22.アナイス王に捧ぐ - 2/2

「――遅かった!」
「お前は……」
 振り返ると、文字通りすっ飛んできたらしい。金色の冠に赤いロングドレスという派手な格好をした女が隣に降り立った。
「ミエイン!?」
「久しぶりですね。ずいぶん雰囲気が禍々しくなったようですが」
 生身で会うのは初めてだ。ヒールの靴を差し引いても、意外と長身だった。
 彼女は、閉じたままの双眸を倒れたルカに向け、
「双子の片割れが……死んだ」
「…………」
 あっという間だった。
 剣は、たやすくルカ自身の体を貫き、あっという間に絶命させた。
「ルカ……ルカ!」
 炎が消え、ルサが、倒れたルカの元に駆け寄る。
 
 ――ォォオ……オオオオオオォォォォ……
 
「なんだ?」
「タナトスの、断末魔だ」
 彼女は、自らタナトスを受け入れた自分とは違う。
 最後の最後まで人間であろうとし、人間としての死を選んだ。タナトスを道連れに。
 彼女にしてみれば、自分を苦しめてきたタナトスへ、一矢報いた形だろう。
「ルカ……」
 ルサが触れた瞬間、ボロッ、っと、ルカの肩が、砂のように崩れ落ちる。
 ひとたび崩れ出すと、後はあっという間だ。風に吹かれ、消えていく。後には黒い剣が取り残されるだけだった。
「嘘だろ……」
 遺体すら残らない現実に、ロジェの声が震えていた。
「私も、死ぬとああなるのか」
 思わず漏れたつぶやきに、ロジェがえらく驚いた顔で振り返る。
「――おーい!」
 ミエインが飛んできた方角から、今度は精霊達を先導に、キュカ達の姿が見えた。テケリとニキータは置いてきたのか、姿が見えない。
「や……やっと、追いついた……」
「遅かったな。お前ら」
「あたしらはお前らみたいに生身で空飛べないんだよ!」
 素直な感想にジェレミアが怒鳴り――ぎょっと、すくみ上がる。
「あんた、まさか……」
 
 ――ズシン!
 
 エリスの言葉は、大きな揺れでかき消された。
 暗黒剣が浮かび上がり、刀身に、不気味な光が宿る。
「さて。エネルギーとしては十分かな。それじゃあ、始めるとするか」
「アナイス! よせ!」
 自分の中のタナトスがそうさせたのか、ルカへの同情がそうさせたのか。
 口ではそう言っても、体は動かなかった。
 浮かび上がった暗黒剣は、その切っ先を闇のマナストーンに向け――あっという間に、突き刺さった。
 
 
「あはははは! 見てこれ! 闇のマナストーンの封印が解けたよ! 思ったより簡単だったねぇ!」
 アナイスの無邪気な笑い声と共に、地面に突き刺さっていた闇のマナストーンがゆっくり浮かび上がる。
「ホント、ルカには感謝しなくちゃね。これまで暗黒剣に蓄えた魂だけじゃ足りなくてさ。ルカくらい闇に染まった魂じゃないと、封印が解けるかどうか、怪しかったんだよ」
 シェイドは、フラフラとアナイスの前に出ると、
「アナイス……まさか貴様、ルカがタナトスに憑かれていたこと、知っていたのか?」
「言いがかりはやめてくれる? 僕は、ルカにはなーんにもしてないよ」
 シェイドの問いに、アナイスは無邪気な笑みを浮かべ――小首をかしげると、
「ただ……タナトスを完全に支配することが出来れば、さらに強い力を得られるって話はしたけどね」
「アナイス……貴様ァッ!」
 シェイドは翼を広げ、闇の波動をアナイス目掛けて放つが、アナイスの張った障壁に阻まれ、霧散する。
「あはは。キミでも、そんな感情的になるんだ?」
「ふざけるな! 貴様がルカを! よくもルカをそそのかして……!」
「だから言いがかりはやめろって、さっきも言っただろ? 僕はちょっとお話をしただけ。それを真に受けて、やるかやらないかは、本人の自由」
「…………」
「そして、完全にタナトスに支配される前に、自ら命を絶つのも、自由」
「…………」
「ルカは幸せだね。自分の心のままに生きて、自分の心のまま、死んだんだから」
「アナ、イス……様?」
 これまで呆然としていたルサが、初めて反応する。その声は、震えていた。
「物にはさ、『想い』が宿るんだって」
 ルサなど眼中にないのか、彼は笑顔のまま、淡々と、
「古い物には、すでに誰かの『想い』が宿っている……そこに、後から来た誰かが入り込む余地なんてない。所詮僕たちは、それを背負わされたに過ぎない」
 マナの嵐が吹き始める。
 それなのに、アナイスの声だけが、やたらはっきりと聞こえた。
「僕は、新しいものがいいんだ」
 強風に動きを封じられ、たまらず地面に身を伏せる中で、アナイスだけは悠然と立っていた。
「誰かのお古なんていらない。空っぽで、余計なものはなにもない、新しいものがいいんだ。いにしえの伝統だのなんだの……古きものは、新しきものへの障害にしかならない」
 強風の中、なんとか目を開けると、縦横無尽に駆け回っていたマナの嵐が、マナストーンに刺さった暗黒剣へと収束していくのが見えた。
「すべて壊れろ。古き女神が造り出したこの世界ごと、消えてなくなるがいい」
「――マナストーンが!」
 風が、止んだ。
 それと同時に、各地のマナストーンからエネルギーが放出され、闇のマナストーンへと収束していく。
「あ、あれ……」
 エリスが指さすが、そんなの言われなくてもわかっている。
 闇のマナストーンに暗黒剣が吸い込まれ、それと入れ替わるように、裂け目から、何かが無理矢理這い出ようとしている。
「これ……ヤバい、よな……」
 縦一本の裂け目が一気に広がり、赤い手が切れ端にかけられる。もうこうなっては、食い止める方法など思いつかない。
「三つの顔の怪物……さて、どんなのかな」
「――――!」
 その時、アナイスの背後に、何かが見えた。
 別に、文字通り何かがいたわけではない。
 しかし、闇の力の影響か、もしくは自分がタナトスと同化したからか。確かに『それ』はいた。
 そして『それ』が何なのかも、はっきりと理解した。
「大魔女アニスの思念……! Ψ計画は、まだ終わっていない!?」
「アハハハハ! 今さら何言ってんの? バジリオスが言ったはずだよ。『ペダン国王アナイスの名の下に、Ψ計画は発動された』って。少なくとも僕は、終了を宣言をした覚えはないよ」
 楽しげに、しかしどこか呆れたようにこちらへ目を向けると、
「……そうか、キミは知らないんだっけ。あの黒い鏡を、僕がいつ、どこで見つけたか」
 思い出したように語り出す。
「正直、僕にもよくわからないんだよ。物心がついた頃には、当たり前のようにあの黒い鏡の前に立っていた」
「王城の中だというのか?」
 彼はひとつうなずき、
「城の地下の、隠し部屋の中……誰かが運び込んだのか、それとも鏡が勝手にやってきたのかは知らないけどね。ただ、幼心に、鏡の向こうに映った女を『母』だと思ったみたいだ」
 自分のことのはずなのに、まるで他人事のように、淡々と語る。
「彼女は虚ろで、空っぽで……唯一、僕をアナイスとして見てくれた。だから『母』だと思ったのかもしれない。いや、本当に母親だったのかもね? これは、せめてもの親孝行さ」
「大魔女アニスを、新たな女神にすると? そのために、マナの世界を破壊すると? 自分さえも含めて!?」
「さっき言っただろう? 古きものは、新しいものへの障害にしかならないって。そのことを僕に教えてくれたのは、他でもない、キミだよ。レニ」
「へ?」
 予想しなかった言葉に、頭の中が真っ白になる。
「古きものに縛られて、散々苦しめられて……でも、もう大丈夫。全部ぶっ壊してあげる。世界は、自由になるんだ」
「――違う!」
 エリスだった。
 彼女は、これまでに見たこともないような形相で、
「違う……違う! それじゃ何も変わらない! 何も自由になんかならない!」
「落ち着け!」
 今にもアナイスに飛びかかりそうな勢いに、ジェレミアが肩をつかんで制止するが、彼女は身を乗り出し、
「マナは、何も縛り付けてなんかいない! 何も押しつけてなんかいない! わからないの!? 縛り付けてるのは自分でしょ!? そんなんじゃあ、たとえ新しい世界を創ったところで、新しい神が生まれたところで、同じことの繰り返しじゃない! 何も変わらない。変わらない!」
「…………」
 アナイスは、冷めた目でエリスを見つめ――静かな声で、
「お前に何が変えられる? マナにもアニスにもなれない半端者のくせに」
「わたしはエリスよ! マナもアニスも関係ないわ!」
「アニス?」
 突然出てきたアニスの名に反応すると、アナイスは表情ひとつ変えずに、
「そうさ。マナとアニスは表裏一体。フェアリーがマナの子ということは、アニスの子でもあるってことさ。……例外なんて、ありえない」
「…………」
「どっちに転がるか興味があったからお前達のところに送り込んだけど、結局お前は、どっちつかずの半端者だ」
「違う。マナはアニスの存在を否定しない。アニスもマナの存在を否定しない。アナイス、あんたも!」
「…………」
「わからないの!? あんた今、『マナとアニスは表裏一体』って言ったじゃない! 例外なんてあり得ないって言ったじゃない! マナもアニスも、二人一緒で初めて一人の女神じゃないの!?」
「…………」
 アナイスは、無言のままエリスを眺め――
「……ならば、その身をもって示すがいい」
 あまり見たことのない、笑みひとつない顔で、
「マナでもアニスでもなく、エリスとして、その身をもって示すがいい。お前に、その資格があるのなら」
「――逃げるぞ!」
 ジェレミアの声に、我に返る。
「ルサ! 来い!」
 こちらの声に、彼女も我に返ったらしい。
 しかし、
「――断る!」
 振り返りざまに叫んだのは、拒絶の言葉だった。
「ルサ! もうよせ! 我らと――」
「うるさい! 誰がなんと言おうと、私は私の道を行く!」
 シェイドの説得も聞かず、彼女は杖を振りかざし、一瞬で姿が消える。
「ルサ!」
「シェイド」
 シェイドは消えたルサを探そうとするが、ミエインは静かな声で、
「もう、好きにしてあげなさい」
「…………」
 その言葉にあきらめたのか、心なし、うなだれた様子で飛び立つ。
「今度こそ行きますよ。ロジェ、あなたも」
「アナイス……」
 ロジェの視線の先に目を向けると、アナイスの横顔が見えた。
 すでにこちらへの関心は失せたのか、その視線は、闇のマナストーンから這い出そうとする怪物に注がれていた。
 
 
「アニスが本当に選んだのは、バジリオスじゃなくて、アナイスだったということか?」
「違う」
 即座に否定する。
 船に戻り、待っていたテケリ達への説明もそこそこに、出航準備を急ぐ。
「心にスキがあって、つけ込まれた私やバジリオスとはまるで違う。あれは……アニスの意志、そのものだ」
「そのもの……ですか」
 ユリエルの言葉にうなずく。
「ヤツは、アニスの申し子だ。アニスのために生まれ、アニスに育てられた。だからこそ、マナの世界を壊すのが、楽しくて仕方がない。それだけだ」
 長年、彼に対して抱いていた疑念が、ようやく解けたような気がした。
 不気味なほど優しくすると思えば、ぞっとするような残忍なことを平気でする。
 今思い返すと、父も、アナイスの異質さに気づいていたのかもしれない。ただ、エルマンという隠れ蓑のおかげで、最後まで正体を見抜くことは出来なかった。
「なにこれ……」
 マナストーンに吸い取られ、一時的にマナが薄れたらしい。
 浮上することが出来たナイトソウルズから見えたのは、地獄絵図だった。
「これが、いにしえの災禍……」
「……ゼーブルファー。三位一体の、闇の神だ」
 シェイド、が苦々しく答えた。
 
 
 闇のマナストーンは消え、闇の渦が大地にに広がっていく。その黒い穴から、上半身だけ這い出た赤い女の巨人、その左右に青白い鬼の顔をした巨人の計三体。その隙間からタナトスの黒い影が次々と飛び出していく。
 腰から下は繋がっているのか、黒い渦の中から出てくる気配はない。出てきて欲しくもないが。
「古い文献で読んだことがある。マナストーンを巡る争いで世界の闇の力が強くなり、闇の神獣が復活したことがあるらしい」
「十年前の戦と、今回の件が混同して伝わったんでしょうね」
 長い歴史からすれば、たかだか十年やそこらの差など、違いのうちにも入らない。ユリエルの言う通りに考えたほうが自然だった。
「ちょっと待て。そんな話が残ってるんなら、どうやってこの危機を回避したかも伝わってるんじゃねーのか?」
「いいや。恐らく、資料を残した者もよくわからなかったんだろう。詳しい表記はなかった」
 歴史なんてそんなものだ。資料を残した者も、自分が知っている以上のことなど書きようがないし、書いてはいけない。そうでなければ、歴史書など嘘っぱちの宝庫だ。
「じゃ、じゃあ、自分達で考えて、どうにかするしかないってことでありますか?」
「どーすんだよ、あんなバケモン……つか、なんであんな化け物が『神様』なんだよ」
「闇の神獣は純粋な『闇』だ。そこに、善も悪もない。これは、どの神獣にも言えることだ」
 何気ないキュカの言葉に、シェイドが答える。
「……ただ目覚めただけなら、ここまでのバケモノにはならない。半分は、私達が生み出したものだ」
「私達が、ですか?」
 タナトスと同化した今ならわかる。あの神獣は、どこかおかしい。
 全身に不気味な模様が浮かび上がり、どこか、苦しそうだ。
「暗黒剣を通じて人の持つ邪念が闇の神獣に流れ込み、暴走させている。神獣自身も、自分をコントロール出来ていない極めて危険な状況だ」
「うー。よくわかんないでありますー」
「そうだな……私達、人の汚い部分がタナトス化し、神獣に取り憑く形になってしまったようなものだ」
 こちらの説明に、キュカは冷や汗をたらし、
「……それって、闇の神獣が単品で目覚めるよりヤバイってことじゃねぇのか……?」
「かなりヤバイ」
「さらっと言うな!」
「こってり言えばいいのか?」
「そういう話じゃねー!」
「この状況でも通常運転ですにゃ……」
 ニキータが、呆れを通り越してむしろ感心したようにうなずく。
「これって……俺のせい、なのか?」
 そのつぶやきに、一斉にロジェへと視線が集まる。
「……暗黒剣にエネルギーを集めたのは、俺だ」
 きっかけはルカの死だったが、それまでに蓄えられた闇の力が大きかったのは確かだろう。アナイスが言った通り、それがなければ、いかに暗黒剣といえど闇のマナストーンの封印が解けることはなかったかもしれない。
 不気味な沈黙の末、
「……こんなの、誰のせいでもないだろう」
「…………」
 ジェレミアの言葉が、沈黙を破る。
 それが救いになったとは思えないが、ロジェはそれきり黙り込む。
『――あなた達、聞こえますか?』
「ミエイン?」
 頭の中に声が響く。
 外に目をやると、青白い水晶の船が見えた。
「ルジオマリス!?」
「あ、そうそう。あの船の中に封じ込められてたのよ。あの人」
 エリスが思い出したように説明する。姿が見えないと思ったら、あっちの船に行っていたようだ。
『ひとまず、ロアへ向かってください』
「ロアだって?」
「っておい! 外!」
 キュカの声に周囲を見渡すと、タナトスの群れが船に追いついて来ていた。
「ギャーーーーーーー! もっとスピードは出ないでありますか!?」
「さっきからやってる! どうなって……」
 全速力で飛んでいるはずだというのに、船のスピードがどんどん落ちて行く。
 まさか――
「まずいダスー! 船体にタナトスがへばりついてるダス!」
「ヤツら、引きずり込むつもりか」
 外を見てきたジンが姿を現す。
 キュカは血相を変えて、
「オイオイ! 中まで入ってこねーだろーな!?」
「この船そのものが結界だ。そう簡単には――」
 
 ――シャアァァァァァ!
 
 床をすり抜け、一体のタナトスが無理矢理入り込もうともがいていた。
 つかつかとそれに接近し――踏みつけて引っ込めると、何事もなかったように、
「が、世の中には例外というものがある」
「…………」
「よく踏めましたね……」
 すでにタナトスに憑かれているから出来た芸当であり、マネしてはいけない。
「あれ? 今、声が……」
 エリスの声につられて耳を澄ます。たしかに、タナトスの雄叫びとは明らかに違う、甲高い声と、羽音が聞こえる。
 羽音は大きくなり、船の前に白い翼が見えた。
「守護精霊!?」
「フラミー! 来てくれたのね!」
 自分達というより、エリスを助けに来たのだろう。タナトスに貼りつかれ、スピードの落ちた船体の前に躍り出る。
「ドリアード! 船とフラミーを繋げてください!」
「は、はいっ!」
 ユリエルの声に姿を現したドリアードが、船にツタを生やし、フラミーの胴体に巻き付ける。
 がくん、と船が揺れ、いったんスピードが上がったが、
「――ダメだ! あのチビに、この船は重すぎる!」
「フラミー、がんばってであります~!」
 テケリが声援を送るが、それでスピードが上がるほど甘くはない。タナトスが引きずり込む力が、どんどん強まっている。
「フラミーは、まだ戦えないんですか?」
 ユリエルの問いに、エリスは無言でうなずく。やはり、守護精霊といえど、子供には荷が重いようだ。
『――何かにつかまって』
 突然、ミエインの声が頭に響く。
 聞き返す暇もなく、全員、とっさに伏せると、強烈な光が横切り、激しい揺れに全員ひっくり返る。
「次元魔導法か!?」
「あ……あぶねーだろあのおばさん!」
 さすがに船には当たらなかったようだが、衝撃だけでも相当なものだ。
「でも……行けるぞ!」
 タナトスの大部分を吹っ飛ばしてくれたらしい。重かった船がじょじょにスピードを増していく。
 しかし、まだ船体にはタナトスが張付いている。
「お前達、まだ、戦えるか!?」
 どこへともなく声を上げると、心なし、姿が薄れた精霊達が姿を現す。
「あ、当たり前や! みんな、ここが踏ん張りどきやで!」
 ウンディーネが、気丈に声を張りあげる。
 闇の神獣の出現で、一気にマナが消耗されている。精霊達も苦しいはずだが、全員、戦う覚悟は出来ているようだ。
 そのことにうなずくと、
「ジン、風で船を押せ! お前達はタナトスをなんとか追い払ってくれ! 船体に攻撃が当たってもかまわん!」
「はいダスー!」
「任せとけ!」
 指示を受け、精霊達が一気に散る。
「ぼけっとするな! ロアへ向かえ!」
「え? あ、ああ」
 我に返り、ジェレミアが慌てて船体を動かす。
「でも、なんでロアにゃんです? どこへ逃げてもおにゃじじゃぁ……」
「もしや、リィ伯爵ですか?」
 
 ――リィを頼るといい。
 
 イザベラの言葉を思い出したのだろう。ユリエルの言葉にうなずくと、
「闇の力が強まれば強まるほど、魔族の力は強まる。リィほどのヤツなら、タナトスなど敵ではないはず」
「こんな状況だ。とっくに魔界に逃げ帰ってるんじゃねーのか?」
「ヤツのことだ。ギリギリまで粘って、楽しんでから帰るだろうさ」
「…………」
 魔族の趣味が理解できないのだろう。キュカはげんなりした顔で肩を落とす。
「それに、ロアには獣人達がいる。人間の烏合の衆より結束は固いし、何より強い。今は魔族の気まぐれと、獣人達の勇猛さに賭けるしかない」
「……でもあいつらには、剣なんて通用しないんだろ」
 そのつぶやきを発したのは、これまで黙っていたロジェだった。
「それだけじゃない。聖剣もないってのに、あんな怪物……どうするんだよ。抵抗して、意味、あるのか?」
 船内が、不気味なほど静かになる。
 誰もがわかっていることだった。
 世界中に解き放たれたタナトスだけでもこの世の終わりのようなものだというのに、さらに闇の神獣まで復活して。あんな巨大な化け物相手に、仮に聖剣があったとして、剣を振り回してどうにか出来る相手とは思えない。
「……ずいぶんと、臆病になったな。おまえ」
「…………」
 キュカの言葉は、呆れたと言うより、どこか悲しげだった。