庭に出ると、小鳥達がさえずりながら、木から木へと飛び交っていた。
いつもの光景だった。
見慣れた――むしろ、見飽きた光景だった。
耳に入ってくるのは木々のざわめきと、堀を流れる水の音、そして小鳥達のさえずりだったが――それらの音に混じって、何かが聞こえてきた。
歌声だった。
一瞬、意識が遠のき――気がつくと、さっきまで枝から枝へと飛び交っていた小鳥達が、一羽残らず地面に落ちていた。体を不自然にねじ曲げ、翼は折れ、血のついた羽が風にさらわれる。
「…………!」
背筋に寒気が走り、思わずその場にへたり込む。
一瞬の出来事だったはずなのに、その『一瞬』の記憶が、まったくなかった。
「――あーあ、ひどいなぁ。コレ、キミがやったの?」
「…………」
背後から、聞き慣れた軽薄な声が聞こえたが、振り返る気も起こらない。
少しずつ――だが、確実に、壊れていく。
「どうして……」
どうして、何もしない。
空を振り仰ぐと、嫌味なくらい晴れた青空に、白い雲がゆったり流れている。
とても遠くに感じるその空に向かって、
「どうして……どうして何もしない!? この世界はお前が創ったのだろう! なぜ馬鹿共を野放しにする!?」
ありったけの声で怒鳴る。
「見ているだけなのか!? 自分が創った世界に災いの種が芽吹こうと、見ているだけなのか……!? それが嫌なら……さっさと私を殺すがいい!」
しん……と、辺りは、不気味なくらい静まり返る。
風も止まり、さえずる小鳥もいない。
「――答えろ! マナの女神!」
◆ ◆ ◆
まぶたを開けると、目の前がかすんで見えた。
しばらくして目の焦点が合ってきたのか、天井が見えるようになる。どこからともなく、小鳥のさえずりも聞こえてきた。
頭が、ぼんやりする。
――ここは……
さっきまで夢を見ていた気がするが、思い出せない。
自分がどういう状況に置かれているのかわからなかったが――今理解出来たのは、ベッドで眠っていたということと、
「う~……ラビきち、くすぐったいであります~……」
なぜかラビだけでなく、テケリまでもが同じベッドで眠っているということだった。
◇ ◇ ◇
「いいからさっさと食え!」
「…………」
さすがにいらついた様子で、ジェレミアはスープの入った皿を突きつけるが、相変わらず、レニは無言のまま、布団にくるまって背を向けている。
「ロジェさん、大丈夫ですかにゃ?」
「ああ……」
ニキータが救急箱の中からガーゼを取り出し、こちらの右手の傷を止血する。
「俺、あのラビになんかしたかなあ……全然、心当たりないんだけど」
兄にやたらめったらなついているとは思っていたが、まさか近づいただけで噛みつかれるとは思ってもみなかった。
「ラビは、元々警戒心の強い生き物ですけど……たしかにあのラビ、ちょっと変わってますにゃ」
言いつつも、その作業は淡々としたもので、ある程度血が止まると消毒をし、慣れた手つきで包帯を巻く。
手当てが終わって振り返ると、ジェレミアはスープを突きつけたまま。レニも布団にくるまって背を向けたままの膠着状態が続いていた。
ノルンに来て三日目。
昨日には熱が下がり、今朝になって意識が戻ったまでは良かったが、一向に何も食べようとしない。
寝込んでいる間は点滴で生きていたものの、それ以前からほとんど食べていないはずだ。元々体格は細かったが、さらにやつれてしまったのは誰の目から見ても明らかだった。
もっとも、それは食事さえすれば良くなることではあるのだが、これではまるで――
「まるで――」
「なんだか、生きるのを嫌がってるみたい」
エリスのつぶやきが聞こえ、口から出かけた言葉を呑み込む。
その通りかもしれない。
自分は拒食症みたいだと思ったが、たしかに、エリスの言っていることのほうが近いような気がする。
食べなければ死ぬ。当たり前のことだ。
その当たり前のことを、拒んでいる。
ジェレミアは、スープをテーブルの上に置くと、
「まったく、お前のせいで、あたし達がどれだけ苦労したと思ってるんだ?」
「……頼んだ覚えはない」
その言葉に、ジェレミアはこめかみを引きつらせ――どこからともなくサンタリンゴを取り出すと、片手で握り、
――グシャッ!
…………。
一瞬、部屋の中が静かになる。砕けたサンタリンゴの残骸が、ボタボタと床に落ちる音だけがした。
ジェレミアは、サンタリンゴの汁で手を濡らしつつ、一言、
「食え」
「…………」
レニの傍らで、ガタガタ震えるラビの怯えっぷりが、ジェレミアを除く全員の心中を代弁しているように見えた。
「それじゃかえって食欲なくす……」
「なんか言ったか?」
つぶやきが聞こえたのか、ジェレミアがこちらをにらみつけるが、さっ、と目をそらす。
「まったく、困った人ですね」
見かねたユリエルが、口を開く。
さすがにこちらは脅迫などせず、諭すように、
「この際はっきり言っておきますが、あなたは足手まといです」
「…………」
「あなたのせいで、ずいぶん時間を無駄にしました。使わなくてもいい労力を使いました」
「……なら、捨て置けばいいだろう」
レニはぽつりとつぶやくが、ユリエルは腰に手を当て、
「そういうわけにもいきません。あなたは、我々にとっては捕虜のようなものです」
「捕虜?」
その言葉にエリスが目をぱちくりさせるが、ユリエルは気づかず、
「敵の情報を得るためにも、捕虜は丁重に扱わねばなりません。死なれるなどもってのほかです」
――丁重……?
一瞬、疑問が脳裏をよぎったが、ギリギリのところで言葉を呑み込む。
「とにかく、さっさと回復してもらわねば、それまでこちらは足止めを食うことになります。迷惑なのでさっさと食べてください」
無言。無反応。
ユリエルとしては、ここで何かリアクションが欲しかったようだが、世の中というものは、自分の思った通りにはいかない。
「え~と、ですから……」
ユリエルは、決定打となる次の言葉が思いつかなかったのか――しばし考えこみ、
「えー、つまり……いいから食え」
「キィッ!」
「……まさか私ともあろう者が、飼いラビに噛まれる日が来るとは思ってもみませんでした」
「『いじめてる』と思ったんじゃにゃいですかね?」
どばどばと、ユリエルの手から流れる血を、ニキータはため息をつきながら止血し、ロジェの時と同じように手当てをする。
しょせんラビに噛まれた程度の小さな傷ではあるが、ユリエルにとってはプライドへのダメージのほうが大きかったのは目に見えて明らかだった。
その光景を眺め――ラビに目をやると、
「あのラビ……そのうち、『今夜のオカズ』にされなきゃいいけど……」
「そこまで大人げなくないです」
つぶやきが聞こえたのか、手当てを終えたユリエルが冷静に返す。
レニは相変わらず、いじけた子供のように布団にくるまってこちらに背を向けている。その枕元にはラビが立ちはだかっていた。
『史上最弱』と名高いラビ一匹に、なぜか勝てる気がしない。仮にあのラビがいなくても、本人に食べる気がなければ意味はないのだが。
ロジェは説得する前に敗れた。ジェレミアの脅迫もダメだった。ユリエルはロジェの二の舞となった。エリスはラビに噛まれるのがわかっていたので最初から近づかないでいる。まあ、遠くから声をかけるくらいはしていたが。
ちなみにキュカは傍観を決め込んでいるらしく、腕組みをして窓枠に身を預けている。
「……なあ。お前もなんか言ってくれよ」
小さく批難じみた声をかけるが、キュカは肩をすくめ、
「あー、無駄無駄。ああいうタイプは、言えば言うほどムキになるんだ。……ほっといたほうがいいんじゃねーのか?」
最後は、こちらにしか聞こえないよう、小声で言う。
たしかにそうかもしれない。
どうやらニキータも同じ考えらしく、身の回りの世話をするだけで、余計なことは言わないでいる。
キュカはひそひそ声で、
「まったく、あんなに世話焼けるのが兄貴だとお前も大変だな? 昔からああだったのか?」
「…………」
問われて――昔のことを思い出すが、
「いや……そんなこと、なかった……」
自分がわがままを言って困らせることはあったものの、兄がわがままを言って、周囲を困らせるようなことがあっただろうか? むしろ――
「たしかに頑固なところはあったけど、大人の手を焼かせたりはしなかったと思う……」
その事実に行き当たる。
……今にして思うと、大人にとってなんとも都合のいい、楽な子供だったような気がする。
キュカは意外そうに目を丸くするが、口を開くより先に部屋のドアが開き、
「レニさん、まだゴハン食べてないでありますか~?」
いないと思っていたら、料理の載ったトレーを持って、テケリが部屋に入ってきた。全員まだ朝食を摂っていないのだが、テケリは一足先に自分の分を用意してもらったらしい。
テケリはトレーをテーブルに置くと、
「何日も食べてないのに、おなかすかないでありますか?」
「…………」
テケリ相手にも無反応だったが、テケリはおかまいなしに、床にひざをついてベッドにあごを乗せ、
「テケリは朝からなにも食べてないでありますが、もうおなかすいて死にそうでありますよ」
「……だったら食えばいいだろう」
レニは背を向けたまま、ぽつりとつぶやくが、テケリは口をとがらせ、
「レニさんが食べないなら、テケリも食べるのやめるであります」
「…………」
ラビもテケリには警戒せず、レニの肩を鼻でつつく。
テケリはそれっきり何も言わず、ベッドにあごを乗せたままぐったりしている。よほど腹が減っているらしく、腹の虫が鳴った。
「おい……」
さすがに気になるのか、視線だけテケリに向けるが、テケリは頑(がん)として食べないつもりらしい。わざわざ自分の朝食を持ってきたのも、一種の意思表示だろう。
再び腹の虫が鳴るが、テケリは口をへの字に曲げ、
「……仲間が食べないでいるのに、テケリだけが食べるわけにはいかないであります」
「…………」
「テケリが飢え死にしたら、レニさんのせいであります~!」
この調子だと持久戦になりそうだと思ったが、レニも同じことを考えたらしく、深い――深いため息をつくと、
「……わかった。わかったから……食え」
その言葉に――テケリは、ぱっ、と表情を明るくした。
「テケリ、ありがとう」
「うきょ?」
こちらの言葉に、テケリは階段の途中で足を止め、目をぱちくりさせる。持っていたトレーには、一つを除いてカラの食器が乗っていた。
一階で待っていたロジェは、テケリが階段から下りて来るのを待ち、
「兄さんのことだよ。……結構、頑固なところがあるから」
どうやら半分しか食べてくれなかったようだが、まったく食べなかったことを思うと、たいした進歩だ。
テケリは、こちらの言わんとしていることをようやく理解したのか、『ああ』とうなずき、
「たいしたことじゃないであります。テケリはテケリのおかあさんと同じことをしただけであります」
「…………?」
意味がわからず目をぱちくりさせると、テケリは笑顔で、
「テケリもちっちゃい頃、カゼで寝込んで何も食べなかったことがあったであります。その時に、おかあさんが同じことをしてくれたであります」
「…………」
テケリが家族の話をするのは初めてのような気がする。知っているのは、流行病で両親が亡くなり、その後、叔父夫婦に引き取られたということくらいだ。
逆を言えば、それくらいしか知らないことに今頃気づく。
「それにしても、レニさんが元気になってよかったであります! これでイザベラさんのお薬、捨てられるであります!」
「薬?」
聞き返すと、テケリはきょとんとした顔で、
「うきょ? 言ってなかったでありますか? テケリ、イザベラさんにお薬もらったであります」
「イザベラがこの町に来ていたのか?」
テケリはうなずくと、持っていたトレーを階段に置き、ポケットに手を突っ込む。
「あのあと、ごたごたしてたでありますから……言い忘れてたであります」
そう言うと、取り出した青い小瓶をこちらに差し出す。
「魔界のお薬らしいであります。どんな病気も治るけど、その代わりに、記憶が消えちゃうそうであります」
「記憶が……」
小瓶は、手の中にすっぽり収まるような小さなものだった。中身は粉らしく、振るとサラサラ音がする。
「イザベラはどこに?」
「さあ? 『人捜しに来た』と言ってたでありますが……まだこの町にいるかどうかは、わかんないであります」
「……そうか」
……こんなことを聞いてどうするのだろう。
自分でも一瞬不思議に思ったが、とりあえず今は、
「俺達、これから出かけてくるよ。今日はエリスも一緒に来るらしいから、その間、兄さんのこと頼むぞ?」
「ラジャ! であります。レニさんのことは、テケリにお任せであります!」
テケリは元気に手を挙げると、小瓶のことなどさっさと忘れ、トレーを持って小走りに食堂へと向かう。食器を返したら、すぐにレニの元へ向かうだろう。
その後ろ姿を見送り――再び、小瓶に目をやる。
「記憶が消える、か……」
……果たして、そんな薬があるのだろうか。
とはいえ、出所が魔界なら、本当にありそうな気もする。
もし、そんな薬があるのなら――
「…………?」
ふと視線を感じ、顔を上げる。
「にゃあ」
そこに人の姿はなく、一匹の白い猫が、階段の上からこちらを見下ろしていた。
◆ ◆ ◆
「…………?」
――風の音、か?
妙な物音に、目を覚ます。
食事(と言っても、半分も食べなかったが)の後、すぐに眠ってしまったが、どれくらい時間が経ったのだろう?
部屋を見渡すと、テケリがテーブルに突っ伏して眠り、ラビは枕元でぐっすり眠っていた。
起こさないよう、ベッドから下りようと床に足をつけた途端、
「―――!」
全身から力が抜け、そのまま派手な音を立てて倒れる。
「っくぅ……」
ぶつけた腰をさすり、もう一度立ち上がろうとするが、足に力が入らない。
「ふぇ?」
「キュゥ?」
結局、目を覚ましてしまったテケリとラビが、寝ぼけ眼(まなこ)でこちらを見下ろす。
「レニさん!?」
テケリが慌ててイスから飛び降り、こちらに駆け寄る。
「――大丈夫ですかにゃ? すごい音がしましたにゃ」
どうやら部屋の外まで音が聞こえたらしく、ドアが開き、ニキータが紙袋を抱えて入ってきた。
ニキータは、一目見て状況を理解したのか、持っていた紙袋をテーブルに置くと、
「無理しちゃダメですにゃ。三日ぐらい寝込んでたんですから、足が弱ってるんですにゃ」
「だいじょうぶでありますか? どこか痛くないでありますか?」
「あ、ああ……大丈夫だ」
テケリとニキータに支えられ、立ち上がるとベッドに腰を下ろす。
「…………?」
その時になって、右肩に包帯が巻かれていることに気づく。
宿の青い寝間着を着ていることには気づいていたが、包帯までは気づかなかった。
服越しに触れてみるが、特別痛みは感じない。普通の包帯に何か手を加えているのか、薬品臭がした。
「――あ、それはそうと、ロジェさんからこれ預かってますにゃ」
「ロジェから?」
ニキータから紙袋を受け取り、中を見る。
「服……?」
どうやら新品らしく、薄紫のゆったりしたローブが袋の中に入っていた。ご丁寧なことに、洗い替えやら下着やら、全部そろっているようだ。
そういえば、以前の服は間に合わせで調達した上、破けて血まみれのはずだ。自分が寝込んでいる間に用意してくれたらしい。
「…………?」
――手紙?
紙袋の底に、一通の封筒が入っていることに気づくが、
「それにしても、今にも死にそうな顔してたのに、治ってホント良かったですにゃ」
ニキータの視線に気づき、封筒に伸ばしかけた手を引っ込める。
「テセニーゼ先生のおかげもありますけど、みにゃさんにも感謝しにゃきゃダメですよ?」
「そうであります! テケリ達、お薬の材料探して、あちこち走り回ったであります!」
「…………」
――余計なことを……
紙袋の中に服を戻し、胸元に手をやると、服越しに、小さな金属の感触がした。
人など簡単に死ぬと思っていたのに、どうして自分は、こうもしぶとく生き残っているのだろう?
「それはそうと、もう起きられるんなら、お風呂にでも入ってサッパリしたらどうですにゃ? 宿の人にお願いして、用意してもらいましたにゃ」
「あ! テケリ、背中流してあげるであります!」
「い、いや、大丈夫だ……」
テケリの申し出を断り、紙袋を抱えたまま、なんとか立ち上がる。
試しに、壁に向かって歩いてみるが、少々ふらつくものの、意識すればなんとか歩けそうだ。
「お風呂場は一階ですにゃ。その間にシーツ替えて、掃除しておきますから、ごゆっくりどうぞですにゃ」
「…………」
宿の者に任せればいいことを、なぜ宿泊客であるニキータがわざわざするのかはよくわからなかったが――性分か、もしくは、宿代を浮かすために働いているのだろうか?
「テケリがご案内するであります!」
妙に張り切っているテケリがドアを開け、その後をラビがついて行く。
自分も廊下に出るとドアを閉め――テケリとラビが先に行くのを確認すると、手にした紙袋の中から、さっき見つけた封筒を取り出す。
封筒には何も書かれておらず、封もされていない。中には、二つ折りにされた紙が入っていた。
「…………」
テケリに見つからないよう、いそいそと紙を広げる。紙には、丁寧な字でこう書かれていた。
【御請求書】
男性衣料品 4,200ルク
その他衣類 1,250ルク
計 5,450ルク
上記金額御請求いたします。 ロジェ
「…………」
無言のまま、紙を封筒に戻し――
何も、見なかったことにした。
「レニさん、もう戻ってたでありますか?」
部屋に入ってくるなり、テケリは目を丸くする。
風呂を済ませて部屋に戻り、ラビと一緒に窓の外を見ていたのだが、この窓からはノルンの町並みが見えた。
テケリも窓際まで来ると、こちらをジロジロ眺め、
「その服、よく似合ってるであります!」
「……そうか?」
一応、新しい服に着替えたのだが、少しサイズが大きい。いや、単純にこちらが痩せてしまったのか……
「ロジェが買ってきたみたいでありますが、そのあと、なにか書いてたであります。なんでありますか?」
「知らなくていい」
それだけ返し――ふと、胸に手を当て、
「ところで……前の服はどうした?」
「ああ、あれなら捨てちゃったであります。破けてたし、血まみれだったし」
「その服の中に、何か入っていなかったか? 鏡とか」
テケリはきょとんとした顔で首を傾げるが、
「さあ……テケリは知らないであります。みなさん、バタバタしてたでありますから」
「そうか……」
まさか、一緒に捨てられてしまった?
いや、さすがに鏡が一枚入っていれば気づくだろう。おそらく誰かが持っているのだろうが――
「ロジェ達はどうした? 精霊は?」
「え~と、ニキータさんはお使いに行ってるであります。ロジェ達は、精霊さん達と一緒に出かけてるでありますが、たぶん、帰ってくるのは夕方になると思うであります」
「……夕方……」
外を見ると、まだ昼前のようだ。おそらく、ロジェ達は精霊達とマナストーンを探しに行ったのだろう。
……ユリエルの言う通り、たしかに、時間を無駄にしてしまったかもしれない。
「それより、こっち! スゴイでありますよ! レニさんも見るであります!」
「おい――」
テケリはこちらの手を取り、そのまま部屋の外へ出ると、さらに上の階に向かう。
どうやら三階建てのようだ。廊下の奥、突き当たりのドアを開けた瞬間、心地よい風が吹き抜けた。
「…………」
テラスに出たらしく、見上げると、空がとても近くに感じる。
「ほら、ここからバストゥーク山が見えるであります! キレイであります!」
テケリが指さした先に目をやると、青い空を背景に、雲に届かんばかりに高い山がそびえ立っているのが見えた。
「バストゥーク山……あれが……」
話でしか聞いたことのない、世界一高い山。
部屋の窓からはノルンの町並みしか見えなかったが、ここがこの宿で一番景色のいい場所らしい。宿泊客のためか、テーブルまで用意されている。
適当なイスに座ると、テケリも隣のイスに座り、
「理由はどうあれ、せっかく旅をしてるであります。楽しまなきゃソンであります」
「損……」
本当にそうだろうか。
もしかすると、自分は、じっとしていたほうが良かったのかもしれない。
余計なことなど何もせず、あの宮殿で――
「――そうだ。のど乾いてないでありますか?」
その言葉に、思考が中断される。
「なにか飲み物持ってくるであります。ちょっと待っててくださいであります!」
そう言うと、こちらの返事も待たずにテラスを飛び出す。
「……慌ただしいヤツだ」
じっとしていられないのだろうか? テケリと比べれば、ラビのほうがまだおとなしい。
膝上のラビに目をやると、穏やかな風に、気持ちよさそうに目を細めていたが――自分はなぜか、嫌な気分だった。
――なんだ? この風……
涼しく、心地よい風なのに――なぜか、妙なものが混じっているような気がする。例えるなら、
「泣いている……?」
ぼんやりと、風の音に耳を澄ませる。
自分でも馬鹿馬鹿しいと思う。
風はただの風だというのに、それ以外の何かを感じるなど……
「――哀れな、たましい……」
「――――!」
突然、背筋にすさまじい悪寒が走り、ラビを抱えて立ち上がる。辺りを見回すが、人の姿は見あたらない。
なのに、感じる。
間違いなく――何か、いる。
鼓動が早まり、背筋に冷たい汗が噴き出すが、体は金縛りに遭ったように動かない。
のど元に、冷たい何かが突きつけられている。
「ククッ……これはまた……想像以上の魂だ……」
「なに……者、だ?」
なんとか、それだけを絞り出す。
目だけを動かし、確認すると、のど元に鋭い刃が突きつけられている。それが大きく湾曲(わんきょく)した鎌だと気づくのに、少し時間がかかった。
「キュゥッ! キュウゥッ!」
こちらの腕の中から飛び降りたラビが、足下を跳び回り、ほどなく鎌が引っ込められる。
「――何者だ!?」
ようやく振り返り、改めて怒鳴りつける。
後ろに立っていたのは、なんとも妙な出で立ちの男だった。
道化師のような派手な赤い衣装を身にまとい、まるでカマキリのような面長の顔、簡単に折れそうなくらい細い手足――なのに、その体と同じくらい巨大な鎌を軽々と担いでいる。
金色に輝く不気味な目に、さきほどの悪寒の正体はこの男だと確信する。
どう見てもこの世界の住人とは思えないその男は、頬まで裂けた真っ赤な口を笑みの形に歪め、
「クククッ……いやいや、驚かせて申し訳ありませんねぇ……あまりにおいしそうな魂なものですから、つい」
「キサマ……この世の者ではないな?」
猫背のせいか、体こそずいぶん小さく見えるものの、放つ邪気は強大なものだった。気を緩めれば、その邪気に呑まれてしまいそうだ。
男は帽子を目深に下ろし、
「ええ、まあ。――あ、申し遅れましたが、ワタクシは『死を喰らう男』……そう呼ばれております。あるお方の元で働いているんですがねぇ。これがまた、なかなか人使いの荒い方でして。最近では、その部下まで偉そうにワタクシに指図するんですよ。まったく、困ったもんですねぇ」
「…………」
誰も身の上話など聞いてはいないのだが、ねちっこい口調でペラペラとしゃべる。
死を喰らう男は、下からこちらの顔をのぞき込み、
「しかしまあ……めずらしい、おいしそうな魂をしている。ヨダレが出そうですねぇ」
「――――!」
その不気味な目に、後ずさろうとするが、足から力が抜けてその場にへたり込む。
「キィッ!」
ラビが全身の毛を逆立て、震えながらも威嚇するが、彼は眼中にもないのか、まっすぐこちらの目を見据え、
「……本当に、めずらしい。とても純粋で、汚れもなく……なのに傷だらけな、哀れな魂……」
へたり込んだまま、必死に後ろへ下がるが、下がった分だけ、死を喰らう男はこちらに歩み寄る。
「こんな魂、めったにありません。どんな味がするのか、楽しみですねぇ……」
「く……る、な……」
やっとの思いで声を絞り出すが、だからと言って見逃してくれる相手ではない。
「――キィッ!」
果敢(かかん)にも、ラビは死を喰らう男の細い腕に思い切り食らいつくが――腕からは血の一滴も流れない。ラビ自身、噛みついてはみたものの、この後どうすればいいのかわからず、むなしくぶら下がる。
死を喰らう男は痛みも感じないのか、ラビを腕から引きはがすと、適当に放り捨て、
「ご安心ください。別に今すぐ殺しはしません。ただ――」
言葉の途中で、死を喰らう男は突然後ろに下がると鎌を振るい――金属がぶつかり合う音が響く。
「…………?」
恐る恐る顔を上げると、見覚えのある亜麻色の髪が視界に入った。
この後ろ姿は――
「……イザベラ?」
「……やっと、見つけた」
ぽかんと見上げるが、彼女は振り返りもせず、両手のナイフで受け止めた鎌を、いともたやすくはじく。
死を喰らう男は、後ろに下がってイザベラから距離を取ると、
「これはこれは美獣様。こんなところまでお疲れ様です」
軽く帽子を直し、構えていた鎌を肩に担ぐ。
――美獣?
通り名のようなものだろうか?
イザベラはこちらに背を向けたまま、両手に持ったナイフを構え
「フン、それはこっちのセリフだ。……いい加減、決着をつけるぞ」
「おお、コワッ! あいにく、ワタクシは決着だのなんだの、そういった物騒なことには興味がありませんので」
死を喰らう男は、芝居がかったしぐさで肩をすくめると――次の瞬間、その姿がかき消える。
そして、
「……え?」
状況が、理解出来ない。
ただ、のど元に、何か冷たいものが触れている。
「それに、仕事がありますし」
その声は、驚くほど近くから聞こえた。
目だけを動かすと、すぐ真後ろに、死を喰らう男は立っていた。こちらののど元に、鎌を突きつけることも忘れていない。
人質に取られる形に、イザベラは不快そうに眉をしかめるが、
「相変わらず卑怯なマネをする。だが、私にそんなものが通用すると思っているのか?」
「まさか。アナタには通用しませんが――」
「――レニさん!?」
声がしたほうに目をやると、ドアの前に、ポットが載ったトレーを持ったテケリが、目を見開いて立っていた。
「来るな!」
「キィッ!」
テケリに向かって叫ぶのとほぼ同時に、ラビがこちらの服に噛みつき――
一瞬にして、視界が暗転した。