「――いったい、誰が戦争なんか始めるんだ?」
ロジェの問いかけに、一瞬、船内が静かになる。
「誰が、どうして戦争なんかやりたがるんだ?」
しばらくして、
「――欲しいものがあるから、奪う」
ジェレミアが口を開き、視線が彼女に集まる。
「気に食わないから……恨みがあるから……こわいから、叩き潰す」
「世の中は、ムダに血の気の多いバカどもで、あふれかえってる……」
◆ ◆ ◆
「……なんだ?このまがまがしいシロモノは……」
謁見の間に持ち込まれた品を前に、眉をしかめる。
持ち込まれたのは、細いツタのようなものが幾重にもからまった縁取りの、黒いガラス板のようなものだった。
「なに言ってるんだよ。鏡だろ?これ」
こちらの疑問を、アナイスはあっさり返す。
まあ、確かに『鏡』と呼ぶのが適切かもしれないが、本来、何かを映し出すはずの鏡面は真っ黒で、光すら反射しない。
しかもその大きさ。今は床に置かれているが、長さは自分の身長をはるかに越え、部屋の壁にかけられるかどうかも怪しい。姿見にしたってこの大きさはないだろう。
なんとも不気味な、置き場所にも困るシロモノを持ち込まれ、正直迷惑だったが――アナイスはそれを見透かしたように、
「文句は言わないでよ?そもそも、このテのものはキミの担当なんだ。色々調べといてよ」
「『調べろ』と言われても……」
言いながら、床に置かれた鏡に手を伸ばし――
――ゾクッ!
「――――!」
触れた瞬間、背筋に冷たく、鋭いものが走り抜け、反射的に手を離す。
「ん?どうかした?」
「い、いや……」
言いようのない気味の悪さに、曖昧な返事を返す。
――なんだ?今のは……
恐る恐る、もう一度触れてみるが――今度は何もなかった。
「で、どうする?イヤだって言うんなら、無理にとは言わないけど」
アナイスの問いに、少し考え、
「……わかった。ここで預かろう」
考えた末に、そう答える。
「そうかい?じゃあ、任せるよ」
アナイスは満足そうににっこりほほえむと、さっさと帰って行った。
「……エジーナの……黒い鏡?」
この数日間、宮殿の書庫で本を読みあさり、たどり着いたのはそれだった。
『世界がΨに呑まれるとき、呪われし黒い鏡は開き、幻影は真実を喰らわん』
「Ψに呑まれる?」
――どういうことだ?
首を傾げるが、ようやく見つけた資料にも、これ以上詳しくは書かれていない。
本を閉じると、庭に向かう。
庭と言っても、ジャングルの植物がここまで生い茂り、ちょっとした森のようなものだった。
その一角に、例の黒い鏡が安置されていた。
この周辺には惑わしの術がかかっているので、うっかり使用人が入り込んでも、気づくことはない。自分しか近寄ることは不可能だろう。
巨大な鏡の前に立つが、相変わらず、黒い鏡面はなにも映さず、ただただ闇があるだけだった。
「まったく、やっかいなものを……」
どちらにせよ、ロクなものではない。今すぐにでも封印してしまったほうがいいだろう。
――と、思っていた矢先に、
「どうだい?なにかわかった?」
その日、再びアナイスがひょっこり現れた。
主教はあきれた顔で、
「……ヒマなのか?」
仕事しろと言いたいところだったが、アナイスは相変わらず軽薄な笑みを浮かべ、
「そ。どうせ政治がらみのことは、みんな大臣や将軍がやってくれるからね。僕なんか、王座に座ってるだけの人形みたいなもんさ」
「……………」
――人形……
「……私も、似たようなものかもな……」
思わずつぶやいてしまったことに気づき、慌てて口を閉ざすが、アナイスはしっかり聞いていたらしく、
「ああ、やっぱりキミもそうか。そりゃ、こんな日当たりも悪いし、外とも隔離された場所にずっといたんじゃあね。おまけに、一般には存在も知られていないときた」
アナイスは肩をすくめ、
「おまけにこの平和なご時世。いてもいなくても同じっていうか――ぃでっ!」
脳天を分厚い本で殴られ、アナイスはその場に頭を抱えてしゃがみ込む。
「で、何をしに来た?」
「たた……乱暴だなぁ。……もしかして、気にしてた?」
「もう一発行くか?」
「もう結構」
よほど痛かったのか、本を振り上げる主教から慌てて離れ、
「それはさておき、この前のアレ。なにかわかった?」
主教は本を下ろし、
「……とりあえず、ロクでもないシロモノだということはわかった。封印したほうがよさそうだな」
「ええっ?なんだよ、つまんないなぁ」
「……おまえ、何を期待しているんだ?」
これが一国の王かと思うと、本当に情けない。
アナイスは鏡の話はもういいのか、今度は、
「そうそう。兵役があるのは知ってるだろ?」
「なんだ突然。……兵役など、私には関係のないことだ」
しかし、アナイスはおかまいなしに、
「まあ、そう言わないでよ。手ぶらじゃなんだし、キミが喜びそうな土産話を持ってきたんだよ。―― 一年ほど前かな?ロジェが入隊してきてね」
「……………!」
――ロジェ!
思わず反応しそうになるのをこらえ、
「……ロジェの話はやめろ。もう、赤の他人だ」
アナイスに背を向け、あえて無関心を装う。
「あっれー?興味なし?血を分けた兄弟だろ?」
「兄弟だろうとなんだろうと、決まりは決まりだ。それに、いずれこうなることは、お互いわかっていたこと」
「ハハハ。そう?一人で寂しそうに見えるけど。なんなら、見合い話でも持ってこようか?」
「余計なお世話だ。それに、寂しそうだと?」
振り返ると、アナイスはこちらの反応を楽しむように、
「だってそうだろ?こんなただっ広い宮殿に一人で。小さい頃……というか、生まれる前からずっと一緒だったのに、今は離ればなれ。一人でいる時間なんて、それまでなかっただろ?」
「……何が言いたい?」
イラついているのが自分でもわかる。
アナイスは昔からそうだ。わざと相手をイラつかせ、その様子を楽しむ。まったく、どうしてこんな歪んだ性格に育ってしまったのか。
アナイスは、なんとも楽しそうに、
「まあ、ようするに、どうせ別れなきゃならないんなら、最初っから一人だったらよかったのにね」
「――――!」
一番言われたくなかったことをあっさり言われ、全身が凍り付く。
「まあ、僕にはわかんないけどね。そんなの。――じゃ、流れ星が降ってくる前に、僕はこれで失礼するよ」
アナイスは笑いながら立ち上がると、そそくさと去って行く。
「にっ……二度と来るなっ!」
我に返った主教は、去りゆくアナイスの背に向かって、怒鳴りつけた。
「まったく、昔からあいつは……!」
すっかり日が沈み、一人になっても怒りは収まらなかった。
人を怒らせる天才というか、自由奔放すぎて、相手の気持ちなど考えもしない。しかもそれを楽しんでいるのだから手に負えない。
そして、相手の思惑通りになってしまう自分自身にも腹が立つ。なんとも悪循環だった。
気が付くと、いつの間にかあの黒い鏡の前に来ていた。
そのことに、一瞬不気味さを感じたが――どのみち、今は一人になりたい気分だった。
―― 一年ほど前かな?ロジェが入隊してきてね
ふと、さっきのアナイスの言葉を思い出す。
「そう……か。もう四年くらい経っているのか……」
年齢的に、徴兵に従わねばならない年だ。
記憶に残っているロジェの姿は、まだ幼さの残る顔だったが、考えてみれば双子なのだ。向こうも今の自分と同じような顔だろう。
黒い鏡に映った自分の顔を眺めながら、ぼんやりとそんなことを考える。
「…………?」
今頃になって、これまで何も映さなかった黒い鏡面に、自分の顔が映っていることに気づく。
「どうして……」
やがて、かすかにだが歌が聞こえたかと思うと、ぼんやりと、今度は違う何かが映る。
どこかの高台の上だろうか。暗くてよく見えないが、揺らめく炎の明かりと共に、人影のようなものが見えた。
――誰だ?
背を向けているので、顔はわからないが――細身の男のようだ。腰に剣を下げ、兵隊らしい格好をしている。
「え?」
――あれは……
答えに行き着く前に、鏡は、フイッ、と映していたものをかき消す。
「―――!待て!今のは……!もう少し……もう少しだけ……!」
何度も鏡を叩くが、鏡面はただただ黒いだけで、まるでさっきの光景が幻だったかのように無反応だった。
しばらく、その場で呆然としていたが――我に返ると、
「封印は……まだ、いいか……」
つぶやくと、鏡の前を後にした。
◇ ◇ ◇
「――ジェ、ロジェ!」
呼ばれていることに気づき、慌てて見下ろすと、見張り台の下からユハニがこちらを見上げていた。
「交代の時間だよ。――どうしたの?ぼんやりして」
ユハニははしごを登り、隣まで来ると、あきれた顔で首を傾げる。
「あ、ああ。もうそんな時間か。……悪い、考え事してた」
適当に返すと、ユハニはピンときたのか、
「――あぁ、わかった!姉さんとケンカしたんだろ?まずいよ!姉さんは、怒るとすっごく怖いんだから!早くあやまったほうがいいって!」
「違う!」
慌てて否定するが、ユハニは無視して、
「この前だってさ、こーんな顔して追いかけてきたんだから」
「だから違うって」
目尻を指でつり上げ、自分の恐怖体験を語るユハニに再び否定し、さっきまで見ていた空を見上げる。
今夜は雲が少なく、無数の星がきらめいていた。
視線を下ろすと、街の向こうに『幻惑のジャングル』と呼ばれる真っ黒な密林が見える。
あの密林の向こうには――
「そんなんじゃあ……ないんだ……」
夜の密林は、ただただ暗い闇が広がるばかりで、時折、風に木々が揺れていた。