どこからか、怒鳴り声が聞こえた。
  なんの話をしているのかはわからなかったが、なにやらもめているようだ。特に聞く理由もなく、聞き流すが――内容に関しては、なんとなく想像がついた。
 「お邪魔してるわよ」
  声がした方角に振り返ると、パメラが、イスに座って繕い物をしていた。
  誰かに借りたのか、今は普通の町娘らしい格好をしていた。しかし、どことなく人を寄せ付けないオーラを放っている。
  彼女は手を動かしながら、
 「ここ、レジスタンスの隠れ家のひとつ。前より狭くて部屋の数も足りないから……人が集まると、ここくらいしか場所がないのよね」
  どうやら、二段ベッドの下段で寝ていたようだ。すぐ真上に、上段のベッドの底が見える。
  ぼんやりと、顔にかかった髪を右手で払いのけようとして、
 「――――!」
  一瞬。ほんの一瞬ではあったが、その手が赤く染まって見えた気がして、全身に寒気が走る。
 「どうかした?」
  パメラの声で我に返る。
  改めて手を見てみると、誰か拭き取ってくれたのか、特に何もついてなかった。
  そのことに安堵するが、鼓動の激しさはなかなか治まってくれない。
  大きく息を吐き、右手を引っ込めると、
 「あの……パメラさん」
 「パメラでいいわ」
 「あ、うん。体の具合は?」
  パメラは一瞬、手を止めると、
 「相変わらずヘンな子ね。自分がぶっ倒れたってのに、人の心配なんかするんだ?」
 「え?」
 「体はどうもない。でも、なにかしてたほうが、気が紛れるから」
  再び、針を動かす。
 「水、そこにあるから。熱はもうないはずだけど、気分は? 何か食べる?」
 「いや……大丈夫」
  なにが大丈夫なのかは自分でもよくわからない。
  横になったまま、ぼんやりと上段のベッドの底を眺める。ようやく鼓動が落ち着いてきて、頭の中が冷静になっていく。
  そういえば、プリムとポポイはどうしたのだろう。レジスタンスの会議に参加しているとも思えないし、パメラに気を使って、別の部屋か、外出でもしているのだろうか?
  お互い、特にしゃべることもなく、しばらく沈黙が続く。
  なんとなく、パメラの手元に視線を向けると、
 「……手際いいね」
 「うち、仕立て屋だから。『仕立て屋の子が、縫物ひとつ出来ないなんてみっともない』って、教え込まれたわ」
  手を止めることなく答える。そういえば以前、そんな話を聞いたような気がする。
 「わたしの両親、盗賊に殺されたの」
 「え?」
 「布地の仕入れに出かけた時に襲われたみたい。金目のものは全部なくなって、二人の死体だけが残っていたそうよ」
  どこか他人事のように、表情一つ変えず語る。
 「おじいちゃんもおばあちゃんも、お店はお父さん達に任せて、自分達はゆっくり余生を過ごすつもりでいたから……そこからは大変だったみたい。工房を改装して新しい機械を買った矢先のことでね。その返済もしなきゃいけない。作業量も、従業員も増えていた。とてもわたしにかまってる余裕なんてない。……だから、『いい子』にしてなきゃいけなかった」
 「いい子?」
 「困らせちゃいけない。邪魔になっちゃいけない。おじいちゃん達、大変だから。せめてわたしは『いい子』にしてなきゃって」
 「……なんだか、うちと似てるかも」
 「え?」
  予想していたリアクションと違ったのか、手を止める。
  体を起こすと、固くなった首を回しながら、
 「うちのおじいちゃんも、農場閉める準備してたところに僕が転がり込んで来たらしいから。予定、狂わせちゃったかも」
 「あなたも?」
 「僕の場合はまったくの赤の他人だったし。周囲の猛反対受けながらだったから、余計大変だっただろーなぁ……」
  つくづく、よく育ててくれたと思う。
  流行り病で、女房と、結婚を控えていた一人娘に先立たれ、寂しかったのだろうとは養父の友人談だが、寂しいだけで出来るものだろうか? 四年前には、その友人の孫娘まで引き取っている。
 「なんだか、会いたくなってきちゃった」
  無表情だったパメラの顔に、笑みが浮かんだ。
 「いきなりいなくなって、心配してるだろうし。……余り布だろうとついでだろうと、わたしのために服を縫ってくれたことに変わりはないのよね」
 「家に帰るの?」
 「……わたしに出来ることなんて、何もないもの」
  どこか寂しげにつぶやくと、急に何か思い出したような顔で、
 「あ、今の話、プリムにもしてないの」
  口に、人差し指を当てる。黙ってろということか。
  再び針を動かしながら、
 「いつも思ってた。神様は不公平だって。いつも誰かをうらやんで、妬んでた。……なんで、あの子ばっかり」
  しばらく、黙々と縫う。
 「でも――」
  手が止まる。
 「でも……帰ってくるはずの人がいつまで経っても帰ってこない怖さは……それだけは、わかるから。それにわたし、まだ何もしてない」
  彼女は、膝に置いた手を握りしめると、
 「謝らなきゃいけないのは、わたしなの。わたし、何もしなかった。気持ちを伝えることも、行動を起こすことも何もしないで……一方的に妬んで、一方的に傷つけて。あの子は、何も悪くなかった。……悪く、なかった」
  自分に言い聞かせるよう、繰り返す。
  彼女は留めた糸を切ると、立ち上がり、
 「そういえば、あなたにはまだお礼言ってなかった。見ず知らずなのに、ありがとう。はい、これ」
 「え? あ、こちらこそ……ありがとう」
  手渡された布を広げ、ぎくりとする。
  額に巻いていたバンダナだった。誰か洗ってくれたようで大きな汚れは落ちていたが、うっすらと跡が残っている。
  脳裏に、これを使ってゲシュタールを殴った記憶が蘇る。
  派手に破れて再起不能だと思っていたのに。それがきれいに縫われてしまった。
 「どうしたの?」
 「あ、いや……いい仕事してるなー、と」
  愛想笑いで返す。
  パメラも、まさか返り血の跡とは思わなかったのだろう。とはいえ、たとえ暇つぶしであろうとついでだろうと、善意で直してくれたものを捨てるのも気が引ける。
  これ、使わなきゃいけないのかな……などと考えていると、ふと、パメラが腰をかがめ、じっとこちらの顔を見ていることに気づく。
 「なに?」
  パメラはこちらの顔を見つめたまま、小首を傾げ、
 「よく見るとあなた、ディラックよりいい男ね」
 「は?」
 「プリムに会ってくる」
  そう言うとこちらに背を向け、肩越しに手を振りながら部屋を出て行った。