ずっと幼い頃、自分の周囲はにぎやかだったと思う。
  いつも誰かが傍にいて、何かを語り掛けてくれていた。
  自分も特に疑問を抱くことなく、それらの言葉に返事をしては、語り掛けていたように思う。
 「あの子……気味悪いのよね」
  そんな声が聞こえてきたのは、いくつの頃だっただろうか。
  ドアの隙間から外を見ると、近所の年配の女性が声をひそめて、養父に何か言っていた。
  なんの話をしているのかはわからなかった。だが、自分のことを言われているのだということは、なんとなくわかった。
  その日の夕飯の席で、養父はこんなことを聞いてきた。
 「ランディ。お前、いつも誰と話しておる?」
  質問の意味が理解出来なかった。
  誰と。それは、自分も知らなかった。考えたことがなかったと言ってもいいだろう。
  それは息をすることと同じように、あまりに当たり前のことすぎた。
 「ワシは別に、お前がおかしいと言うつもりはない。じゃがこの村で生きていくには仕方のないことじゃ。特にお前はよそ者だから……あまり目立つようなことは、しないほうがいい」
  この時の自分は、『よそ者』という言葉の意味を理解していなかった。ただ漠然と、自分はみんなとどこか違うのだと理解した。
  髪の色か? いや、自分のような栗色の髪はそんなに珍しくはない。
  では、肌の色か?
  こちらははっきりしていた。村には肌が白い者しかいない中、自分だけ、肌の色がはっきり違う。しかし、それだけなのだろうか?
  考え始めると、キリがなかった。
「――ホラ、また」
 「やだ……なんか怖いわね。あの子」
  そんな声が聞こえるようになったのは、それから間もなくのことだった。
  振り返ると、その声の主達はそそくさと去って行った。
  その時、初めて気がついた。当たり前に聞こえていたものが、自分にしか聞こえていないのだと。
  それ以来、その『声』に、自分は返事をしなくなっていった。
  急に、怖くなったのだ。その『声』が怖かったのか、聞こえてしまう自分が怖かったのかまではわからない。ただ、怖かった。
  目を閉じ、耳を塞ぎ――いつしか、『声』はおろか、『そんなことがあった』ということすら、記憶の中から薄れていった。
* * *
 カタカタと、何かが揺れる音が聞こえる。
 「……地震?」
  特に揺れは感じなかったが、確かに何かが揺れて、音を立てていたような気がする。
  音がした、吹き抜けの二階部分を見上げるが、特に変わったことはない。ネズミかなにかだろうか。
  気を取り直し、ブラシで書棚のホコリを落とす作業に戻る。
  数年前、空き家だったこの小さな家を養父が書庫代わりに使い出してからというもの、本は増える一方だ。掃除をする身にもなって欲しい。
  コンコンと、背後から音が聞こえる。
  今度の音の原因ははっきりしていた。振り返ると、開いた窓の外に幼馴染の顔があった。
 「ネス?」
 「村長に聞いたら、ここだって」
  この地域に多い薄い金髪と白い肌。しかしその白い肌のせいで、そばかすが目立つ少年だった。背が低いことを気にしてか、縦長いオレンジの三角帽をいつもかぶっている。
 「……また?」
 「今日は釣りだそうだ」
  うんざりした顔で、担いだ釣り竿を見せる。
  ネスが自分を訪ねて来るのは、大抵ボブの招集があった時だ。
  小さい頃からそうだ。同じく幼馴染のボブはことあるごとに、自分のやりたいことに人を付き合わせる。彼もこの地域に多い外観だったが、体は大きく、その巨体にものを言わせて相手をねじ伏せるところがある。
  しかし、みんなもう十六、七だ。子供じゃあるまいし、釣りくらい一人で行ってくれ。
  ……と、言えたらいいのだが。幼い頃、一度染みついてしまった習慣というヤツはなかなか離れてくれない。ネスも同じらしく、竿は用意しているものの、乗り気ではなさそうだ。
 「ところで、前より増えてないか?」
 「ああ……ついにこの棚が埋まった」
  ネスは窓から中をのぞき込み、呆れた声を上げる。
  近くの棚から絵本を一冊取り出すと、
 「よかったら読む?」
 「お前、オレが読み書き出来ないことわかって言ってるのか?」
 「違うよ。これ、絵がきれいだから」
  渡すと、ネスは本を開く。
 「なんだこれ?」
 「雪原の妖精の話だよ」
 「妖精ねぇ……」
  ペラペラとめくりながらつぶやき――閉じると、
 「いい。こんなの見たって仕方ないだろ」
 「そう……」
  突き返された本を受け取る。
  昔は、よく空想の動物の絵を地面いっぱいに描いていたのに。
  この山奥の村の者にとって、自分の目で見たことがないものは、この世に存在しないと同然なのだ。根拠のない迷信は信じるのに、昔起こった出来事、砂だらけの国、塩辛い巨大な水たまりの存在は、自分達とは無関係な異世界程度の認識だった。
  いつの間にか、彼もそっちへ行ってしまった。それとも自分が子供なのか。
 「お前はここの本、全部読んだんだろ?」
 「え? うん」
  素直にうなずくと、彼は呆れた顔でため息をつき、
 「いつまでもこんな本ばっか読んでないでさ。そろそろ将来のこととか考えたほうがいいぞ。いつまでもガキじゃねーんだからさ」
 「……それ、ボブに言ってあげたほうがよくない?」
 「言えるか」
  ネスは反射的に言い放ち――二人で、深いため息をついた。
* * *
 そう。自分も、いつまでも今の暮らしが続くわけではないことはわかっていた。
  なにしろ自分はよそ者だ。もしかすると、この村を去る日が来るかもしれない。
  しかしこの時は、『その日』が来るのはまだ先だと思っていた。
  自分が思っている以上に、『その日』というヤツは唐突で――一瞬で、すべてをひっくり返す破壊力を持っていることを、この時はまだ、想像さえしていなかった。