したのは?」
「死を喰らう男だ」
 しばらく、誰も何も言えず重苦しい空気が流れたが――エリスはため息をつくと、
「そう……なら、いいの」
 納得した様子で、あっさり引き下がる。
 あっけない引きように、逆に驚いて、
「信じるのか? 本当は一人くらい斬ったかもしれないんだぞ!? キミの兄さんだって俺が――」
「わたしがいいって言ってんのよ! だってあんた、やってないんでしょ!?」
 やけくそ気味に怒鳴るエリスに、ロジェは反射的にうなずく。
「あんたは兄弟ゲンカでいじけて周りに当たり散らしたあげくプチ家出したの! でも行き場所なくてのこのこ帰ってきた! あんたがやったのはそれだけ! そういうのは十年前に卒業しなさいよみっともない!」
「お前も家出したんじゃあ……」
「シッ」
 つぶやくジェレミアを、ユリエルが制止する。
「もういいわよ! わたし、今の地震でケガ人出てないか見てくるから! あんたの相手なんかやってらんない!」
 立ち上がり、一方的に宣言すると、ロジェを押しどけドアを開ける。
 開けたところで、
「そういえばさ。わたし、そんなに似てるの? エレナって人に」
 問われて――ロジェは、改めてエリスの頭のてっぺんからつま先までじっくりと眺め――途中でなにか気づいたのか、ぽかんとした顔で、
「……全然似てない」
「ふーん。なんだ」
 それ以上は興味がなかったのか、気のない返事をすると、エリスはさっさと部屋を出て行った。
 
 ◇ ◇ ◇
 
 目を覚ますと、部屋の中はまだ真っ暗だった。
 一瞬、起きるのが早すぎたと思ったが、そういえば年中夜の森だと思い出す。
 隣でラビを枕に熟睡しているテケリを起こさないよう、ベッドから這い出すと、部屋の外に出る。
「――おい、弟のほう」
 廊下を歩いていると、横から呼び止められた。
「プリシラ?」
「気安く呼ぶな!」
「人のこと言える呼び方か……」
 理不尽に、頬が引きつる。
 プリシラは不機嫌な顔のまま、
「一体、どんな事情があったのか知らないが、自分の兄貴をあんな風にさせて、お前は何をやってたんだ?」
「は?」
「わたしとしてはどうでもいいことだがな。……私欲で魂を売るようなヤツには見えないし、よほど追いつめられるなにかがあったのだろうと、おばあ様が心配していたぞ」
「心配……」
 そりゃあ傍目にはそうだろう。
 あんな得体のしれない怪物が自分の中にいて、それと一生離れられないなど。恐怖で気が狂ってもおかしくない。
 なのに、あの人はやってしまった。
「お前、弟なんだろう? ああなる前に、手を打つなり出来なかったのか?」
「…………」
 何も言い返せない。
 彼女からすれば、きっとひどい弟なのだろう。
「――ロジェ?」
 噂をすればとはよく言ったものだ。振り返ると、渦中の人が不思議そうな顔をして立っていた。
「おまえ……人間に戻ったのか?」
「見た目だけだ」
 驚くプリシラに、腕輪を見せる。
「そういえば、すまん。もらった杖、なくしてしまった」
「なくした!? おまえ、あの杖はおばあ様の――」
「詫びと言うのもあれだが、これをやる。ちょうど渡そうと思っていたんだ」
 そう言うと、ポケットからふくらんだ小袋を引っ張り出す。
「ディオールのエルフにもらった花の種だ。多少環境が悪くとも、育つらしい」
 
 ――花の種?
 
 ディオールのエルフということは、シェーラだろう。
 プリシラは怪訝な顔で、
「花の種? なんでそんなもの……」
「前に来た時も気になったが、この森は花が咲いていないようだからな。この森で育ててみたらどうだ?」
「えっ?」
 その言葉に、思わず窓の外を見る。むろん真っ暗で、黒々した木々のシルエットしか見えないが。
 ……今の今まで、気づかなかった。暗くて見えないだけで、花なんてあちこち咲いていると、勝手に思い込んでいた。
 プリシラはぽかんとしていたが――そのまま呆れた顔になると、
「馬鹿かお前? こんな年中夜の森に、花なんて咲くわけないだろう」
「以前、氷の洞窟に咲く花を見たことがある。だったら、夜の森にしか咲かない花があっても不思議はないと思わないか?」
「…………」
「食えはしないが、手向けの花すらないのでは、死者も寂しかろう」
「…………」
 プリシラは、じっと兄をにらみつけていたが――肩をすくめると、
「まあ……せっかくだ。もらってやるよ」
 ひったくるように小袋を奪い取ると、さっさと背を向けて立ち去る。
 その姿が見えなくなると、
「……フン、小娘がおせっかいを」
「聞いてたのか?」
「聞こえたんだ。……この体、どうにも耳や目が良くなりすぎて、逆に少し不便だ」
 もしかすると、部屋を出る音を聞いて、追ってきたのだろうか? 部屋はふたつ離れていたはずだが。
 ……いくら見た目が人間に戻っても、やはり人間ではない。
 人間のまま死ぬことを選んだルカ。人間をやめてまで生きることを選んだ兄。一体、なにがこの人をそうさせたんだ?
「……なんで、花の種を?」
「さっき言っただろう」
「咲くと思うのか?」
「お前、知らないか?」
「え?」
「見なかったか? 花を」
「…………」
 その問いに、以前、夜の森で手向けの花を摘んだ記憶がよみがえる。
 もう、ずいぶん昔のことのような気がする。一年も経っていないはずなのに。
 兄は、こちらの前を通り過ぎながら、
「闇の神獣の影響かどうかは知らんが、まるで疲れを感じなくてな。お前も眠れないなら、付き合え」
「え?」
 兄は足を止めて振り返ると、こちらの目を真っ直ぐ見据え、
「話をしよう」

「お前と二人になるのは、ずいぶんと久しぶりだな」
「あ、ああ……」
 気まずさに、なんとなく離れた場所に立つ。
 ナイトソウルズに乗り込むと、無防備に背中を向けて、荷物をあさる。
 ……もう大丈夫だとでも思っているのだろうか。この場で、後ろから斬りかかることも出来るのに。
 一瞬そんなことを考えて、意味のないことだと気づく。もはやこの人は、殺そうにも殺せない。
「これを」
 探し物が見つかったのか、振り返るとこちらに差し出す。
「鏡?」
「元々はお前にやったものだ。いらんと言うなら、捨てる」
「…………」
 本当に捨てそうだ。無言で受け取る。
 誕生日にもらった幻想の鏡だった。すぐに裏返して、鏡面を見ないようにする。
「ロジェ?」
「いや……」
 曖昧に首を横に振ると、兄は呆れた顔で、
「お前は、昔から何も言わないな」
「……それは兄さんだろ。いつもいつも、自分ばっかり抱えて、俺には何も言わない」
 何を聞こうが、『大丈夫』の一点張り。
 そのくせ、こちらのことはしつこく問い詰めて、吐かせる。
「父さんだってそうだ。そりゃあ、確かに兄さんは跡継ぎだから仕方ないかもしれないけど、いつも俺はのけ者だった」
 父も兄も、自分には何も言ってくれない。
 周りは病弱な自分への気遣いだろうと言ってくれたが、そんな気遣い、こちらは頼んだ覚えはないのに。
「――ペダンのことだってそうだ! 自分だけでなんとかしようと暴走して! そんなにあんたはすごいのかよ!? そんなに……俺は頼りにならないのかよ!?」
 ユリエル達が教えてくれたことが本当なら、幻夢の主教は元々、ペダンを壊すつもりもなければ、世界中を戦火に巻き込むつもりなんて毛頭なかったはずだ。
 もちろん彼一人が原因だったわけではない。アナイスやバジリオス、そして何より、魔女アニスの力が働いていたことが最大の原因だったのだろうが――それでも、考えてしまう。
 自分が兄の傍にいれば、何かが変わったかもしれない。
 場合によっては、もっと最悪の事態が起こったかもしれないが、それならそれで構わない。
 少なくとも、あの二人に出会わずに済んだのだから。
「……言いたいことは、それだけか?」
「え?」
「言いたいことは、それだけか?」
 こちらに向き直ると、何か覚悟を決めたように、深く息を吐く。
「……もう、隠し事はなしだ。本当のことを話す」
「本当のこと?」
「父上が亡くなった時のことだ」
 何を今さら。
 意味がわからず、首を横に振り、
「それなら……もういい。隊長やジェレミアから聞いた」
「そうではない。私はあの時、おまえに嘘をついた」
「嘘? ……急な発作って……でもそれは、マナストーンを呼び戻そうとして失敗したからじゃないのか?」
「その後のことだ。父上のご遺体は、どんな風だった?」
「え?」
 あの日の朝は、強い雨音で目が覚めた。
 夜中から降り出した土砂降りの雨が地面を叩き、止む気配がなかった。
 駆けつけた時、父はすでに棺の中だった。
 ただ眠っているだけにしか見えない顔に、思わず手を伸ばそうとして、兄に思い切り手を払いのけられたことを思い出す。そして、すぐに棺の蓋は閉められ、墓地に埋葬されてしまった。
 その後のことはよく覚えていない。あまりにあっという間で、実感もなにも湧かないまま、宮殿から追い出されてしまった。
「お前が見たのは、私の術で作ったまぼろしだ。あの棺に入っていたのはただの石。すべて、私一人でやった。おまえだけでなく、宮中の者全員を、私は欺いた」
「……え? だって……それじゃあ……」
 頭の中が混乱している。
 あの棺に入っていたのが父でないとすれば、
「じゃあ……父さんは、どこ行ったんだよ?」
 当然の疑問に、兄はうつむくと、辺りの景色が変わる。
「覚えているか? この場所」
 兄の手に光が灯り、わずかに辺りを照らす。
 暗い、洞窟のような場所だった。
 石造りの床、ほこりをかぶった木箱、近くに下へと続く階段が見えた。
「子供の頃、探検ごっこをした」
「――ああ」
 ようやく思い出す。宮殿で、長年使われていなかった地下倉庫だ。
 入り口付近は人が手入れした跡が残っていたが、深い場所へ潜っていくと、完全に洞窟になっている。洞窟を改造してそうなったのか、後から洞窟とつながったのかは知らないが。
 幼い頃、二人で初めてこの場所を知った時は、何があるのかわからない恐怖と奇妙な期待感に、ワクワクした。
 一本道の末、何かが出てくることもないまま行き止まりで終わったわけだが、あの時は、それすら楽しかった。
 そして大人になった今、当時歩いた地下への道を進み――あっけなく、最下層に到着する。
 当時は暗闇の中、ギャーギャー騒ぎながら進んだというのに。なんともあっけないゴールだった。
「ここが、なんなんだ?」
「ここに埋めた」
「え?」
「父上のご遺体を、ここに埋めた」
 景色が変わる。
「あの時は、私も錯乱していたからな。……隠さねばと、それだけで頭がいっぱいだった」
 またしても真っ暗だった。
 しかし、風が吹き、木の葉がこすれ合う音に、屋外だということがわかる。ゴロゴロと、遠くから雷の音が聞こえた。
 兄が明かりを灯す。宮殿の中庭だった。
 石造りの床には自分には理解不能な、複雑な魔方陣が描かれ――赤黒い、点があった。
「……え?」
 手が落ちていた。
 大きさからして男の手だったが、手首から上がなかった。
 恐る恐る、魔方陣の中央に向かって、顔を上げる。
 飛び散ったと思われる、赤黒い液体が散乱していた。
 その赤い液体に混じって、塊のようなものが見えた。細かくなったものもあれば、元の形がわかるものもあった。内臓だ。恐らく、人間の。
 服だったと思われる布地も飛び散り、赤い液体を吸って不気味な色に染まっていた。
 そして中央付近――そこに目を向けると、一番大きな塊が転がっていたが、暗くてよく見えない。
 空が騒がしい。雨が降り始め――稲光が、一瞬、辺りを照らした。
「え?」
 塊は、人間の頭だった。
 ひどく驚いた表情で、こちらを向いていた。
「うっ……」
 無意識に、腹の底から悲鳴を上げていた。
 こみあげてきた嘔吐感に、口を押え、その場に膝をつく。
「女神を救おうとしてこのざまだ。……少しくらい、手を貸してくれてもいいだろうに」
 兄の、淡々とした声が聞こえる。
「な、なん……あれ……とう、さ……」
 気が動転して、舌が回らない。何が言いたいのかもわからない。
 いつの間にか、周囲の光景が元いた船内に戻っていた。しかし頭の中は、さっき見た光景が焼き付いて離れない。
「とても人には見せられない。夜中だったことも幸いして、私は父上のご遺体をあの洞窟の奥に埋めた。血痕は雨が洗い流し、拾いきれなかった肉片は野鳥が片付けてくれた。水路の水が赤くなってしまったのはどうにも出来なくて、幻術でごまかしたがな」
 
 ――あれを? 一人で?
 
 信じられない。
 そしてそのまま朝を迎え、葬儀から嘘の埋葬まで、やってのけたと?
 並の神経では考えられない。
「宮殿からお前を追い出した後、私は誰にも気づかれぬよう、父上のご遺体を墓地に埋葬し直した。埋葬し直して……祈りを捧げようとした時、気づいたんだ。私にはもう、すがる神などいないのだと。……どんな祈りも、あの女には届かない。そして思い知るのは、己の無力」
 淡々と語るその姿は、不気味を通り越して、まるで人形のようだった。
「だから私は、力が欲しかった。あてにならん女神とは、別の力だ。さもなくば、私も父上の二の舞となる」
 その時、兄は何かに気づいたのか――ぽかんとした顔で、
「……そうか。怖かったんだ」
「え?」
「ペダンが滅びた理由、ようやくわかった」
 勝手に納得すると、自嘲じみた笑みを浮かべ、
「私はただ、怖かっただけだ。国を救おうとか、そんなご大層な思想、どこにもなくて……恐怖に駆られて、魔女の力に逃げただけ。……幻夢の主教では、なかったな」
 むしろどこかホッとしたような、そんな顔だった。
 
 
「ロジェ。ペダン人とは、頑固な気質なのだろうか?」
「え?」
 船を下り、屋敷に戻る途中、急に兄は思い出したように口を開いた。
 足を止めて振り返ると、兄はこちらの手元の鏡に目を向け、
「その鏡を譲り受ける直前、私は初めて父上に頼み事をした」
「頼み事?」
「今すぐ幻夢の主教の座を私に譲れ。だから儀式は中止し、宮殿から出て行ってくれと。お前と一緒に」
「俺と?」
 兄にとって、弟を宮殿から出すのは決定事項だったのだろう。
 だが、父も?
「父上は、私に『好きにしろ』と言った。『だがそれは、私が私の役目を終えてからだ』とも。……結局、私の頼みなど聞き入れてはくれなんだ。人の気も知らないで、つくづく、頑固なお方だった」
「…………」
 
 ――いつだって、道は選べる。
 
 幼き日、父に言われたことを思い出す。
 逃げ出す道だって、見捨てる道だってあったはずなのに。とうとうそれをしなかった。目の前の、この人も。
 『魔女の力に逃げた』なんて言っても、自分の役目からは逃げなかった。
「……そうだな。ホント、どいつもこいつも頑固者で……自由な人ばかりだ」
 彼女達も。
 いつだって、選ぶのは自分。どんな道でも、自由に選べる。
 たとえそれが、破滅の道だろうと。
 海に沈む黒い船が、脳裏をよぎった。
 
 ◇ ◇ ◇
 
「……俺、最低なんだよ」
「え?」
 星から、海へと視線を落とすと、
「大事にしなきゃいけない人に、一方的に怒って、一方的にひどいこと言って。……それっきり、会ってない」
 今思うと、自分のことしか考えていなかった。
 父を失い、辛いのは同じはずなのに――辛い時は、一人で隠れて泣く人だと知っていたはずなのに、一方的に責めてしまった。
 思い出はたくさんあるはずなのに、思い出すのは最後のあの冷たいまなざしと、後ろ姿ばかりだ。血の繋がった、双子の兄弟のはずなのに。
 守ると、言ったはずなのに。
「――ダメじゃない。ちゃんと謝らなきゃ」
 その言葉に、一瞬、思考が停止する。
「……は?」
 エレナは呆れた顔で、まるで子供を叱る母親のように、
「『は?』じゃないわよ。自分が悪いってわかってるんでしょ? だったらちゃんと謝りなさい。まったく、子供なんだから」
 子供。
 ……その通りだ。相手のことまで気が回らず、自分の感情ばかりを押し通す。子供以外の何ものでもない。
「その人、今どうしてるの? 一人で行き辛いなら、私も一緒に行って頭下げてあげるから。あ、まさか昔の女――」
「違う!」
 あらぬ疑惑に、全力で首を横に振る。
 エレナはにっこりほほ笑むと、
「そう、よかった。もしそうだなんて言ったら、海に沈めるところだったわ」
「そこまでするのか……?」
 その笑顔に確かな本気を感じ、背筋に寒気が走る。
 しばらく、二人並んで、ぼんやりと海を眺める。
 オレンジから夜の藍色へと染まっていく海は穏やかで、静かな波音を響かせていた。遠くで、帰路につく鳥の鳴き声がする。
 宮殿の外に出るまで、見ることも出来なかった光景が、今では日常の光景だった。
 ……昔、父に聞いたことがある。『この宮殿は牢屋なのか?』と。
 しかし父はこう言った。『牢屋なら、鍵がないのはおかしい』と。
「どこへ行くも行かぬも自由。いつだって、道は選べる。必要なのは、決断した自分を信じる勇気。……たとえその決断で傷つくことがあっても、そこで足を止め、自ら牢屋に閉じこもらぬよう」
 その時、初めて知った。この宮殿の入り口には、鍵そのものがないということに。
「帰ったら――」
 無意識に、口を開いていた。
「任務が終わって……帰ってきたら、話すよ」
 話すなと言われていることなのに。
 なのに、いいような気がした。この人なら。
 この人に、話したい。
 エレナは、しばらく横目でこちらを見ていたが、
「ええ。待っているわ。ロジェ」
 笑顔でうなずく。
 明日から、急な任務でしばらくペダンを離れなくてはならない。
 その任務を終えて帰ってきたら、全部話そう。そして二人を連れて、会いに行こう。
 居場所があろうがなかろうが、そんなことはどうでもいい。兄は激怒するだろうが、かまわない。きっと会いに行こう。
 ビーストキングダムの偵察任務を終えたら、きっと。