8.献杯
正式に実権を握ってからというもの、女王はバリバリ仕事をした。
壁の崩壊により家や仕事を失い、開拓地に追いやられた人々は、ようやく元の生活に戻れるよう支援が行われ、強制的に兵器開発に従属させられていた義勇兵、不当な理由で地下街に追いやられた人々も解放され、太陽の下を歩けるようになった。
そして、彼女が早い段階で行ったのは、調査兵団の名誉の回復だった。調査兵団は、エレン・イェーガーの地鳴らしに一切関与していない。それどころか、脅威として排除されかけた被害者であると。地鳴らしを食い止め、パラディ島と世界を繋げる新時代の平和の架け橋になってくれたと。
そして同時に、リヴァイ兵士長の生存と、十四代目の調査兵団団長の死が、正式に発表された。
団長はたった一人で、あの超大型巨人を何体も屠り、文字通り『すべての人類』に心臓を捧げた。『自由の翼』に誇れる生き方であった、と。
そのことを知らせに来たのは、いつぞやの新聞記者だった。巨人の家畜に成り下がった我々を、見捨てることなく、人間に戻すために戦ってくれたと泣いていた。
三年前、当時のイェーガー派の発表では、彼女はマーレの襲撃の際に相方共々死んだとされていたらしいが、人々の間では密かにその生存がささやかれ、帰還を待ち望む者も多かったらしい。彼もその一人だったようだ。
しかし、その願いは絶たれた。
特に彼女と縁のあったトロスト区では、区全体が愁嘆場と化し、その死を悼み、町のいたる所に『自由の翼』がはためいた。
そして人々は言った。彼女がいなければ、世界が巨人の恐怖から解放されることはなかっただろう、と。
特に驚かなかった。なにしろ『巨人』を作ったのは『神様』だ。それを駆逐できるのは『悪魔』だろう。
あれは、本物の『悪魔』だ。
エレンは翼もないのに『私は神だ』と豚どもをたぶらかし、豚どもの支持の元、豚小屋を破壊してあげたというのに、あの悪魔は、シッポを隠して『私も豚です』と豚どもをそそのかし、その気になった豚どもに、自ら小屋を破壊させたようなヤツなのだ。
神が小屋を破壊したなら、その後の不幸は『神のせい』だが、豚ども自ら小屋を破壊したなら、それは豚ども『みんなのせい』だ。後のことは自力でどうにかするしかない。
そんな豚どもを『かわいそう』だと思わない。まさに人の心を持たぬ悪魔の所業だ。
そんな悪魔の被害者の一人は今、目の前で大泣きしていた。最初は静かに泣いていたのが、話しているうちにだんだん子供のように声を上げて泣き出した。
散々泣いてからここに来ただろうに、それでもまだ泣けるというのか。なにやら個人的な後悔があるらしく、ひどい罪悪感に苦しんでいるようだ。
まったく、男泣かせの悪魔だった。自分の人生において、ここまで悪いことをしたヤツは、たぶん後にも先にも現れないだろう。
新聞屋が帰り、机の上に残された新聞を手に取る。
彼が持ってきた、悪魔の訃報を知らせる新聞だった。記事には、まるで『自分の自由と引き換えに、すべての人類に自由をもたらした天使』であるかのように書かれていた。思わず鼻で笑う。
「……まったく、まんまとだまされやがって」
『他人の自由』のために『自分の自由』を差しだす? 『悪魔』がそんな親切なわけねぇだろが。
俺は知ってるんだ。『正義』だの『人類を救う』だの、あの悪魔が、そんなもんに興味あるわけねぇってことを。
すべては、神に挑んで散った、自分の仲間達のために。
自分自身が、いつまでも『自由』であり続けるために。
詳細をよく見てみろ。エレンを倒したのは、新しく調査兵団の十五代目を引き継いだ若けぇのと、その仲間達じゃねぇか。
あいつお得意の手口だよ。
シッポを隠して人の子をそそのかし、そいつに世界を『救わせた』んだ。
神様にケンカを売れるのは悪魔だが、人の世を救えるのは人の子だ。だから悪魔は、やることやったら自由気ままに飛び去って、すべての『人の子』に責任を背負わせた。『自分達の世界』に対する『責任』を。
現に、あいつの相方はこの島に来なかったそうじゃないか。この島にはもう、『神様』はいないから。
おおかたそっちも、今頃世界のどこかで、シッポを隠して暗躍してんだろ?
だがまあ、俺はあんたと違って『いい人』だから、人類の幸せのために、黙っといてやるよ。
その日の夜。ずっとしまい込んでいた『とっておきの酒』を、ついに開けることにした。
なぜか今日、無性に飲みたくなったのだ。
ボトルを手に取り、ふと昔のことを思い出す。
この酒を飲んでいたら、幼い我が子が自分にも飲ませろとせがんできたので一口飲ませてやったら、なんで大人は、わざわざこんなマズいものを飲みたがるのだと、顔をしかめて文句を言った。
そんなお子様も、そろそろ酒を飲める年頃だ。
昔を懐かしみながら、グラスに酒を注ぎ、一口飲む。
「…………?」
違和感に、首を傾げる。
もう一口、飲んでみる。
「……うまい」
ラベルを確認すると、間違いなく、昔、飲んでいた銘柄の酒だ。
中央憲兵になってからは、高い酒をずいぶん飲んだというのに、それよりずっとうまいのだ。そんなことがあるのか?
少し考えて思い当たる。酒が変わったのではない。自分の舌が変わったのだ。
そういえば、収容所に入れられて以来、ずっと酒もタバコもせず、食事だって薄味の野菜ばかり。長年の飲酒喫煙でバカになっていた舌も、すっかり健康になったらしい。
なんだ。かつて『子供に酒の味はわからん』と笑っておいて、自分が一番、わかってなかったではないか。
「ははっ……そうか。悪魔も、たまにはいいことするじゃねぇか」
なんだかうれしくなり、もう一つグラスを出してくると、向かいの席に置き、酒をついでやる。この酒の、本来の味を教えてくれた悪魔のために。
神様の庇護下にあった家畜どもを、罪深き人間に戻してくれた悪魔のために。
自分のグラスを手に取り、軽く掲げると、
「残念だよ。今の俺なら、あんたとも楽しく酒を飲めただろうに」
そうつぶやくと、グラスの酒をあおる。
一息ついて窓の外に目を向けると、少し欠けた月が世界を照らしていた。
女王の統治になってからというもの、島は急速に発展し、景気が良くなった。
外国との貿易が盛んになり、島は資源を輸出し、世界からはあらゆる技術が持ち込まれた。
例の友人と共に、野菜を売りにたまに街へ出ると、そのたびに変化があった。鉄道や自動車といった輸送技術、道路の整備、水道やガスといったインフラ整備……人々の暮らしは豊かになったはずだが、その代償であるかのように、いつも忙しそうだった。その慌ただしさに、少し怖くなるくらいだ。
世間はどんどん変わっていくのに対し、自分はというと、相変わらず山奥で畑を耕し、なんともつつましく暮らしていた。
変化と言えば、シワと白髪が増えたこと。そして、この微妙に歪んだ鼻が、すっかり気にならなくなったこと。重労働で腰痛に悩まされるようになったことくらいか。
果たして、殴られた甲斐はあったのかなかったのか。
わからない。
恐らくそれがわかるのは、あの悪魔達に『殴った甲斐があった』と言わせた時なのだろう。
机に向かうと、広げたままの原稿用紙を手に取る。
軽く原稿を読み返してみると、まるで王への手紙のようだった。あとは、すっかり顔なじみとなった新聞記者に渡すだけだ。
昔は軍の批判のために本を書こうとしていた彼だが、この前会った時は、いつか世界のどこかで生きているリヴァイを取材して、調査兵団の歴史を本にするのだと意気込んでいた。
なんだ。本当はそっちが書きたかっただけで、自分達は英雄譚の添え物じゃないか。まったく、新聞屋というヤツは。
急にこんなものを書く気になったのは、決して、あの新聞屋を喜ばせるためではない。
すべては、自分のために。
もしかすると――もしかすると、どこかで本になったこれを目にした我が子が、父親を気にしていつか会いに来てくれるかもしれない。そんなささやかな期待が、自分にペンを取らせた。
どうせ『誰かのため』に何か出来たことなどないのだ。それが今さら使命に目覚めて『子供達のため』だの『人類の未来のため』だの、嘘くさくて仕方ない。
今の自分に出来ることは、『その日』が訪れた時のために、毎日部屋を掃除し、畑に出ることくらいだ。
我が子が会いに来てくれた時、ゴミだらけの部屋でぐうたら過ごしていては、『来るんじゃなかった』と言われてしまう。それだけは、御免被りたい。
せめて『心配して損した』と、安心して帰って行けるよう。自分の存在が、我が子の自由の足かせにならぬよう。
それが出来れば――王よ。あなたも、笑ってこう言ってくださるでしょうか? 『ありがとう』と。