「――そーそー、すごかったんだよ。そんでさ。アンちゃん、ディラックのにいちゃん思い切りぶん殴ったりするしさぁ――」
  ぼんやりする中、聞こえてきたポポイの言葉に、プリムの意識は一瞬で覚醒した。
 「――なにそれ!? どういうこと!?」
  飛び起きると、呆気にとられるクリスとポポイを横切り、部屋を飛び出す。
  大股で廊下を歩き――すぐ近くの部屋のドアを勢いよく開けると、
 「ちょっと聞いたわよ! あんた、ディラックをぶん殴ったって――」
 「プリム、パメラさんと一緒に、パンドーラに帰って」
  ランディは顔を上げるなり、そんなことを言ってきた。
  一瞬、思考が停止するが、我に返ると、
 「な、なによ急に。今はそんな話――」
 「お金。これで今日中にパメラさんの荷物用意して。夕方までにはこの街を出て、船でサルタンまで戻るから。プリムはセルゲイに頼んで、そのまま船でパンドーラまで送ってもらって。パメラさんと一緒は気まずいだろうから、ポポイも連れてってよ。僕は一人でマンダーラへ行くから」
  言うだけ言うと、金が入った小袋を突き出してくる。
  さすがに受け取らなかったが、
 「何言ってるのよ! ディラックがまだ近くにいるのよ! 見捨てろって言うの!?」
 「そう。見捨てていいよ、あんなヤツ」
  予期せぬ言葉に、頭の中が真っ白になる。
 「僕はディラックのこと知らないし、何を言っても余計なお世話だろうから黙っていたけど、もうこれ以上は黙ってられない。あの人、プリムが死にそうな目に遭ってまで助ける必要、あるの?」
 「へ?」
 「そもそも、本当に好きなの? 大っ嫌いな『パパ』に反対されて、意地になってるだけじゃないの?」
  一方的な発言に、ようやく我に返ると、
 「な……なに言ってるのよ! 意地だけでこんな所まで追ってこれないわよ! あんただって知ってるでしょ!?」
 「そう。ならそれは信じるよ。じゃあ、ディラックはどうなの? あの人は、プリムのことどう思ってるの?」
 「どうって……好きに決まってるでしょ! ディラックから告白されたんだから!」
 「口では何とでも言えるよね。その人の気持ちは、その人にしかわからない」
 「……何が言いたいのよ?」
  頭に血が上っていくのを感じる。なのに、体の奥底は冷えていく。
  やめろ。そこから先は言うな。
  しかし彼は、ハッキリと、
 「相思相愛だと思ってるのはプリムだけ。パメラさんの時みたいに」
――ぱんっ!
 これで何度目だろうか。
  ためらいも迷いもなく、頬をひっぱたいていた。
  今回は違う。
  うまく反論出来なくて、とっさにひっぱたいたわけではない。今回だけは、許せない。
  自分のことを言われるだけなら構わない。しかし、ディラックやパメラのことを、どうしてこいつに言われなくてはならないのだ。
  許せない。
 「あんたに……あんたに何がわかるのよ!? ディラックのこと、何も知らないくせに!」
 「知らないよそんな人! 知らないからどこでどうなろうと知ったこっちゃないし、何より助ける義理もない!」
  だが、向こうも一歩も引かなかった。なんなんだ一体。
  これまでも、帰るように言ってくることはあった。でも、最後は協力してくれた。
  しかし、ここまでハッキリ拒絶してきたのは初めてだ。
  彼は大きく息を吐くと、
 「はっきり言うね。迷惑。人のこと舐めてんでしょ? ごねれば最後は折れてくれるって。まあ、折れた僕も悪かった。それは謝る。でも、もう限界。パメラさんだけでも助けられたわけだし、もういいでしょ? パンドーラに帰ってよ。これ以上、プリムのワガママに付き合ってられない」
  冷たく言い放つと、強引に金の入った袋を握らせ、足早に部屋を出て行った。
  それをぽかんと見送り――
 「……な、なによ! なんなのよ急に!? ここまで来て……ここまで来たのに! ディラックが近くにいるのに、帰れるわけないじゃない!」
  その場にへたり込み、床に金を叩きつける。
  一体、何なんだあの男は。
  見捨てたと思ったら助けにきてくれて、助けてくれたと思ったら突き放す。
  あと一歩なのに。あと少しで、ディラックにたどり着けるのに。どうしてこんな所で。
 「――いたっ! 何すんのよ!?」
  当然、頭に衝撃が走った。
  振り返ると、ランディと入れ違いに入ってきたのだろう。こちらの脳天に杖を振り下ろしたポポイは、すーっ、と息を吸うと、
 「……ディラックディラックディラックディラック……いいかげんにしろーーーーーーーーーーーーーーーー!」
  吸い込んだ息と共に、爆音を吐き出す。
  たまらずのげぞると、ポポイはこちらの肩をつかみ、
 「ディラックディラックってさ! ねえちゃんはディラックのにいちゃんさえよければ、アンちゃんはどうだっていいんだ! だからあんなひどいことができんだ! アンちゃんにさんざん助けられといて、なんでだよ!? なんで!」
 「え?」
 「あ?」
  なんのことだかわからずぽかんとすると、ポポイもぽかんとし、
 「……なんにも覚えてないのか?」
  ポポイの顔は怒りから驚きに変わり――そして、みるみる悲しそうな顔へと変わっていく。
  じわじわと、殴られた頭が痛みだし、その痛みに、寝ぼけた意識が冷静になっていく。
  ……そもそも、なぜ彼は、ディラックを殴るなんてしたのだ?
  ディラックを捜して寺院に行って、その後は? いつ、アジトに戻ったのだ?
  この体の痛みは、なんだ?
  自分は、彼に何をした?
 「なによ……覚えてないって、なに? 何があったのよ!?」
  今頃になって、腹のにぶい痛みに気がついた。
* * *
「ずいぶん優しいんだね」
 「…………」
  歩きながら振り返ると、いつの間にかクリスがついてきていた。どうやら全部聞いていたようだ。
  足を止めぬまま階段を下りる。頬は、痛いというより熱い気がする。口の中が切れたらしく、血の味がした。
  なぜかついてくるクリスも、階段を下りながら、
 「それにしても、あそこまで言うとは。よっぽど好きなんだね」
 「いいえ」
 「嘘言いなよ。ポポイから聞いたけど、『ただの友達』のために出来る範囲、超えてると思ったけど」
  階段の踊り場で足を止め、振り返ると、
 「わざわざそんなこと言いに来たの?」
 「……ごめん。別にからかったつもりはなかったんだけど」
  不快が顔に出ていたか、クリスはすぐに謝罪する。
  きっと、ディラックは何も悪くないのだろう。それくらいのことはわかっている。
  しかし、そんなことはもはやどうでもいい。この調子で行けば、次こそ命がない。
  一階のカフェに来ると、今日は臨時休業でカーテンが閉められていた。一人片付けをしていたゼノアがこちらに気づいて、軽く頭を下げる。
  ついてきたクリスに振り返ると、
 「……何か用?」
 「ああ、そうだった。……実は、調査に行っていた仲間が帰ってきたんだ」
 「え?」
  寺院には、誰もいなかった。
  どこか別の場所に捕らわれているか、もしくは……と思っていたが、
 「逃げてきたってこと? それとも、最初から捕まったわけじゃなかったとか?」
 「それが、捕まることは捕まったんだけど、今朝になって解放されたんだ」
 「解放された?」
 「――クリス! その子がそうなの?」
  女の声に振り返ると、セミロングの茶髪の女が、観葉植物の影から顔を出し、軽く手を振っていた。
  奥の席で食事中だったらしい。女ともう一人、金髪を短く刈り込んだ男がいた。二人ともクリスと同年代のようだ。
  クリスはこちらに向き直ると、
 「カートとコートニー。カートは私の幼なじみで、コートニーは妹分ってところかな。寺院の調査に行っていたのがこの二人」
  女は立ち上がり、愛想よく手を差し出すと、
 「あたしはコートニー。よろしくね」
 「あ、どうも……ランディです」
  差し出された手を握り返す。一方、男は座ったまま軽く頭を下げただけだった。
  彼女はこちらの手をがっしり握ったまま、
 「ジェマさんから聞いてはいたけど、会えるとは思ってなかったな。年いくつ?」
 「十六です」
 「え、あたしと同じだ! それで聖剣の勇者ってことは、やっぱ選ばれし者っぽい者にしか現れないアザっぽい何かが体のどこかに現れたりしたとか?」
 「しないね」
 「聖剣を一振りしたら、荒れ地が草原になり枯れ木に花が咲き空には虹が現れたりとか」
 「しない」
 「翼をはやした七体の黄金のラビが降臨し、福音っぽいものをラビあめあられともたらしてくれたりとか」
 「しねぇっての」
 「コートニー、その辺に……」
  イラつきが顔に出たか、クリスがどこか青ざめた顔で割り込む。
  ようやく解放された手を下ろし、
 「ところで、捕まったって聞いたけど、なんで急に解放されたの?」
 「そ、そうそう。これなんだけど……」
  そう言って、クリスが一枚のビラを差し出す。ざっと目を通すと、
 「和解? 皇帝が、レジスタンスと?」
 「そう。今朝から街のあちこちにまかれてる。その後で、二人が帰ってきて」
 「あ、それでね。これをキミに渡すようにって」
  そう言って、コートニーが白い封筒を差し出す。
 「誰が?」
 「それが、わかんないの」
 「わかんない?」
  コートニーは首を傾げると、
 「なんていうか……よく覚えてなくて。捕まってたとは思うんだけど、どうにもその間の記憶が曖昧で。でも、なんでか、それをキミに渡さなきゃってのは覚えてて」
  カートに視線を向けると、彼も同じらしく、難しい顔でうなずく。
  封筒を受け取ると、しっかりのり付けされている。差出人も何も書かれていなかったが――一瞬、覚えのある香りが鼻をついた。
  封を切り、中の手紙を広げる。
 「あの、なんて?」
  気になるようで、コートニーがこちらの顔をのぞき込んでくるが、無視してクリスに視線を向けると、
 「行くの?」
 「……うん」
  うなずく。そして、どこかぎこちない笑顔で、
 「あ、あのさぁ。よかったら、キミも来ない?」
 「え?」
 「戦争がなくなれば、キミだって旅をしなくて済むし、ディラックだって帰ってくる。そこまで無関係とは思わないんだけど」
 「…………」
 「ね?」
 「…………」
  クリスの、何か期待するような目から、手元の手紙に視線を落とすと、
 「……少し、考えさせて」
  一旦、返事を保留した。