7.我が王よ
壁の崩壊から三年ほど過ぎた。
島の実権を握った軍は、街の修理よりも軍備増強のために増税を重ね、戦え戦えと、相変わらず物騒なことを叫び続けていた。
そんなある日、これまで、死んだように静かだったヒストリア女王が、突然表舞台に姿を現した。
いや、『突然』ではない。
細々とではあったが、彼女は島中を回っていたという。壁の崩壊による被害者への慈善活動だった。
最初こそ大した話題にはならなかったが、最近では新聞にも彼女の活動が書かれるようになった。民と共に泥まみれになって畑を耕し、育てる作物の指導や、労働環境の改善活動、孤児の保護や里親探しを行っていたという。
かつては『無能な女王』『いるだけのお飾り』と悪評ばかりだったのが、近頃は『民に最も近い女王』として、人々の関心を掴んでいた。
しかし、どんなに民からの支持を得られても、兵団という後ろ盾を失ってはなにも出来まいと誰もが思っていた。
そのヒストリアが、突然『世界』という後ろ盾を引っ提げて、人々の前に姿を現したのだ。
ヒストリアが表舞台に現れる数日前、家のドアの隙間に手紙が挟まっていた。いつぞやの新聞記者からだった。
『新しい時代が始まる』と、短い文と共に、日付と時間、場所が記載されていた。かつての兵団本部――現在はエルディア帝国軍本部前の広場だった。
どうにも気になり行ってみると、大勢の人が集まっていた。どうやら三年前の今日、正式に『軍』が発足した日だとかで、去年も、午後から軍のお偉いさんの演説やら記念行事が行われていたらしい。
しかし、周囲の話声から察するに、今回は様子が違うようだ。『国旗がない』と不思議がっている声が聞こえた。
そして時間になると、檀上に現れたのは軍のお偉いさんではなく、王冠をかぶったヒストリアだった。
そしてその後ろに控えるのも、軍人ではなくスーツ姿の数人の若者達だ。
ヒストリアは、壇上から周囲を見渡すと、
「皆さん、本日はお集まりいただきありがとうございます。今日は、わたくしより皆さんに、お伝えしなくてはならない、大事なお話があります――」
そして女王は語り始めた。エレン・イェーガーは三年前、地鳴らし発動からわずか四日後には討ち取られており、彼の死と共に世界からすべての巨人が消えたこと。
我々はとっくに、巨人化する能力も何も持たない、ただの人間になったこと。
そして、世界は、八割もの人類を踏みつぶされたにもかかわらず、このパラディ島との和平を望んでいると、後ろに控えた若者達を紹介した。世界各国の代表としてやってきた、和平交渉の連合国大使だという。他にも、様々な国から外交官が来ているそうだ。
女王は、世界からの謝罪を受け入れるつもりであること、こちらも、世界に対し謝罪を行うつもりであることを伝えた。
『世界は、我々からなにも奪う気はない』『我々も、誰からも何も奪う必要はない』『共に与え合う、新たな世界の始まりだ』という女王の言葉に、辺りは静まりかえった。
しばらくして、ざわざわ、ひそひそと、ささやき合う声が聞こえだした。あまりの反応の悪さに、檀上のヒストリアの顔が、みるみるこわばっていく。
――順番、か。
少々がっかりした。恐らく檀上に上がるまでは、ここで歓声が上がって、みんな喜ぶとでも思っていたに違いない。
だが違う。自分を含め、ほとんどの民はこう思ったのだ。
王政から兵団へ、兵団から軍へ、軍からヒストリアへ。なんだ、『また』頭がすげ替わるのか、と。
草の根活動でちょっとは人気を取り戻し、思い上がってしまったのだろう。『この哀れな家畜達を救えるのは自分しかいない』『家畜達を自由にしてあげなくては』と。
しかし、家畜にだって、小屋にとどまる『自由』がある。
解放者が『外に出ろ』と訴えたところで、家畜自身が『そうしたい』と思わぬ限り、小屋から出ることはない。結局最後は、鞭を振るうことになるのだ。
檀上のヒストリアも、今頃痛感していることだろう。所詮は『家畜の世話係の奴隷』であったと。
――いつもすまない。
なぜか突然、我が王の言葉が脳裏をよぎった。……そういえばあの娘は、我が王の姪御であった。
それを思い出した途端、檀上で立ち尽くすヒストリアの小さな姿に、いたたまれない気分に陥った。
きっとあの娘は、我が王と同じ道をたどることになるだろう。いずれ食われると知っていながら、逃がしてやることも、運命を教えてやることも出来ず、幸せな家畜達のお世話をし続ける人生。
すべてこれまで通りだ。
家畜が人間になる。そんな奇跡など起こらない。
見ていることが出来なくなり、帰ろうとすると、
「――すべては、私の無力のせいです! 申し訳ありませんでした!」
突然、声が響き渡った。
振り返ると、壇上のヒストリアが王冠を横に起き、その場に膝をついて頭を垂れていた。
「この小さな島が、世界がめちゃくちゃになったのは、すべて私のせいです! 私に力がなかったから! 私の心が弱かったから! この小さな島一つ、守ることすら出来なかった! でも『みんな』となら! 一人では進むことの出来ない困難な道でも、みんなと一緒なら進んでいける! どうか、私にみなさんの力を貸してください! どちらかが滅びなければ、誰かの心臓を捧げなくては生きることさえ許されない、そんな血塗られた世界とさよならしたい! 子供達に、争いのない、みんなで助け合える世界を残したい! その過程で投げられる石のつぶては、すべて私が受け止める! 私はもう、二度と逃げたりしない!」
ヒストリアは、横に置いた王冠を手に取ると、高く掲げ、
「この王冠は、皆さまにお返しします! これからの私を見ていてください! 私が誤った道へ進みそうなら、叱ってください! 『お前はよくやった』と、『お前は王の仕事を果たした』と、皆さまにそう思っていただけるその日まで、この王冠は皆さまのものです! だからどうか! 私に、償う機会を与えて下さい! お願いします!」
ヒストリアの土下座に、後ろに控えていた和平大使の青年が慌てて隣に駆け寄ると、
「――お願いします! 世界はもう、誰とも争うつもりはありません! 『敵』はもう、どこにもいないんです! 『世界』は、海の向こうで皆さんとの合流を待っています!」
大使達までもが一緒になって頭を下げだした。その状況に、大使達より年配の大人達が壇上に駆けつけたので、てっきり止めに来たのかと思いきや、その者達まで必死の訴えと共に頭を下げだし、壇上にはもう、止める者がいなくなってしまった。
しばらく、人々はぽかんとして見ていたが――ぱちぱちと、手を叩く音が聞こえてきた。
そしてどこからか『私達もごめんなさい! 女王さま!』という、多少芝居がかったような女の声が響いたのを皮切りに、盛大な歓声と拍手、そして人々の『ごめんなさい』が沸き起こった。
……我が王よ。どうやらあなたの姪御は、奇跡を起こしたようです。
これは後で知ったが、演説があった当日の朝、女王は外の世界からやってきた和平大使や各国の外交官、島中の大勢の女王支持者を引き連れて、軍本部に、真正面から堂々と乗り込んで来たという。
あまりに堂々としすぎて、ほとんどの兵士があっけに取られてなにも出来なかったらしい。それでも根性を出して銃を向けてきた者には、女王自ら、その銃口に笑顔で花を突っ込んでやったという。
女王側は、誰一人武装していなかったそうだ。なけなしの抵抗をしようとする軍の代表相手に、和平大使のリーダーと名乗った青年は、無抵抗をアピールしようと両手を挙げ――なぜかその手のひらに血が滲んだ包帯が巻かれていたという。朝食の果物を切ろうとして『うっかり』手まで切ってしまったと言ったそうだ。
軍は、戦うことなく政権をあっさり女王に返上した。
その後『巨人の力はなくなった』と知った時、果たして軍のお偉方は、一体どんな顔をしたのやら。和平大使のリーダーは、軍のお偉方のことを『我々の話に真剣に耳を傾け、決断も早い実に聡明で素晴らしい方々だった』と感想を述べたという。
その件について、新聞にはこんな文字が踊った。『我らがヒストリア女王、戦わずして勝つ!』と。
『戦わなければ勝てない』んじゃなかったのか? 嘘つきめ。
ちょっと前まで女王のことを『戦いもせず男を作って遊んでいた』などと非難しておきながら、今度は『戦わなかったこと』を褒めちぎっている。『彼女は誰も傷つけなかった』と。どうやら新聞屋というヤツは、始祖の巨人の力なしでも、自力で記憶改ざん出来てしまうらしい。
そして民衆も民衆で、あれほどエレンや軍を支持し、女王を貶していたのが一転、エレンや軍への怒りを爆発させ、軍が作った国旗とやらを踏みつけ、女王を支持した。……どうやらこちらも、巨人の力などなくても記憶改ざん出来てしまうらしい。
結局、軍が支持を得ることが出来たのは、民との信頼でもなんでもなく、どこかにいるかもしれない『敵』のおかげだった。ところが、その『敵』はどこにもいないとわかったのである。
あらゆる新聞は、それまでのうっぷんを晴らすかのごとく、かつてのイェーガー派の悪行や軍の横暴の暴露記事を次々と掲載した。
特に、かつての兵団上層部の人間が、不自然に大量に亡くなった原因が『イェーガー派によって巨人にされたせい』ということが知れ渡ると、その非道さに遺族は怒りを爆発させ、当時イェーガー派だった軍上層部は暴徒を恐れ、すべての罪と責任をエレンに被せる発言を繰り返した。
これまで、まるで『神の子』のように崇め奉られてきたエレンだったが、『人の子』に戻った途端これである。同情はしないが、どこか哀れであり――そして、どこかで見たような光景でもあった。
散々『悪者』にされた女王としては、さぞかし溜飲が下ったことだろうと思いきや、その混乱を鎮めたのは、他でもないヒストリア女王だった。
ヒストリア女王は『彼らの罪は、我々みんなの罪だ。彼らは彼らなりにこの国を想って行動をしただけ。やり方はどうあれ、国の行く末を案じたその心自体を責めてはいけない』と『寛大なお心』で擁護した。
それに感激したかつての軍のお偉方は、女王への永遠の忠誠を誓った。
女王も感激し『もっとも過酷』と言われる極寒の開拓地への異動命令を笑顔で下し、彼らは泣きながら受け入れたという。
壁の王も、エレンも、軍も、自分が『いい人』になるためには『悪者』を必要としたというのに。
しかしこの女王さまの手にかかると、どんな『悪者』も『いい子』になってしまう。そして女王さま本人は、そんな『いい子』達を笑顔で踏みつけ、もっともっと『いい人』になってのける。白き翼を生やした悪魔のようだ。
茶番もここまで来ると、呆れを通り越して感心すらしてしまう。