「まいったな……熱が下がらない」
ロジェ達が出て行き、ずいぶん経った。
その間も、意識の戻らないレニに点滴を投与し、ウンディーネが出してくれた氷で氷嚢(ひょうのう)を作り、体を冷しているが、まったく回復の兆しは見られない。むしろ衰弱する一方だ。
エリスはテセニーゼをにらみつけ、
「今夜が峠って言ってたけど……ホントに大丈夫なの? 今夜どころか、今にも死にそうじゃない!」
もう息をすることさえ困難になっているのか、ここに来た頃は荒かった呼吸が、ずいぶん弱まっている。
テセニーゼは、注射器で小瓶の薬を吸い上げ、
「私も医者の端くれ。彼らが戻るまでは何が何でも保たせる。……せめて熱が下がればいいが……」
そう言うと、邪魔だったのか、ベッドの上をうろうろしていたラビをつまんで床に捨て、レニに薬を投与する。
彼女は注射針の跡をガーゼで押さえ、部屋を見回し――
「うん?」
何かに気づいたのか、その視線が窓際で止まる。
エリスもそちらに目をやると、朝、自分が置いた花瓶があった。しおれていた花は、水を吸って少しは元気になったらしい。
テセニーゼは花瓶から花を引っこ抜くと、しげしげと眺め、
「この花、もらうぞ」
そう言うと、いきなり花と鞄を持って、部屋を出ようとする。
「ちょ、ちょっと!? 何よいきなり!」
慌てるエリスに、テセニーゼはドアを開けながら振り返り、
「しばらくしたら戻る。それまで看病は任せた」
「任せたって……」
唖然とするエリスは尻目に、無情にもドアはぱたんっ、と閉まる。
「ど……どうしよう……」
ただの風邪ならともかく、こんなに衰弱した者を押しつけられ、看病しろと言われても、どうすればいいのかわからない。
「――オロオロしてねーで、しっかりしろ!」
「……大丈夫。きっと、なんとかなるわ」
サラマンダーとルナが姿を現し、檄(げき)を飛ばす。
その姿に、エリスは目をぱちくりさせ、
「あんた達……ロジェ達と一緒じゃなかったの?」
「ウチがおらんかったら、氷作られへんやろ。さっさと体冷やしたれ」
ウンディーネも現れ、桶の水を凍らせる。
「汗の量が減ってるわね……倒れてから、何も口にしてないんじゃない?」
ルナの言葉に、たしかに、倒れてからこれまで水の一滴も飲んでいないことに気づき、慌てて水差しの水をコップに注ぐ。
注いでから、
「って、これ、どーやって飲ませんのよ?」
素朴な疑問に、コップ片手に首を傾げた。
* * *
「なんつーか……たまんねーな、これ……」
むせかえるような血のにおいに、キュカは眉間にシワを寄せる。
バジリスクを片っ端から退治し、ナイフで腹を裂いて内臓をえぐる――
このなんともグロテスクな作業に、テケリとエリスを連れてこなくて良かったとつくづく思う。
ユリエルも、手を血で染めながら、
「まあ、肉屋になったと思えば」
「……肉屋には絶対転職しねー……」
結局、解体したバジリスクの腸内にププはなく、引っ張り出した内臓を元に戻す。
臭いがきついのか、スカーフで顔を半分覆ったジェレミア――ナイフ片手に返り血を浴びたその姿は、まるで強盗傷害事件を起こした後のようだった――も、手を動かしながら、
「馬鹿なこと言ってないで、さっさとしろ。こんな所で病死なんかされたら、気分が悪い」
「病死……」
その言葉に、こちらに背を向けて作業をしていたロジェの手が、ぴたりと止まる。
「おい、ジェレミア……」
キュカが批難じみた目を向けるが、ジェレミアは悪びれた様子もなく、そっぽを向く。
「とにかく探すしかありません。きっと、一匹くらいは見つかるはずです」
ユリエルの励ましの言葉は聞こえなかったのか、ロジェは背を向けたまま、
「認めない……こんな所で、あっさり病死なんて……」
「……ロジェ?」
腹の底から絞り出すような独り言に、一瞬、背筋に薄ら寒いものが走るが――ロジェはこちらの視線には気づかず、別のバジリスクの解体を始める。
「…………」
「――おい。手を休めないで、さっさと探せ」
「あ、ああ」
ジェレミアににらまれ、キュカは再び、バジリスクの解体を始めた。
* * *
「ねえ。『邪精霊』って一体なんなの?」
月読みの鏡の上にミエインの幻影が現れるなり、エリスは問いつめる。
「タナトスって化け物に襲われて、なんか、傷跡にヘンな模様が出来てるけど、あんな気味悪いの見たことない。ホントに治るの?」
事情説明を省略するエリスに代わり、ルナが、
「ミエイン。レニがタナトスにやられたわ」
「……そうですか」
その言葉だけで事態を察知したのか、それとも、噂に聞いた千里眼とやらで見ていたのか、ミエインはため息混じりにつぶやく。
しかし、肝心のこちらの問いには答えない。
その態度に、エリスはいらだった様子で、
「教えなさいよ! あんた、なんか知ってるんでしょ!? どうすればいいの!?」
ミエインは、しばらく黙っていたが――やがて、
「……タナトス化」
「?」
「タナトスに襲われた者は、そのまま取り憑かれ……最終的には、自分もタナトスになる」
「…………」
一瞬、意味がわからなかったが――しばらくして、背筋が寒くなる。
「何それ……人があの化け物になるってこと?」
ミエインは無言でうなずく。
後ろに振り返ると、レニの肩の模様は、すでに胸元にまで広がっている。
もう一度、ミエインに目をやると、
「……わたしに出来ること、ある?」
「…………」
しばらくの間、お互い黙り込んでいると、後ろでかすかな衣擦れの音がする。
「――キュィッ!」
ラビの声に振り返ると、レニがうっすらと目を開ける。その傍らで、ラビが嬉しそうに耳をぱたぱた振っていた。
「おっ。気ぃついたか?」
「…………」
ウンディーネがレニの顔をのぞき込むが、姿が視界に入っていないのか、焦点の合わない目をさまよわせる。
「大丈夫? 水飲む?」
水の入ったコップを口元に持って行くが、レニはそっぽを向く。その拍子に、頭に乗せていた氷嚢が落ちた。
ルナも、レニの真上を漂いながら、
「今、みんなが薬の材料を探しているわ。それまで、なんとかがんばって」
「…………」
その言葉に、彼は息も絶え絶えに、
「……余計な、ことを……」
「余計なことって……このままじゃ死ぬでしょ! ホラ、飲みなさいよ!」
水を突きつけるが、飲む気はないらしく、再び顔をそむける。
「もう! 何があったのかは知らないけど、ちょっとは生きることに執着したらどうなの!? あんたって、『自分なんかどうでもいい』って感じで、見ててイヤなのよ!」
「…………」
怒鳴りつけるが、レニは胸元――服の下の、あの指輪に触れると、
「……いいんだ。もう……」
かすれた声でつぶやくと、再び目を閉じる。
「あ! ちょっと!」
揺さぶるが、まるで反応がない。
「――マナの女神の加護を」
その言葉に振り返ると、ミエインはすでに姿を消していた。
「な、何が女神よ! バッカじゃないの!?」
月読みの鏡の、揺れる水面に向かって怒鳴りつける。
みんなそうだ。
自分の力ではどうにもならないことが起こると、女神にすがる。
女神にすがった所で――何かが起こるわけでもないのに。
「……誰か来るぞ」
「また後でな~」
精霊達が姿を消し、それと同時に、ドアが開く。
「――待たせたな」
「待ったわよ!」
テセニーゼが部屋に入ってくるなり、ヤケクソ気味に怒鳴る。
「何やってたのよ! 手に負えないから、逃げ出したかと思ったわよ!?」
「……誰が逃げるか。下で薬を作ってきただけだ」
言いながら、手にしたカップを見せる。中をのぞき込むと、深緑色の怪しい液体が、カップの半分まで入っていた。
テセニーゼは机の上に鞄を置くと、窓際の、カラになった花瓶に目をやり、
「そこにあったのは、強い解熱効果を持つ薬草だ。この辺りには生えていないはずだが……」
「あ……あの子達……」
――気づいてた?
だから、わざわざ村の外まで探しに行っていたのだとしたら――
「気休めでも、ないよりはマシだ。これで少しは熱が下がれば――」
「貸して!」
テセニーゼがセリフを言い切るのを待たず、カップをひったくる。
生ぬるい、深緑色のドロリとした液体に、一瞬ためらうが――
「まったく……自分一人の命だと思ってんじゃないわよ」
覚悟を決めて薬を口に含むと、意識のないレニに、口移しで少しずつ飲ませる。
飲ませてから、
「――にっがー! なにコレ、めっちゃ苦い!」
ぺっ、ぺっ、と、薬混じりのツバを吐く。
「……いちいち騒がしい娘だね、キミは」
さすがのテセニーゼも呆れた様子で、
「それに……これを使えばいいだろう」
言うと、鞄の中から、細い吸い口のついた薬飲み器を取り出した。
…………。
「――そんなのがあるなら、さっさと出しなさいよ!」
「……今出した」
「も~……病気が移ったらどうしてくれんのよ~」
エリスはあまりの苦さに涙目になりつつ、口をぬぐった。
* * *
「ここもダメにゃ……」
「あきらめちゃダメであります! 次行くであります!」
テケリが檄を飛ばすが、ニキータは首を横に振り、
「もう全部の店を回りましたにゃ。次なんてにゃいですにゃ」
「そんなぁ……」
さすがのテケリも、顔に絶望の色を浮かべる。
そもそも、こんな小さな町だ。回れる商店自体少ない。
「ここはロジェさん達が帰ってくるのを待つしか――」
「まだ……まだ、行ってないところがあるであります!」
その言葉に振り返ると、テケリは前方――民家の屋根の向こうに目を向けている。
テケリの視線の先にあったのは、周囲の建物より頭ひとつぶん突き出た、この町でもっとも大きな建物だ。あの建物は――
「きょ、教団に頼むですかにゃ?」
「背に腹は変えられないであります!」
テケリは何か使命感に燃えているのか、ニキータの手を取ると走り出す。
数分後。
「…………」
「まさか……ここも在庫切れにゃんて……」
がっくり肩を落とし、二人並んで教会からとぼとぼと出てくる。
なんとか交渉してみたものの、ププは数日前に使い切った後だったらしく、入荷はいつになるかわからないという。
「やっぱり……ロジェさん達が見つけてくれることを、女神様に祈るしかないですにゃ」
「もし……見つからなかったら……」
振り返ると、いつも騒がしいテケリがうつむき、ぷるぷると肩を振るわせ――
「――イヤであります! レニさん、死んじゃヤであります~!」
「ちょっ……!」
突然、人目も気にせず大泣きを始めるテケリに、慌てて辺りを見回す。
「ああもう……泣いたって仕方ないですにゃ!」
「だって、だってぇ~」
テケリの顔をハンカチで拭いてやるが、一向に泣きやむ気配はなく、困り果てていると、
「――キミ達、こんな所で奇遇だな」
その声に振り返ると、見覚えのある女性が視界に入った。
一度会ったら、忘れられそうにないその姿は――
「イ、イザベラさん!?」
「ふぇ?」
意外な人物の登場に、テケリも一瞬泣きやむ。
なんとも目立つその姿に、町ゆく人も振り返るが、イザベラはまったく気にした様子もなく、テケリの前で足を止めると、
「どうした? こんな所で大泣きするとはみっともない」
その言葉に、テケリはイザベラに背を向け、慌ててニキータのハンカチで顔を拭き、鼻をかむと――こちらに返す。
「…………」
とりあえず、ニキータはハンカチの汚れていない部分をつまみ、
「――そ、そうにゃ! イザベラさん、回虫ププをご存じですかにゃ?」
「回虫ププ?」
唐突な質問に、イザベラはきょとんとするが、
「……病人かね?」
「レニさんが、病気で死にそうなのであります~! お薬つくるにも、ププがどこにもないであります!」
テケリが、再び泣きそうな顔で訴える。
「今、ロジェさん達がバジリスク退治しにゃがら探してるんですが……元々が稀少な虫。見つかる確率は低いですにゃ」
「ふむ……」
こちらの言葉に、イザベラは少し考え、
「……必ずしも、ププでなければならないことはないだろう」
意味がわからずテケリと顔を見合わせると、イザベラはポケットから青い小瓶を取り出す。
「それは?」
眉をひそめるニキータに、イザベラは笑みを浮かべ、
「魔界の、万病に効く薬さ。これを飲ませれば、どんなに重い病でも、あっという間に良くなるだろう」
「ホントでありますか!? 治るでありますか!?」
テケリの表情が輝くが、イザベラはすぐに、
「ただし、副作用がある。――病が治るかわりに、これまですべての記憶が消滅する」
その言葉に、凍り付く。
「……マジですかにゃ?」
「信じる、信じないはそちらの自由だ。単に、思い出せなくなるのとは違う。記憶の『消滅』だ。ある意味、死ぬことと同じか……死ぬことより、残酷かもな?」
「…………」
さすがに顔面蒼白になるテケリに、イザベラは笑みを浮かべ、
「あくまでも『最悪の場合』だ。ロジェ達が首尾良くププを見つけてくるかもしれん。まあ、一応持っておいて、不要になったら捨てるといい」
言うと、小瓶をテケリに渡す。
「あ、あにょぅ。イザベラさんは、にゃにしにここへ?」
「人捜し、さ」
それだけ言うと、イザベラは通りの向こうへと去っていく。
テケリはテケリで、もらった小瓶をにらみつけ、
「このままじゃ死んじゃう……でも……これを使ったら、テケリ達のことを忘れちゃう……」
思い詰めた顔で、ぶつぶつとつぶやいている。
……どちらにせよ、自分達に、これ以上出来ることはない。
「――とりあえず、一度、宿に戻りますにゃ! もしかすると、ロジェさん達が戻ってるかもしれにゃいですし!」
ニキータの言葉に、テケリも我に返り、
「そ、そうでありますね。戻るであります!」
うなずくと、テケリはポケットに小瓶をしまい、宿へと走り出した。
* * *
「…………」
「……遅いな」
天井近くを漂いながら、ウンディーネがぽつりとつぶやく。
外を見ると、日はずいぶん傾いている。
テセニーゼは、いつププが届いてもいいよう、薬の準備をしに一階の厨房に行った。
自分はというと――座って待つだけだ。
時々、溶けた氷を新しいものに交換し、汗を拭いてやるのだが、肩の不気味な模様が、もう首にまで広がっている。
高熱も心配だが、どちらかというと、この不気味な模様のほうが心配だった。
「これ……本当に薬で治るようなもんなの?」
聞くが、精霊達は黙ったまま、何も言わない。
「ねぇ。なんか言いなさいよ!」
立ち上がり、振り返った次の瞬間、
「――ど~もぉ~! 私、夢魔のベルですぅ~!」
何もない場所から、突然、変な黒い生き物に乗った少女が現れた。
◇ ◇ ◇
「――ダメだ! 見つかんねー!」
キュカの絶望的な声が響く。
朝から、ほとんど休憩もなしに探しているというのに、バジリスクの死体が増えるだけで、肝心のププはまったく見つからない。
「……解体せずとも、ププが寄生していると一目でわかればいいんですが……」
「いいから探せ! それしかないだろう!」
ジェレミアの怒鳴り声に、ユリエルは困った顔で肩をすくめ、キュカはため息をつくと、再びバジリスクの解体を始める。
ある意味、ただの魔物退治よりもやっかいな作業に、全員疲労の色を隠せない。さらに、西の空があかね色に染まりつつあることが、より一層焦らせる。
ロジェは、いったん手を止めると、
「……みんな、ごめん」
「仕方ねーだろ。俺達も気づかなかったんだ」
こちらの言葉に、キュカは手を休めぬまま返す。
「まったく……ここでくたばられたりしたら、まるであたし達のせいみたいじゃないか。第一、ヤツにタダで死なれたら困る」
そう言いつつも、ジェレミアが一番バジリスクの解体をこなしている。
「…………」
兄のために、こうやって手を貸してくれるのはありがたい。ありがたいが――
「……俺、もうちょっと下を探してみる」
それだけ言うと、周りの意見も聞かずに走り出す。
皆がレニを助けるために、必死にププを探しているというのに、自分は――なぜか、違う気がした。
助けたいという気持ちは確かなのに、なぜか感じる違和感。それがなんなのかわからず、無性にイラついていることが自分でもわかった。
「…………?」
山のどの辺りまで下りただろう。
岩肌が向きだしの斜面に、バジリスクの死体が転がっていた。それも一体や二体ではなく、複数だ。
血のにおいに誘われて、他の魔物達が集まっていたが、皆、食事に夢中なのか、こちらには見向きもしない。
まだ食われていないバジリスクの傷跡を見ると、魔物同士で争ったのではなく、鋭い刃物で斬り裂かれたようだ。
「……誰かが、ここに?」
かなりの手練れだろう。腹を一撃で斬り裂き、さらに内臓を引っ張り出した跡がある。
食事中の魔物達を刺激しないよう、慎重に横を通り抜け、しばらく進むと、脇道から、誰かがこちらに向かって歩いてくるのが見えた。結った青い髪が、風になびいている。
「――ルサ!?」
意外な姿に驚くと、向こうも驚いたらしく、目を見開き、
「またあんた達なの?」
言ってから、辺りを見回し、
「……一人?」
「……一人だ」
正直に答える。
よく見ると、手袋をした手が血で汚れている。
「もしかして……さっき、そこに転がってたバジリスク。あんたが斬ったのか?」
魔法使いだと思っていたのだが、今は腰に剣を下げ、露出を控えてはいるものの、動きやすい格好をしている。
彼女はこちらをにらみつけ、
「そうよ。朝から、回虫ププを探しにね」
「朝から?」
自分達も朝から来ていたが、船で山の中腹まで来て、そこで探していた。どうやら彼女は、山の下で探していたらしい。
ルサは、同じように血で汚れたこちらの手に視線を向け、
「もしかして、あなたも私と同じ目的?」
「…………」
無言の肯定と受け取ったらしい。彼女は、今度は小首を傾げ、
「ププを探してるってことは、誰か病人が出たのね?」
言うべきかどうか悩んだが――隠しても仕方がない。
「……兄さんが倒れた。今夜が峠だそうだ」
「そう……」
こちらの言葉に、ルサは、しばし瞑目するが――やがて、荷物の中から白い小瓶を取り出すと、
「これをあげるわ。さっさと持って行きなさい」
フタを開け、小瓶の中をこちらに見せる。
中には、一匹だけではあったが、白くて細長い虫が入っていた。
「これって……まさかププ?」
こちらが中身を確認すると、ルサは小瓶のフタを閉め、
「……私は急がないから。さっさとお兄さんの所に持って行きなさい」
「いや、でも、なんで……?」
わけがわからず戸惑うが、ルサはこちらの疑問には答えず、
「いいから、受け取りなさい」
強い口調で、小瓶を突きつける。
「……ただし、私からもらったことは口外しないで。あくまでも、あなたが自分で見つけたことにする。それが条件よ」
「わ、わかった……」
妙な迫力に押され、小瓶を受け取るものの、彼女の行動の理由がさっぱりわからない。
しかし、こちらが問いつめるより早く、ルサは足早にその場から立ち去った。
* * *
「!?」
突如現れたのは、変な生き物に乗った、テケリよりも小さな女の子だった。
カールした灰色の髪、陶磁器のような白い肌、クリクリした赤い瞳が印象的で、ぶかぶかの青い服に、鈴のついた大きな帽子という格好のせいか、黙ってじっとしていれば人形と間違えるかもしれない。
「な、なに? あんた」
いや、そもそも、どこから入ってきたのだろうか。周囲を見回すが、ドアは開いていないはずだし、窓とは逆の方角から現れた。
こちらの戸惑いなどおかまいなしに、ベルと名乗った少女が乗っている生き物――体型が豚に似た、頭から尻に向かって黒、白、黒という体毛の生き物は、のっしのっしとこちらの前を横切ると、眠っているレニに長い鼻を伸ばす。
ベルも、その動物の背から身を乗り出し、レニの顔をのぞき込むと、
「この子がレニちゃんですかぁ? これはまた重症ですねぇ~。毎日毎日、悪い夢にうなされて、人生が嫌になってるおツラですぅ~」
「……わかんの?」
こちらのつぶやきに、ベルは自信満々に、
「当然ですぅ~。バクちゃんは嫌いですけど、タナトスは大喜びしそうな悪夢ですぅ」
「――わかるの!?」
『タナトス』の言葉に、エリスの目の色が変わる。
しかし、こちらのことなどおかまいなしに、ベルは自分が乗っている生き物の上に立ち上がると、
「それじゃあ、あらためて自己紹介ですぅ~! 私は夢魔のベル。この子はバクちゃんですぅ~。私達、ミエインちゃんに頼まれて来ましたぁ~!」
「ミエイン?」
「なんや、ミエインの知り合いか。……けったいな知り合いがおるなぁ」
ウンディーネも目を丸くし、肩をすくめる。
ベルは、バクの上からこちらを見上げると、
「それじゃあ、今度はそっちの番ですぅ! お名前は?」
「エ、エリス……」
「エリスちゃんですね! よろしくですぅ~!」
無邪気な笑顔で右手を差し出され、思わずその手を握り返すと、ベルは嬉しそうに握った手を上下に振る。
「……あなた、さっき『夢魔』って言ったわよね? 本来、夢魔は現実世界とは関わらないんじゃなかったの?」
ルナの言葉に、ベルはこちらから手を離すと、困った顔で、
「まあ、そうなんですけどぉ……ミエインちゃんの頼みなんで、今回は特別ですぅ~。みんなにはナイショですよぉ?」
そう言って、唇に人差し指を当てる。
サラマンダーは眉間にシワを寄せ、
「えーと、つまりなんだ。オマエは、タナトスをどうにかするために来たんだな?」
「あくまでも、タナトスの浸食を抑えるだけですぅ」
「……どういうこと?」
こちらの問いに、ベルは、ずれた帽子を直しながら、
「一度人に取り憑いたタナトスは、根本的にやっつけることも、取り払うことも出来ないんですぅ。薬は、タナトスの毒を抑えるには有効ですけどぉ、タナトスそのものを抑えるには、直接タナトスに干渉(かんしょう)するしかありませぇん」
「?」
今ひとつ意味がわからなかったが、ふと、ベッドに目をやると、モゾモゾと布団が動き、中からラビが顔を出す。
ベルは、目を輝かせてそれを抱き上げると、
「うわ~、かわいいラビちゃん! ま、小難しい話はこのくらいにして、とりあえず行くですぅ!」
「どこに?」
「レニちゃんの夢の中ですぅ!」
ベルがキッパリ断言すると、次の瞬間には、知らない場所に立っていた。