「――神獣が目覚める心配はないんやないか?」
ぼんやりとした意識の中、声だけが聞こえた。
――誰だ?
暗いわけでも、明るいわけでもない。何も見えず、天地もわからないが、不思議と不安はなかった。
体が、軽い。
「たしかに、今は眠りが深い状態ダス。マナストーンの力を解放されただけじゃ、封印が解けるとは思えないダスー」
「……そうだといいんだけど……」
「なんだ? 気になることでもあるのか?」
何か相談しているらしい。この声は――精霊達だ。
さながら精霊会議と言うべきか、姿は見えないが、声だけがどこからともなく聞こえてくる。
「さすがに、神獣を復活させるようなムチャはしねーだろ。第一、意味がない」
「…………」
サラマンダーだろうか。その言葉に、言われたほうはしばし黙り込んでいたが、ぽつりと、
「大いなる災い……」
「なんや?」
「仮に神獣を復活させる気がなかったとしても、事故はありえるわ」
「事故?」
「何かきっかけになるような……起爆剤のようなものがあれば、どんなに深い眠りについていても、封印が解け、目覚めてしまうかもしれない」
――起爆剤……
「そんなんゆーても、しゃーないやん? 実際問題、マナストーンはもうほとんど教団の手に渡っとるんやで」
「こんなにマナが消えているんじゃあ、オイラ達だけじゃ対抗出来ないダスー」
ウンディーネの言葉に、ジンもため息をつき、
「今は精霊が集まって、マナストーンを奪い返すチャンスを待つしかないダスー」
「…………」
結局、これまで通りと結論が出たらしい。精霊達は黙り込む。
「あーあ。それにしても情けねぇよな。俺達の仕事はマナストーンを守ることだってのに」
沈黙に絶えかねたのか、サラマンダーが口を開いた。
「あんなにあっさり奪われて、かと言って他のマナストーンを守ることも出来ないで。くそっ、オレ達、なんのためにいるんだ?」
……なぜか、首がムズムズする。
「……聖剣は、どうなっているのかしら?」
「縁起の悪いこと言うな。聖剣が出てきたら、本物の世界の危機だぞ」
「そやそや。十年前も大変やったけど、さすがに聖剣までは出て――」
「でも、この状況だと、もしかすると――」
妙なムズかゆさはどんどん上ってきて、そのムズかゆさをリアルに感じるにつれて、声が遠くなっていく。
「ふぇっ――」
周囲に、大きなクシャミが響く。
おかげで、重力に従って落ちてきた自分のツバを顔に浴びるハメになった。
「…………」
しばらくして――目だけ動かすと、何かをくわえたラビが、きょとんとした顔で床に転がっていた。今の衝撃でベッドから落ちたらしい。
体を起こすと、手で顔をぬぐい、鼻をすする。
何か夢を見ていたような気がするが、思い出せない。まあ、自分が見る夢は大半が悪夢なので、覚えていないほうがいいのだろうが……
――どこだ?
今頃になって、ここに来るまでの記憶がないことに気づく。
部屋を見渡すと、宿の一室らしい。隣にもうひとつベッドがあり、使った形跡はあるものの、誰もいない。
ベッドから下り、窓を開けて空を見ると、朝のようだ。涼しい空気に混じって、かすかな潮の香りがする。家々の向こうに海が見えた。
「キュッ。キュ~ゥ♪」
足下に目をやると、ラビがくわえていたものをくるくる回していた。
白をベースに、先端に向かって緑から青へのグラデーションがきれいな大きな羽根だ。どこで拾ったのかは知らないが、これでくすぐって遊んでいたらしい。
「キュッ」
「くれるのか?」
ラビが、くわえた羽根をこちらに差し出す。受け取ると、嬉しそうに耳をぱたぱた振った。
手にしてみると、ずいぶん大きな羽根だ。この大きさからして、ツェンカーと同じくらい巨大な鳥かもしれない。そんな鳥がいるのだろうか?
いや、それよりも――どこかで見たような気がする。
「その羽根……」
顔を上げると、いつの間にやってきたのか、開いたドアの向こうに目を丸くしたエリスが突っ立っていた。
「どうかしたのか?」
「う、ううん。それより、もう大丈夫なの?」
「ああ……」
適当にうなずきながら、再び窓の外に目をやる。
柵に手をかけ見下ろすと、この窓は宿の裏側に面しているらしく、今いるのは三階のようだ。見下ろすと隣の建物の屋根が見え、さらにその下の通りも見えたが、日当たりが悪く、人影もない。
「ここ、ポルポタよ。着いたのが夕方だったし、おまけにあんたが力尽きてばったり倒れちゃったから、宿に直行したのよ」
言われてようやく、砂浜に降り立ったことを思い出す。そういえば、なんとなく体がホコリっぽい気がする。
「昨日ワッツが言っていたけど、夜は出歩かないでね」
「?」
「教団の戒律だって。最初は捕まるだけだったけど、最近じゃ不審者として斬られるらしいわ。だから気をつけてね」
「…………」
――ウェンデルと同じか……
それにしても、夜出歩いただけで斬るとは、手口がエスカレートしている。もしかすると、ウェンデルも今頃そうなっているのかもしれない。
「――あ、起きましたか」
開きっぱなしのドアから、今度はニキータが入ってくる。
入ってきてから、エリスの姿に気づき、
「ひょっとして、お邪魔でしたかにゃ?」
「? 何がだ?」
ニキータは苦笑いを浮かべながら、
「まあ、それはそれとして、もう大丈夫なら朝食にしますにゃ。その後で、ワッツさんの家に行きますから」
「あ、ああ……」
「それじゃ、オイラ達は下で待ってますにゃ」
そう言うと、ニキータはエリスと部屋を出て行き、後は自分とラビだけになった。
「キュゥ……」
「…………」
開けっ放しの窓から、潮風が吹き込む。
ベッドに腰を下ろし、一度深呼吸をすると、覚悟を決めて服をめくる。
どす黒いタナトスの模様は胸の辺りまで広がり、そこだけ、妙に冷たくなっているような気がした。
ポルポタからはずれた草原の中に、ワッツの家はあった。
聞いていた通り、家の周辺は草原が広がり、連れてきたアナグマは昨日のうちにみんなワッツが放したらしい。初めての場所に慣れないのか、アナグマが家の近くをうろついていた。
「まったく、こんなゴミ山に住んでるのか?」
「バカヤロウ。宝の山と言え」
呆れ顔のジェレミアに、出迎えたワッツは眉をつり上げ反論する。
近くに民家はない。代わりに、家の周辺には金属や木材などが積まれ、ちょっと衝撃を与えれば崩れそうだ。
家の横にワッツの戦車が停めてあったが、そういえばこの戦車も、ガラクタを集めて作ったと言っていた。
となると、このガラクタは何かに使うつもりで集められたものだろう。もっとも、時間経過と共に、さび付いたり腐食して、とても使えそうにないものも混じっていたが。
「ま、それはさておき、入んな」
ワッツの案内で家の中に入る。
見た目こそこぢんまりした建物だったが、造りそのものはしっかりしているようだ。
しかし、外同様、中も散らかっている。一応片づけようとした痕跡があるものの、一人では時間がかかりそうだ。
ワッツは地下に続く階段を下り、
「ここが研究室だ。ちょっとごちゃついてるが、ガマンしてくれ」
そう言うと明かりを灯し、全員を部屋の中へと案内する。
「……こりゃすごいな……」
全員を代表するように、キュカがため息混じりにつぶやく。
部屋自体は広いようだが、中央に大きなテーブルが置かれ、そこを中心に、本などの資料、機械のパーツや機材らしきものが所狭しと置かれている。壁際の本棚や薬品棚、机の引き出しに入りきらなかったものが床に山積みにされ、それがより一層散らかった雰囲気を与えていた。
そんな部屋なだけに、全員が中に入ると、窮屈で息苦しさすら感じる。一応、天井近くに換気口が備え付けてあったが、視覚的な窮屈さにはかなわないだろう。
そして部屋の一番奥に目をやると、何か大きなものが布をかぶせて置かれていた。
「これが例のエンジンだ」
そう言って、うっすらホコリをかぶった布を取ると、下には巨大な金属の塊が置かれていた。やはりこれも、拾い集めた材料をつぎはぎのように組み立てて作ったらしく、金属はくすみ、うっすらとサビも浮いて、お世辞にもきれいとは言えない見た目をしている。
「俺の見立てだと、ちょいと改造すりゃあ、お前らの船に取り付けられそうだ」
「本当ですか? 助かります」
ワッツの言葉にユリエルは笑顔で返すが、自分には、こんな金属の塊のどこをどういじれば船を動かせるのか、理解不能だ。
「ねぇ、これからどうするの? 修理が終わるまでこの町にいるんでしょ?」
エリスの言葉に、ユリエルは少し考え、
「そうですね……精霊やマナストーンに関する情報を集めてもらいたいのですが」
「精霊?」
「何か知っているのか?」
目をぱちくりさせるワッツにジェレミアが問いつめると、彼はあごヒゲをなでながら、
「お前らが探している精霊と同じかどうかは知らねぇが、俺達ドワーフには、古くから大地を司る神様の話があるぜ」
「大地の神、か……」
場所からして、この辺りはフォルセナだろう。そうなると、土のマナストーンと土の精霊かもしれない。
「草原の向こうに、ウルカン鉱山っつー廃坑があるんだがな。昔は、その辺りでヘンな声を聞いたとか、そういう話をよく聞いたもんだ。もしかすると――」
「なら話は早い」
ワッツの話を最後まで聞かず、突然ジェレミアがきびすを返す。
いきなり出かけようとするジェレミアに、キュカが慌てて、
「おい、今から行くのか?」
「行けるうちにさっさと行くのが得策だろう。モタモタしていると、アナイスに先を越されるぞ」
一理ある。とは言え、船の修理も急がなくてはならない。
船は海岸の人目につかない場所に置いたままらしい。船をここまで運べるわけがないので、ワッツの家と船の間を何度も往復する必要がある。そうなると、人手も必要だ。
ワッツも呆れた顔で、
「何も今から行くこたぁないだろ。お前らが捜している精霊と決まったわけじゃねぇし、船の修理にも時間がかかりそうだ。しばらくポルポタで遊んで行ったらどうだ?」
「それこそ時間の無駄だ。修理にしたって、すぐに着工出来るわけじゃないんだろう? ひとつでも可能性があるなら、さっさと確認したほうがいい」
「まあ、そうだけどよ……」
その言葉に、ワッツは困った顔でヒゲをなで、
「……仕方ねぇな。あの鉱山は道が入り組んでいる。たしか地図がこの辺に……」
「すいません」
本来ならジェレミアが謝るべき所を、ユリエルが代わりに謝る。
ワッツは、散らかっていてもどこに何があるのか把握しているらしい。引き出しの中から変色した地図をすぐに見つけ出し、
「気にすんな。だが、あの鉱山は長いことほったらかしになっているから、今どうなっているかわからん。魔物が住み着いてるって話もある」
「だったら俺も行くよ。まさかジェレミア一人で行かせるわけにもいかないし」
「まったく……そうなると、俺も行かないわけにもいかないか」
ロジェに続き、キュカもため息混じりに手を挙げる。
「なら、私も――」
「お前は残ってろ」
『行く』と言いかけて、ジェレミアにさえぎられる。
ジェレミアはこちらをにらみつけ、
「お前みたいな足手まといが一緒に来られると迷惑だ。部屋でじっとしていろ」
そう言い放つと、ワッツが差し出した地図をひったくり、さっさと部屋を出て行く。
ぽかんと、その後ろ姿を見送り――
「……な、何あの態度?」
ジェレミアが去った後、これまで、後ろで黙っていたエリスが眉をつり上げ、
「これまで散々助けられといて、何様のつもりよ!? 人の力でピンチを切り抜けといて、偉そうに!」
「き、きっと、体のこと心配してるんですにゃ。ほら、昨日、倒れたばかりですし」
ニキータがなだめるものの、エリスはニキータをにらみつけ、
「それにしたって、言い方ってもんがあるでしょ? 世の中、体が頑丈な人ばっかりじゃないのよ。体が弱い人は、みんな家でおとなしくしてろって言うの?」
「まあまあ……」
ユリエルはエリスをなだめつつ、ロジェ達に目をやり、
「とにかく、ロジェとキュカはジェレミアと一緒に鉱山へ行って下さい。私はここで、ワッツ殿と船の修理をしていますから」
「精霊を連れて行ったほうが――」
「でも兄さん、この前ヘンなのに襲われただろ? 精霊は兄さんと一緒にいたほうがいいと思う」
言い終わる前に、今度はロジェが口を挟む。
『ヘンなの』とは死を喰らう男のことだろう。たしかに、あんな神出鬼没なヤツがいたのでは、おちおち一人にもなれない。
……精霊が集まってきた今、人員を割いて見張るより、精霊に任せたほうがいいのだろうが、なんとなく、別の理由があるような気がする。
まるで、一緒にいるのを拒まれているような――
「はいはい。じゃあ、足手まといは足手まとい同士、勝手にやってるわよ。鉱山なんて行きたい人が勝手に行けばいいじゃない!」
よほどジェレミアの態度が気に入らなかったのか、半ば八つ当たりのように怒鳴りつける。別に、エリス本人が何か言われたわけではないというのに。
「とにかく、鉱山はあくまでも様子を見るだけにして下さい。自分達だけで、勝手に深くまで行かないように」
「テケリも行くであります!」
テケリが手を挙げると、ワッツはヒゲをなで、
「それよりも、ちょいと部屋の片づけを手伝って欲しいんだけどな。見ての通りのありさまだ。お前ら全員が家ン中入ると、狭くて仕方ねぇ」
「それならオイラにお任せですにゃ。片づけは得意ですから」
そう言っている間も、ニキータはすでに机の上の本や小物を片づけている。日頃から整理整頓を率先して行っているだけに、この散らかりようが気になるようだ。
「ま、そういうこった。お前は掃除してろ」
「う~……」
キュカは、不満そうに頬を膨らませるテケリの頭をぽんぽん叩くと、そのままロジェと一緒にジェレミアの後を追って部屋を出て行く。
それを見送ると、エリスは部屋の中をぐるりと見回し、
「さて、と。それじゃあ、手分けして掃除しましょうか」
「……その前に、風呂を借りたいんだが」
ぽつりとつぶやくと、ワッツはきょとんとした顔で、
「風呂?」
「入る時間がなかったからな」
言いながら、肩から提げた着替え入りの荷物を見せる。
本当ならさっぱりしてから来るべきだったのだが、泊まった宿は決まった時間しか風呂が使えず、ホコリっぽい格好のまま来るしかなかった。
「風呂か……実はまだ掃除してないんだが」
「軽く流せるだけでもかまわんが」
この際、贅沢は言ってられない。ここは謙虚に、掃除くらい引き受けるつもりで言うと、ワッツはひとつうなずき、
「そうか。風呂ならこっちだ」
そう言うと、ワッツはユリエルとニキータに研究室の片づけを任せ、階段を上り、玄関近くの洗面所に案内する。
好奇心か、ついてきたエリスとテケリも後ろからのぞいてくるが、特に深く考えず洗面所に隣接したドアを開けると――そこには、想像を凌駕(りょうが)する光景が広がっていた。
バスタブには水アカがこびりつき、中にはどす黒く変色した液体(たぶん、入浴剤でも入れていたのだろう)が半分ほど残り、異臭を放っていた。壁や床も黒いカビに汚染され、ドアが開いたことに驚いたのか、黒光りする不気味な昆虫が、慌てて物陰へとカサコソ隠れる。
……ぱたんっ、と、無言でドアを閉めると、
「……ここは節水のために、拭くだけでガマンしようかと――」
「入るんだろ?」
「…………」
「いやー、実は風呂掃除を忘れてイシュに出かけちまってなー。一ヶ月ほどほったらかしだ。さすがに怖くて、俺もまだ中を見てねぇんだ」
「ちょうど良かったじゃない。あんた、イシュで風呂掃除のバイトしたんでしょ? だったら一人で出来るわね」
「レニさん、がんばってくださいであります!」
「…………」
笑顔のまま、そそくさと風呂場から離れるエリスとテケリが視界から消え――再び、ワッツに視線をやると、
「入るんだろ?」
「…………」
「……私は……何やってるんだ……?」
シャコシャコと、タワシでバスタブを磨きながらうめく。
もはや別の液体となった汚水を捨て、バスタブの水アカをワッツ特製洗剤をもちいて地道に磨くが、アカを落とすにはかなりの力を要した。
誰かがやらなくてはいけないことだとはいえ、自分がそれをやっていると思うと、虚しいやら情けないやらで泣きたい気分だ。
「――ぷぎっ、ぷぎゅぅぅぅぅ! むぎゅ~っ!」
「……何やってるんだお前?」
妙にむにむにすると思ったら、いつの間にかタワシがラビとすり替わっていた。
「どうやったら、タワシとラビ間違えんねん……」
ウンディーネが、ため息と共にラビに水をかけてやると、ラビはぷるぷると体を振って水を飛ばす。
とにかくバスタブも浴室も、磨いてはウンディーネに洗い流してもらうという作業を繰り返し――
「へー。ずいぶんキレイになったじゃねぇか」
様子を見に来たサラマンダーが、目を丸くする。
最初は見るも無惨だった浴室も、地道に磨くうちにバスタブはもちろん、壁も床も天井も、本来の白を基調とした浴室へと戻る。
「もう……二度とやらん」
ぐったりとうめくと、額の汗をぬぐう。
……しばらく前まで、こんな作業など一切する必要がなかったというのに、今、まさにこの風呂場を自分が掃除したのかと思うと、軽いめまいを感じる。また一歩、庶民に近づいた。
「……私は……何やってるんだろうな……」
再び自問自答してみるが、答えは風呂掃除以外何もなかった。
「おつかれさま。もうお昼よ」
ルナの言葉に、開けていた窓の外を見ると、ずいぶん日が高くなっている。
「他の連中はどうした?」
掃除の途中、ユリエルはワッツと船の具合を見に行くと言って出かけたが、後の三人はまだ掃除をしているのだろうか?
「エリスさんならお昼の支度してるダスー。結構、家庭的ダスね」
「ふぅん……」
元々家事の類は出来るらしく、これまでも食事の支度の手伝いくらいはしていた。もっとも、キャンプ中に作れる料理など限られているので、実際どのくらいの腕前なのかは知らないが。
なんとなく気になったので、様子を見に行こうと浴室から出ると、玄関のドアが叩かれていることに気づく。客のようだ。
「誰だ?」
呼びかけると、一瞬間をおいて、
「ここに、ドワーフの鍛冶屋がいると聞いて来たんだが……」
留守と思って帰りかけていたのか、慌てた様子で返事が返ってきた。
ドアを少しだけ開けると、エリスやジェレミアと年が近そうな若い男だった。茶色い髪に、鎧こそ身につけてはいないものの、腰に剣を下げ、旅人らしい格好をしている。
彼は怪訝な顔で、こちらをじろじろ眺め、
「ドワーフ……じゃないよな」
「悪いが、出かけている」
どうやらワッツの客らしい。ワッツの家なのだから、当然と言えば当然だが。
彼は困った顔で、
「いつ戻ってくる?」
「さすがにそれは……」
「――ねぇ、テケリとニキータは?」
振り返ると、奥からエリスが顔を出す。来客に気づいていないらしく、
「どこにもいないのよ。せっかくお昼用意してあげたのに――」
と、ようやくこちらの肩越しに来客者の顔が見えたのか、言葉が途切れた。
「どうした?」
その顔が、みるみるうちにこわばり、青ざめていく。
視線を戻すと、訪ねてきた男も目を丸くして固まっていたが――我に返ると、
「エリス!?」
「あ、いや……」
エリスはエリスで、今まで見たこともないくらいうろたえ、壁に背をぶつける。
「知り合いなのか?」
「しっ、知り合いも何も……兄さんよ!」
「なに?」
目を丸くして、思わず二人の顔を見比べる。似てない。
男はずかずかと家の中に上がり込み、エリスの腕をつかむと、
「帰るぞ!」
「イヤよ!」
こちらの存在などお構いなしに、いきなり、帰る帰らないと騒ぎ始める。その内容からして――
「お前……まさか家出か?」
「悪いの!?」
「いや、知らんが」
「悪いに決まってるだろう!」
怒鳴ったのはエリスの兄だった。
とりあえず、エリスが『家出娘』であることがわかった。どうりで、家族はもちろん、自分のことも話さないわけだ。
エリスの兄は、エリスの腕をつかんだまま、
「とにかく帰るんだ! 掟を忘れたのか!?」
「知らないわよそんなもん! ――助けなさいよあんた!」
「助けろと言われても……」
傍観するつもりだったが、エリスに怒鳴られ、とりあえず、
「掟とはなんだ?」
「お前には関係ない。……お前か? 妹を連れ回してくれたのは」
「わたしが勝手について行ったのよ! 第一、何が『妹』よ! 赤の他人のくせに、こんな時だけ兄貴面して!」
こちらをにらみつける兄に、エリスが怒鳴りつける。似ていないと思ったら、どうやら血の繋がりはないらしい。
「わたしはあんな所に帰らないわよ! そっちで勝手にすりゃいいじゃない!」
「エリス! ……わがままもいい加減にしろ!」
エリスの兄は、怒りが頂点に達したのか、ぱしんっ! と、エリスの頬に平手打ちする。
その音に、足下にいたラビがすくみ上がり、エリスもぽかんとするが――次の瞬間、
「――何すんのよ!?」
ドゴォッ! と、近くの棚に飾られていた木彫りのサボテン人形(実寸大)を振り下ろす。
……一瞬、『口論の末、家出の妹、兄撲殺!』という三面記事の見出しが脳裏をよぎるが、一応生きているらしい。彼は床に突っ伏し、息も絶え絶えに、
「エ、エリス……ちょっと待……」
「わがままはそっちでしょ! そっちのわがままに、わたしが困るのはいいわけ? 兄さんだって、村のみんなだって、必要としてるのは『エリス』じゃないでしょう!」
兄が頭から流血しつつタイムを申し出ているにも関わらず、エリスは顔を真っ赤にし、
「もううんざりよ! なんでわたしばっかり無理しなきゃなんないのよ! わたしがわたしらしく生きちゃいけないの!?」
さすがに気の毒だったので、体を起こしたエリスの兄にタオルを投げてやると、彼はそれで血をぬぐいながら、
「エリス……それでも、さだめからは逃れられない」
「何がさだめよ! ……マナの女神はすべての命に平等ですって? じゃあ、わたしはなんなのよ? 不平等よ……不平等だわ!」
「…………」
……二人が、なんの話をしているのかはわからない。
わからないが、エリスは首を横に振り、
「そんな世界なら、わたしはいらない! 何もいらない!」
「エリス!?」
「――どこ行くダスー!?」
突然、エリスは家の外へと飛び出し、姿を現したジンがその後を追う。
「まったくあいつは……!」
「お前、名前は?」
「カシムだ」
無視されると思ったが、意外と素直に名乗ると、彼もエリスを追って家を飛び出す。ぶん殴られた直後だというのに元気なことだ。
「…………?」
一瞬ではあったが、カシムの腰のベルトに、何か飾りのような――羽根らしきものが見えた。
「あれは……」
懐から、ラビにもらった羽根を取り出す。この羽根と同じだったような気がする。
肩をつつかれ、振り返ると、ウンディーネが心配そうな顔で、
「なあ。アンタは追いかけんでええんか?」
「ジンが追っているんだろう? ――ルナ」
「なに?」
間髪入れず、ルナが姿を現す。
「月読みの塔で、エリスは何を見たんだ?」
「さあ……さすがの私も、そこまではわからないの」
「そうか……」
エリスに、一体どういう事情があるのかは知らないが、彼女が月読みの塔で見たものと関係あるのかもしれない。
「おい。そんなことより、追いかけなくていいのかよ?」
「…………」
サラマンダーが急かすものの、羽根をしまいながら、
「お迎えが来たなら、帰ればいいだろう」
さも当然のように答えると、ウンディーネはため息をつき、
「……あのなぁ。あのにーちゃん、この調子やと力ずくで連れて帰るで。せめて話し合いが出来るよう、間に入るくらいしたったらどないや?」
「そう言われても……」
なぜ私が。
こういう時に限って、誰もいないという状況が恨めしく思えてきた。テケリとニキータも、出かけるなら一言伝えてくれればいいものを……
「ホレ、さっさとせぇ! どっちにしても、今はそれくらいしかやることないやろ」
「…………」
精霊達に促され、渋々家の外に出るが、すでに影も形も見あたらない。どちらにせよ、逃げるとしたら町くらいしかないが。
「お前、どこへ行ったかわからないか?」
「キュッ」
足下のラビに目をやると、ラビは嫌だと言わんばかりにそっぽを向いた。
「まったく、どこへ行ったんだ?」
誰にともなくつぶやくが、目につくのは無関係の通行人ばかりだ。
しばらく町の中を歩き回り、宿泊していた宿や、人にも聞いて捜すが、見当違いの方角に来てしまったのか、まるで手がかりがない。
エリスを追っているはずのジンも戻らず、かと言ってむやみにうろつき回ったのでは今度は自分が道に迷いそうだ。
ため息混じりに辺りを見回すと、白い、大きな建物が見えた。
――教会、か……
ここでもマナの教団は大きな存在らしい。遠目にも、立派な造りをしていることがわかる。
家々の向こうに見える教会から今いる通りに視線を落とすと、鎧姿の僧兵が歩いていた。
重そうな全身鎧に身を包み、槍を手にぎこちなく動くその姿は、にぎやかな海辺の町にそぐわない。第一、あそこまで重装備する必要があるのだろうか? あんな動きにくい格好では、不審者を発見しても、簡単に逃げ切られてしまうではないか。
「…………?」
――あの鎧、まさか……
ふいに、ひとつの考えが脳裏をよぎる。
確認したい気もするが、それをしてどうする?
それより今は――
「――おや、あんたは!」
突然、ぐわしっ! と、腕をつかまれ、思考が強制終了する。
反射的に振り返ると、頭がぶどうっぽい謎の女が、満面の笑みを浮かべていた。
突然の事に頭が追いつかず、唖然としていると、女は早口に、
「久しぶりだねチャボ!」
「全然違う」
間違いなく初対面である。断言する。キュカのモミアゲを勝手に賭けてもいい。
よく見ると、女は巨大な籐(とう)のカゴに入っており、さらにその足下には大量のフルーツ。脇に『メイメイのフルーツ占い』という立て看板があった。メイメイというのはこの女の名前だろう。
手を払いのけようとするが、女は笑みを浮かべたまま、
「細かいこと気にしなさんな。人捜しって顔だね~? 占ってあげるよ」
「断る!」
……どうやら強引な客引きらしい。慌てて手を振り払って立ち去ろうとするが、メイメイはこちらの腕をがっちり捕んで放そうとしない。それどころか、想像以上の力でこちらを引き寄せ、耳元に顔を近づけると、
「遠慮しなくていいんだよ~。あんたと私の仲じゃない」
「どんな仲だ!?」
「今なら十ルク! さー、やってきな!」
「…………」
ぐりぐりと、メイメイが手にしたイカレモンで頬をえぐられ、周囲に酸っぱいにおいが漂い、足下のラビがひくひくと鼻を動かす。
逃がす気ゼロ。救いもない。迫るイカレモンの酸味。この状況ですべき行動はただ一つ。
「毎度あり~!」
「…………」
何か大きなものに敗北した気分のこちらに対し、メイメイは満足顔で、受け取った金を懐にしまう。
そして、コホン、と咳払いをすると、
「それではさっそく……ビタミン、カロチン、カリウム、ファイバー……ポリフェノォ~~~ルッ!」
何か、わけのわからんことを叫びながら、どういう仕掛けかメイメイの入ったカゴがぐるんぐるん回転を始めた。フルーツも一緒にごろんごろん回転していたが、これのどこが『占い』なのか、もはや自分の理解の範疇(はんちゅう)を超えている。
怯えるラビを抱きかかえ、様子を見ていると――やがて回転が止まり、どさどさっ、と、フルーツもカゴの中で止まる。
メイメイは、足下に落ちたタコオレンジを拾い上げ、食い入るように見つめると、
「んー……『大顔面に待ち人あり』です。……顔の大きい知り合いでもいるの?」
「…………」
ぴゅぅ……と、にぎやかなはずの通りに、妙に冷たい風が吹いた。