ゆっくりと、体を起こす。
窓の外を見ると、昼を過ぎた頃だろう。日が高い。
昨日のひどい熱と吐き気はすっかり消え、だるさも収まった。少し疲れは感じるが、もう起きても大丈夫だろう。
様子を見に来たプリムは、胸をなで下ろし、
「良かった。一日で良くなって」
「うん」
「やっぱり私の解毒魔法が効いたのね。クリスから聞いたけど、前、同じように落ちた人は、一週間近く寝込んだんだって」
「そうだね。全部プリムのおかげだね」
プリムに、満面の笑みを向けると、
「背後から僕を汚水に突き落としてくれたこと、一生忘れないから」
「事故! 事故なのよ! わざとじゃないの!」
「うん、わかってる。僕が水から這い上がろうとした時、助けもせず逃げたことも忘れない」
「う!? それはその、そう! 近くにスライムがいたの! だからそっちを先になんとかと思って!」
「あれはひどかったなー……」
ポポイが遠い目でつぶやく。正直言って、落とされたことよりも、そっちのほうが傷ついた。
「そもそも! あんなとこ通るのが悪いのよ! ドブネズミじゃあるまいし下水道から街の中に入るとか! こんなことなら、素直に検問所通って入ればよかったのよ!」
「行くって決めたのプリムだよね。検問は待ち時間長いし。下水道のほうが最短ルートだったし」
「ねえちゃん、もうだまったほうがよくないか? こういうの、『ヤブヘビ』って言うんだろ?」
「だからごめんって言ってんのに~……」
はらはら涙を流す。どのみち顔が知られているかもしれない自分達が、皇帝のお膝元であるノースタウンに検問所を通って入るなど自殺行為だ。サウスタウンから続く下水道を通って入る以外、方法はなかったわけだが――黙っておく。
……汚水に落ちたのがディラックだったら、止めるのも聞かず飛び込んだのだろうか。なんとなくそんなことを考えていると、ドアが開く。
「口喧嘩出来るほど良くなったんだね」
廊下まで聞こえたのか、クリスがトレイ片手に部屋に入ってくる。
色白の肌に、淡いブロンドのショートヘアと、きれいな緑の目が印象的な女だった。額に緑のバンダナを巻いたり男っぽい格好をしているせいか、後ろから見ると男と間違えそうだ。
この人がレジスタンスのリーダーと聞いて驚いた。年齢も、まだ十八だという。
彼女は感心した様子で、
「ほんと、プリムの魔法はすごいね。それがなきゃ、まだ寝込んでたはずだよ」
「そうそう! そうよ!」
「でも思い出したの、半日経ってからだったよね」
「…………」
汚水に落ちた後は、ひどい吐き気と目の痛み、高熱に見舞われ、昨日一日、助けてもらったレジスタンスのアジトで寝込んでいた。
もしや効くのでは? と、プリムが解毒魔法の存在に気づいたのは、日が沈んだ頃だった。おかげで無駄に苦しんだ。
「あの、失礼します」
開きっぱなしのドアから、栗毛をポニーテールにした、小柄な少女が入ってきた。地味な茶色のワンピースと表情の乏しい顔のせいで、年の割に落ち着いた雰囲気をしている。
少女は紙袋を差し出すと、
「お薬、お持ちしました」
「あ、いけない。忘れてた」
クリスは、食事の乗ったトレイをテーブルに置くと、
「この子はゼノア。この子もレジスタンスのメンバーだから、困ったことがあったら聞くといいよ」
ゼノアは無表情に頭を下げ――一瞬、こちらの顔を見ると、部屋を出て行った。
「あいそーのないねーちゃんだな」
「こら、チビちゃん」
「普段からあんな感じの子だよ。性格なのか、事情があるのかは知らないけどね」
クリスも苦笑いを浮かべる。
「……ここ、あんな子までいるの?」
まだ十四、五歳といったところだろう。人のことは言えないが、子供にしか見えない。
「人手不足でね。自分でも情けないとは思うけど、子供にまで頼らなきゃいけないわけ」
レジスタンスにいるのは、大抵は訳ありなのだろう。何かしら思想があったり、単純に恨みだったり。クリスも、この年でリーダーなど、よっぽどのことがないと普通はしない。
クリスは気を取り直すと、
「ま、それはそうと、なにか食べといたほうがいいよ。薬も、念のため飲んでね」
「あ、ありがとう……」
そして、一緒に持ってきた服を棚の上に置くと、
「着替え、ここに置いておくね。荷物はそっち。ラッキーだったね。荷物ごと落ちなくて」
「…………」
テキパキ動くクリスを眺めながら、ぼんやりと、
――旅の仲間がこの人だったらな……
「……今、なにか思った?」
「いいえ」
「どうせ私は気が利かないわよ!」
「なんだねえちゃん? やいてんのかー?」
「なんでよ!? 私はディラック一筋なの!」
「――ディラック?」
その名に反応したのはクリスだった。
予想しない場所からの反応に、プリムも戸惑った顔で、
「え? あの、知ってるの?」
「同一人物かは知らないけど……最近、東の古代遺跡の辺りで、人の生気を抜き取っている男がいるらしいんだ。そいつの名前もディラック――」
「嘘! ディラックがそんなことするわけないでしょ!」
「プリム!」
クリスにつかみかかりそうな勢いのプリムを、慌てて止める。この女ときたら、ディラックのことになると一瞬で頭に血が上る。
「生気を抜き取るって、パンドーラと同じ……それじゃあ、まさか……」
脳裏に『あの男』の顔がよぎり、背筋が寒くなる。
「え? なんだなんだ?」
一人、話についてこれないポポイが、こちらの顔とクリスの顔を見比べるが、無視して、
「クリス、街の人たちの様子は? パンドーラじゃあ、街中の人が生気を抜かれて、普通の人を捜すほうが難しいくらいだったんだけど」
「さすがにそこまでひどくない。むしろ気づいている人自体、いないんじゃないかな? 私達はジェマさんからパンドーラのことを聞いて、それをヒントに調査したからわかっただけで、一般人が、パンドーラで起こった出来事なんて知ってるわけないし」
「そう……」
それにしても、敵国ならともかく、自国でそんなことをするだろうか? そもそも、なんのために?
なんとなくだが、タナトスが勝手にやっていることのような気がする。パンドーラの時もそうだが、あの男は何がしたいのかわからないところがある。
「犯人を知っているの?」
「え?」
「――あの仮面男よ! あいつに決まってるわ!」
口を開いたのはプリムだった。
彼女は顔を真っ赤にして、
「ディラックもパメラも、あいつにさらわれたのよ! 今頃、操られて……こうしちゃいられないわ!」
「プリム!?」
「ねえちゃん!」
止める暇もなく、壁に立てかけていた槍をつかんで部屋を飛び出す。
ほどなくして、
「……で、どこって?」
「……とりあえず、着替えたいから出てってもらっていい?」
予想通り、のこのこ戻ってきた。
「帝国もずいぶん物騒になってね。十五年前の大戦が一段落してからも、ずっと武装強化に兵器開発を続けて、どこに行っても、鉄と火薬の臭いがするよ」
街の中を歩きながら、クリスが説明する。
レジスタンスのアジトは、二階建ての割と大きな建物だった。一階でカフェを経営し、二階は住居スペース、さらに地下室もあったが、それを丸ごと借りているらしい。
資金面はどうやってと思ったら、タスマニカが援助しているらしく、ここ以外にもいくつかアジトとして部屋を借りているそうだ。
ふと、通りかかった商店の値札に目が留まる。
「ここに来てから、すごく物価が高くなったような気がするんだけど」
「増税に次ぐ増税で、庶民の暮らしは相当きついよ。娯楽に使えるお金なんてないし、実はうちのカフェも赤字続きなんだよね」
そういえば、客がいなかったな。
クリスも苦笑いを浮かべているが、笑っている場合だろうか? いくら今はタスマニカが援助してくれているとはいえ、それが打ち切られたら?
そういう意味では、タスマニカの機嫌ひとつでどうなるかわからない、危うい組織だ。
足を速め、クリスの隣に来ると、
「あの、皇帝ってどんな人なの?」
「よくわからない人」
「なにそれ?」
説明があまりに簡単すぎて、逆によくわからない。彼女も少し考えて、
「そうだなぁ……まず、誰も顔を知らない。人前に出る時はいつも仮面をつけてて、素顔を見せないんだ」
「暗殺対策ってこと?」
確かにそれなら、同じ仮面を用意するだけでいくらでも影武者を用意出来る。クリスはうなずき、
「あちこちから相当恨まれてるからね。奥さんの実家に謀反の疑いをかけて、奥さんごと一族全員処刑したくらいだし」
「え? それじゃあ跡継ぎは?」
「いないよ。親戚は次々不審死したり、地位を奪われたり。妹も辺境の田舎領主に嫁がされてそれっきりだったはず」
「跡継ぎがいないのに、世界を手に入れてどうするんだよ?」
自分が死んだらお終いではないか。
「だから『よくわからない人』なんだよ」
「はあ……」
偉い人の考えはよくわからない。手に入れたところでどうするんだ。世界なんて。
「でも……もしかすると、本当に跡継ぎなんていらないのかも。噂じゃあ――」
「――あれ?」
プリムの声にさえぎられる。
彼女の視線の先に目を向けると、クセのある黒髪の女が、小さい女の子になにか渡しているようだった。
服装こそ、白い法衣のようなものを着ていたが、
「パメラ!?」
プリムが血相を変えて走り出す。
「パメラ! パメラーーーーーーーーーー!」
名前を叫ぶが、人混みに紛れて、あっという間に姿が見えなくなる。
「パメラ! 待ってよーーーーーーー!」
「――ねえキミ。さっきの人、知り合い?」
プリムに追いつき、なにかもらっていた女の子に聞くと、彼女は首を横に振り、
「……しらない人。寺院にくれば、もっとあげるって」
そう言って、手にしたアメ玉を見せる。
「寺院?」
「行くわよ!」
「だからプリム! 場所知らないでしょ!」
「う」
突っ走ろうとするプリムを引き留める。
「居場所がわかったなら、焦る必要ないよ。落ち着いて」
「わ、わかってるわよ……」
クリスになだめられ、ようやくおとなしくなる。
気を取り直し、女の子に向き直り、
「さっきの人、他は何か言ってた?」
質問に、無言で首を横に振る。どうやらこれ以上の情報はなさそうだ。
「ありがとう。あと、知らない人からものをもらうのはやめたほうがいい。何が入ってるかわからないから」
「え!?」
礼のついでに忠告しておくと、女の子は慌ててアメ玉を捨てた。
「なんだか、パンドーラの寺院に似てるわね」
クリスの案内で街の外れの森を進み、見えてきたのは、石造りの不気味な建物だった。
長年打ち捨てられていたようで、塀は亀裂が入り、所々崩れたままだ。一応、立ち入り禁止の看板が立てられていたが、斜めに傾き、文字がかすれていた。
「この寺院は、古の世界大戦の時代のものだって言われている。パンドーラの寺院と同じ時期に建てられたものなら、ひょっとすると関係あるのかもしれないね」
クリスも、自然と声が小さくなる。
どこに敵がいるかわからない。足音を殺し、塀の影から建物の様子を覗き込もうとして、
「――パメラ!」
入り口の階段に座っていた女の姿に気づくなり、プリムは大声を上げて飛び出す。
「ちょっとプリム!」
またこの女は。
隠れた意味がなかった。パメラの姿に、迷わず飛び出すプリムの後を追う。
「パメラ! 大丈夫!? 私がわかる!?」
プリムは息を切らしながら、階段の上のパメラを見上げる。
パメラは座ったまま、ぼんやりとプリムを眺め――小首をかしげると、
「……あらプリム。なにか用?」
「『なにか用』じゃないわよ! 助けに来たの! 帰りましょ。ディラックも一緒に!」
「……ディラック? 一緒に? あんたと?」
パメラは、相変わらずぼんやりしたままプリムを見つめ――クスクス笑い出す。
「パメラ?」
「ふふふ……あはははは! 笑わせてくれるわね! 帰るですって? わたしとディラックが、あんたと? 冗談じゃない!」
「パメラ! しっかりしなさいよ!」
「うるさい! わたしはここでディラックと暮らすんだ! 邪魔しないで!」
勢いよく立ち上がると、思い切り怒鳴る。
「いつもいつも、わたしの前でディラックの話ばかりするから悪いんだ。もう返さないよ!」
「え?」
「わたし、あんたが大っ嫌い」
パメラはプリムを見下ろしたまま吐き捨てると、
「わたしにはお母さんどころかお父さんもいないこと知ってるくせに、よくもまあ自分の父親の悪口を好き放題聞かせられるわよね。あんたのそういう無神経なところ、昔っから嫌いだった」
「あ……あなただって、笑って聞いてたじゃない……」
「そう。『親友』だから。胸くそ悪い話も、あんたのワガママも、いつもニコニコ笑って聞いてあげていた。『親友』だから! わたしが嫌なこと、全部我慢して聞いていた!」
パメラの怒鳴り声に、プリムがすくみ上がる。
「親に恋人との仲を反対された程度で、なに悲劇のヒロインぶってるわけ!? なに自分が『世界一不幸』みたいな顔してるわけ!? わたしにはお父さんもお母さんもいなくて、おじいちゃんとおばあちゃんは働きづめでほったらかし! 気づいてた? 小さい頃のわたしの服、あんたの服の余り布のつぎはぎよ! わたしのにはレースもリボンもついてないのに、『おそろいだねー』って? 馬鹿にしてんの!?」
反論の隙も与えぬまま、一気にまくし立てる。
パメラの怒りはまだ鎮まらないらしい。肩を震わせ、憎悪に満ちた顔で、
「わたしにはなんにもないのに! あんたばっかり欲しいもの、なんでもかんでも簡単に手に入れて! おまけにディラックまで……ディラックまで手に入れるだなんて!」
「え?」
一瞬、静かになる。
パメラの言葉を頭の中で反復し――プリムも意味を理解したらしい。呆然とした顔で、
「パメラ……あなた、まさか……」
「あ? なんだ? どーしたんだ?」
ここまで言われて、気づかない間抜けはポポイくらいだろう。
プリムのディラックとののろけ話はうんざりするほど聞かされたが――それとまったく同じ、いや、あるいはそれ以上の話をされていたとすれば、パメラとしては殺意すら湧いたかもしれない。
「あんたとの『親友ごっこ』は、もううんざり」
パメラは、ゆっくりと階段を下りながら、
「『悲劇のヒロインごっこ』も、ディラックとの『恋人ごっこ』も、もう十分堪能したでしょ? ……わたし達を解放してよ。ディラックも、あんたにはうんざりしているの。『ベタベタまとわりついてうっとうしい』って」
「嘘よ! ディラックがそんなこと言うわけないじゃない!」
必死に反論するプリムとは対称的に、パメラはケラケラ笑いながら、
「ひっどーい。『親友』の言葉を信じてくれないんだー?」
「ちがう! そうじゃない! あなたは今、まともじゃないのよ! 元に戻ってよ!」
「戻るもなにも、これがわたしよ! 我慢もしない。嘘も吐かない。素直で正直な本当のわたし!」
パメラはプリムの顔を覗き込み、満面の笑顔で、
「ねえ、どんな気分? お金も友達も恋人も、全部持ってるとでも思ってた? バーカ。あんたにはなんにもないの! あはは……いい気味よ!」
――ぱんっ!
乾いた音が響く。
頬に、プリムの平手打ちを食らったパメラはよろめき――
――ごんっ!
「パメラさん!?」
その鈍い音に、我に返る。
転倒し、階段の角で頭を打ったらしい。クリスと慌てて駆け寄ると、ぐったりしたまま動かない。
「プリム!」
「……へ?」
こちらの呼びかけに対し、手を振ったままのポーズで、プリムは呆然と突っ立っていた。
「頭を打った! 早く治療を!」
「へ? 私……私が……パメラ? なんで……私……!」
プリムは自分の両手を見下ろし、顔面蒼白でガタガタ震えだす。
「ねえちゃん! しっかりしろ!」
「わっ、わた……パメラ……パメラ!」
「――この子を連れてアジトに戻ってて。私は仲間の医者を呼んでくるから」
これはダメだ。
今のプリムに魔法は無理。クリスもそう判断したのか、立ち上がると、すぐに走り出した。