古い本の匂いがする。
気がつくと、自分はいつもここにいたような気がする。
ミラージュパレスには一生かかっても読み切れないだけの書物が保管され、好きな時に好きなだけ読むことが出来た。
そのせいか、幼い頃からヒマな時はいつも入り浸っていたような気がしたが――今にして思うと、単純に、そこに行けば父がよくいたからかもしれない。
その日も書庫に行くと、真っ先に父の姿を捜すが、見あたらない。
「父上?」
一通り捜すが、見あたらない。まだ捜していないのは――
「…………」
気がつくと、書庫のさらに奥――黒い鉄扉の前に立っていた。
なぜかはわからない。
わからないが、いつの間にか自分はその扉に手をかけていた。扉は重い音を立てて、ゆっくりと開いていく。
「――あれほど、開けてはいけないと言ったのに……」
その声に振り返ろうとした瞬間、扉の隙間から飛び出してきた黒い影に、右腕をわしづかみにされる。
「――――!?」
――タナトス?
いや、違う。これは――
――私?
抵抗する余裕も、悲鳴を上げる間もなく、気がつくと闇の中に転落していた。
扉の向こう側は、ただ、闇だった。
闇を落下する感覚の中、自分が落ちた扉の向こう側に、人影が見えた。
人影は落下するこちらを見下ろして、
「始めたからには、後片づけまでやりなさい。ほったらかしにしたまま投げ出せば――いずれ、喰い尽くされてしまう」
逆光のせいで姿は見えない。見えなかったが、この懐かしい声は――
「――父上ぇっ!」
◆ ◆ ◆
「…………」
悪夢も、見慣れてしまうともはや驚いて飛び起きることもなくなるらしい。
それでも全身に嫌な汗をかき、寒気と激しい動悸がまだ残っている。
しばらくソファに横たわったまま、何度もまばたきをすると、体を起こす。
すぐ横のカーテンを全開にすると、まだ夜明け前らしい。太陽こそ出ていないものの、空が白み始めていた。
最近は、これくらいの時間に自然と目が覚めるようになった。周囲は『早すぎる』と言うが、自分からすると、単純に元に戻っただけだ。
明るさに目が慣れてから、自分の両手を見下ろす。間違いなく自分の手だった。
肩が、ざわつく。
周囲に誰もいないことを確認すると、服の前をはだけ、体の具合を確かめる。
タナトスの浸食は、肩や胸はもちろん、腹にまで広まり、最近では汚染された箇所がズキズキ痛むほど悪化していた。
――長くて三月……
それを宣告されて、とっくに半分が過ぎた。それに、その期間はあくまで目安だから、もっと短くなる可能性だってある。
「…………?」
ふと、ソファの脇のテーブルに目をやると、自分が眠った後に置かれたのか、花瓶に生けられた花が飾ってあった。その隣に、古い本が置かれている。
……そういえば、寝る直前まで寝そべって本を読んでいたような気がする。
どうやらそのまま眠ってしまい、花瓶を置いていった誰かが、ついでに本を移してくれたのだろう。
それに手を伸ばそうとして、
「キィ……」
一緒に眠っていたラビが目を覚ましたらしく、布団の中から顔を出す。
「……よく眠れたか?」
伸ばそうとした手をラビの頭に置き、なでてやると、気持ちよさそうに目を細める。こうしていられるのも、後どれくらいだろう?
いずれ眠りにつけば――そのまま、目覚めなくなる日がやって来るのだろう。
◆ ◆ ◆
「……うまく行かないな」
昼過ぎに一度ワッツの家に戻り、応接室のソファに腰を下ろす。
船の修理が本格的になって数日。
コスト削減のため、宿はしばらく前に出払い、ワッツの家で寝泊まりするようになった。
最初は狭いと思っていた家も、いらないものを捨てると意外と広かった。女性には即席の二段ベッドを作り、他の者は適当な床やスペースで眠ると、気分としては野宿とさほど変わりない。屋根があるだけマシではあるが。
「あら、お帰り。みんなお昼済ませちゃったわよ」
物音に気づいたのか、花瓶を持ったエリスが顔を出す。水を替えていたのだろう。
特別、役割分担していたわけではないのだが、気がつくと家事の類はすべてエリスの仕事となっていた。
自分はというと、ニキータに教えてたもらいながら町で簡単な仕事で日銭を稼ぐ日々――さすがに、わびしいものがある。
ちなみに今日は『商売』をやってみることにしたのだが、
「あの……やっぱり『商品』がこれじゃあ、売れないんじゃにゃいかと……」
「そうは言うが、『扱う品は自分の得意分野にすべきだ』と言ったのはお前だろう。私の専門は呪術だ」
そう言うと、風呂敷の中から大量に売れ残ったわら人形をひとつ取り出す。一体一体、夜なべしてせっせと作った。
わら人形:呪術用具。人形を呪いたい相手に見立てて使用する。
材料:わら。
「え、えーと、商売というものは『需要があって供給がある』と説明したと思うんですけど……」
エリスも、風呂敷の中から人形をひとつ取り出し、
「こんなのがバカ売れしたら、どれだけ病んでるのよこの町」
「そうは言うが、少しは売れたぞ」
「売れたの!?」
かなりの衝撃だったらしい。思わず人形を落とすエリスに、午前中のことを思い出しながら、
「十体くらいは売れたな。みんな顔を隠し、周囲をひどく気にしながらコソコソと……中には、五体くらいまとめ買いするヤツもいた。みんな最初は暗い顔だったが、帰る時は嬉しそうだったぞ」
「そ、そう……」
エリスはなぜかリアクションに困った顔で、一歩後ずさる。
ニキータはエリスが落とした人形を拾い上げ、
「それにしても、こんにゃのどうやって使うんですにゃ? オイラには、単にわらを人型に編んだだけにしか見えませんにゃ」
「これだけではダメだ」
いぶかしがるニキータの手から人形を取り上げ、もう片方の手で、小さく折った紙を懐から取り出す。
「それ、髪の毛ですかにゃ?」
紙を広げ、包んであった一本の短い髪の毛をつまむと、それを人形の胸に押し込み、
「こうやって……呪いたい相手の体の一部……まあ、髪や爪でいい。それを入れ、」
今度は、五寸釘とカナヅチを取り出し、
「後は、ダメージを与えたい箇所に釘なりなんなり打ち込む。これだけでいい」
そう言うと人形を壁に押しつけ、その胸に、五寸釘を思いっきり打ち付けた。
↓その頃
「キュカーーーーーー!!」
「キュカさんが落ちたでありますーーーー!」
ナイトソウルズの外装修理をしている最中、突然、キュカが足場から落ちた。ちなみにその高さ、約三メートル。
ロジェとテケリが慌てて下りると、砂浜だったことが幸いしたらしい。ケガらしいケガはしていないようだが、脂汗と砂にまみれたキュカは、苦しそうに胸を押さえ、
「な、なんかよくわからんが……心臓が……心の臓が痛い……!」
「マズイだろそれ! 医者! 病院ー!」
「あー、医療費もバカになりませんからねー。行くのなら自分のポケットマネーでお願いしますねー」
「鬼!」
笑顔で言い放つユリエルに、キュカは渾身の力で叫び、ばったり倒れた。
◆ ◆ ◆
「こんなに効くのになー」
「もうっ、効くわけないでしょこんなの」
エリスは壁に打ち付けた人形を取り上げ、残りの人形が入った風呂敷も抱えて台所へ向かうと、
「ちょうどいいわ。お昼まだでしょ? お鍋温め直してあげる」
「あ。」
そう言うと、止める間もなく、ポイポイとかまどの中に人形を放り捨て、火をつけた。
↓その頃
「なんか今度は焼けるように熱いー!」
「この苦しみ方、じんじょーじゃないであります!」
「そのようですね……」
砂の上でゴロンゴロンのたうち回るキュカに、さすがのユリエルも病院送りを検討し始める。
その一方で、ただ一人、ロジェだけはどこか冷静に、
――なんだか、兄さんの呪いでいたぶられてる時の症状に似ているような……
そう思ったが、あえて口外はしなかった。
結局――
夜なべしてせっせと作ったわら人形はエリスにすべて燃やされ、この商売はその日のうちに廃業となった。
◆ ◆ ◆
少し遅い昼食を摂っていると、病院帰りらしいキュカが、ロジェと、玄関まで出迎えに行ったエリスの肩を借りて寝室へと運ばれていく。熱中症だろうか?
「エリスさん、料理の腕がどんどん上がってますにゃ。このカブのスープ、おいしいですにゃー」
「……そうだな」
とりあえずキュカは無視して、食事に専念する。
エリス自身は、特別料理好きではないと言っていたが、最近はずいぶん楽しそうだ。最初の頃は味付けもバラバラで、簡単なメニューばかりだったが、最近はバラエティに富んできた。作っているところを見ても、ずいぶん手慣れてきたようだ。
自分はというと、特別何か出来るわけでもなく、完全に手が空いていた。
船のことについても、最初から手を出すつもりもなかったのだが――
「……何か用か?」
食後、ユリエルとワッツに、地下の研究室になぜか呼び出された。
二人以外誰もいない。強いて上げるなら、勝手についてきたラビくらいだ。
ユリエルはこちらを奥のテーブルまで来るよううながしながら、
「船を魔法強化出来ないかと思いましてね」
ワッツもひとつうなずき、船の図面を指さして、
「装甲を頑丈にしたいところだが、単純に装甲を分厚くしたら、船体が重くなってスピードが落ちちまう」
「そもそも、装甲を厚くするだけの改造費があるのか?」
「それは言わないのが礼儀です」
こちらの的確な指摘に、ユリエルは笑顔で、しかしドスの効いた声で返す。
ワッツは苦笑しながら、
「ま、それはさておき、スピードを上げるには船体を軽くする必要があるんだが、かといって装甲を薄くしたら、スピードに防御力が負けて船が壊れちまう。ただでさえ新しいエンジンの馬力に、船体に負荷がかかっているからな。これ以上、船体の守りを弱くするわけにはいかねぇ」
そう言いながら、机の端に広げられた本や巻物に目をやる。ほとんどが魔導書の類のようだ。
ワッツはこちらに視線を戻すと、
「残る方法は魔法強化だ。魔法使いの観点からして、何かいい知恵はないか?」
「そうだな……」
問われて、ナイトソウルズの造りを思い出す。
戦渦をくぐり抜けてきたとはいえ、元は偵察船。いくら新型の船とはいえ、戦艦と比べれば防御面には不安がある。
船そのものを改造するには限界がある。そうなると、たしかに魔法強化しかないだろう。
「船体に防御の護符を貼る……いや、それよりも船体そのものに守りの結界を作ったほうがいいだろうな」
「船に結界を張るんですか?」
「いや、船そのものが結界として機能する、というのが近いな」
ミラージュパレスは、場所そのものがマナエネルギーの溜まり場である上、建物自体が結界として機能するよう造られている。
それを船に応用すればうまく行くだろうが、問題は、
「設計図を見せろ」
こちらの言葉に、ワッツは机の上に散らかっていた資料を一気に端へ寄せ、丸められていた設計図を広げる。
それをじっくり眺め――
「元より魔法で動く船だ。船体のマナ伝導率はこのままで問題ないだろう。後は船体に守りの結界を作れば、装甲が多少薄くても頑強になるだろうが……問題は、動力源だ」
「ほう?」
「結界を維持するには、それなりの魔力が必要だ。今の魔導球では、あっという間にエネルギー不足で墜落だな」
結界を作るということは、船そのものを動かすエネルギーに、さらに結界を維持するためのエネルギーがプラスされることになる。
例えるなら、トレントの実を一個運ぶのがやっとのラビに、一度に二個運べと言っているようなものだ。今、あの船で使っている魔導球では無理だろう。
「ふむ。それなら、今より魔力を蓄積出来る魔導球がいるな」
「ああ。結界は私がなんとか出来ると思うが、動力源までは……」
「魔導球の数を増やすことは?」
口を挟んできたユリエルに、ワッツはあごひげをなで、
「難しいな。まず、材料がない」
「一から魔導球を作ろうと思ったら、それなりの施設と材料がいる。材料が必要という点では、今ある魔導球を強化することにも言えるがな」
「だが、後者のほうがよっぽどお手軽だぞ。材料は少なくて済むし、それくらいだったらここでも出来る」
こちらの言葉をワッツが付け加える。
「道具や材料を取り寄せることが出来りゃいいんだが……昔と違って最近物騒だからな。物流も滞っちまって、必要な材料を集めようと思ったら自分の足で行くしかねぇ。それに、あの魔導球を強化するにはどういった材料が必要なのか、調べる必要もある」
「……時間がかかりそうですね」
普段、表情を表に出さないユリエルも、さすがに苦い顔をする。
そう。どれだけかかるかわからない。
正直、こんな小さな町で、満足のいく材料が手に入るとは思えない。仮にあったとしても、それが誰かの所有物であったなら、手に入れるのは困難だ。
「まあ、考えてても仕方ねぇ。ひとまず魔導球のことは後回しにして、先に結界を作っちまおう。必要なもんがあったら言ってくれ」
「あ、ああ……」
後先考えないと言われればそれまでだが、今出来ることはそれくらいだろう。
結論が出た辺りで、ユリエルは不思議そうな顔で、
「それにしても、こういったことには詳しいんですか?」
「ああ――」
聞かれて、ぽつりと、
「父上の手伝いで、魔工学の研究をしていたからな」
…………。
一瞬の沈黙ののち、
「……なぜそれをもっと早く言わなかったんです?」
「聞かれなかったからだ」
「…………」
言葉を無くすユリエルに対し、ワッツは笑いながら、
「だったら安心だ。魔法使いっつーと、肝心の知識や技術を説明しろって時には、ひどい場合は『すべては波動だ』なんてわけわかんねぇことを言いやがる」
「波動……」
なんとなく、ミエインなら手抜きしてそんなことを言いそうな気がする。ちなみにそのミエインは、最近、姿を見せなくなってしまったが……
ワッツは上機嫌に、
「これならアドバイザーとして安心だ。手伝ってもらうぜ」
「私が?」
「お前じゃなきゃ出来ねーだろ。しっかり働けよ」
そう言うと、ワッツは力一杯こちらの背中を叩いた。
◇ ◇ ◇
「…………」
柵に身を預け、ぼんやりと、手の中の小瓶を眺める。
イザベラの灰の小瓶だ。相変わらず、捨てられないでいる。
視線を、小瓶から眼前の海へと移す。
水平線の彼方では、赤い空にじわじわと藍色が混じりつつあった。
海は揺れるたびに、陽光を反射してキラキラと輝き、そのまぶしい照り返しに、自然と目が細くなる。
……この光景を、どこかで見たような気がする。
たしか、あの時も――
「――ロジェ?」
その声に反射的に振り返り――次の瞬間、全身に寒気が走り、小瓶を落としかける。
こちらの驚きように声をかけた本人も驚いたらしい。目を丸くして、
「ど、どしたの?」
「あ……エ、エリスか」
確認するまでもなくエリスに違いないのだが、自分でもわかるくらい動揺している。
買い物帰りらしく、エリスは食料の入った紙袋を抱え、
「何してんのよ。早く帰らないと、僧兵に襲われるわよ」
それは彼女も同じはずだが、たしかに、いつの間にか周囲から人の姿が消えている。
エリスは怪訝な顔で、そして、唐突に、
「前から気になってたんだけど、わたし、あんたになんかした?」
「は?」
予想外の言葉に目を点にするが、エリスはお構いなしに、
「なんていうか……わたしが相手の時だけ、態度が違うのよね。気にくわないことがあるんなら、ハッキリ言って欲しいんだけど」
「…………」
内心、ぎくりとする。
女の勘は鋭いというが、自分にその気がなくても、わずかなしぐさや態度が目についたのかもしれない。
……エリスが悪いわけではない。
そんなこと、わかり切っているというのに――
「……エリスを見ていると、思い出すから嫌なんだ」
「は? 何を?」
「…………」
「――もうっ! なんなのよ一体!」
答えあぐねていると、しびれを切らしたのか、エリスは大股でこちらの横を通り過ぎて行く。
通り過ぎようとして、
「これ、あんた持って帰りなさい!」
いきなり引き返してきたかと思うと、抱えていた荷物をこちらに押しつけ、改めて去って行く。
「…………」
まるで別人だ。
どんなに考えても、出てくる答えはそれなのに、気がつくと比べてしまう。似ているのは外見だけのはずなのに、その外見に惑わされている。
少し前まで、見た目なんて大した問題ではないと――特に双子として生まれた身としては、そう思っていたはずなのに。
「…………?」
ふと視線を感じて振り返ると、近くの路地に白い猫がいた。
なぜか、どこかで見たような気がしたが――猫はこちらの視線に気づくと、すぐに立ち去る。
――なんなんだ、一体……
何かがおかしい。
それとも、どうかしてしまったのは自分だろうか?
ため息をつき、再び、海と空の境に目を向ける。
最後の抵抗のように、太陽は空を朱色に照らしていたが、そのさらに上では、藍色がどんどん濃くなっていく。
その藍色の中で、一番星が光っていた。
◆ ◆ ◆
「それにしても、魔法ってのもよくわからねぇな。便利っちゃあ便利だが、理解不能なところがある」
朝から狭い書庫で本を読みあさっていると、ワッツが誰にともなくつぶやく。
その言葉に、読んでいた本から顔を上げ、
「そうか? 私にしてみれば、あんな金属の塊が空を飛ぶほうがよっぽど不思議だが」
いくら魔法の力で動いているとはいえ、機械そのものが魔法を使うわけではない。結局のところ、機械の力だ。
「あのエンジンだって、金属の塊のようなものだろう。どうすればあんなものが動くんだ? あれが船の心臓部になるなんて、そっちのほうがヘンだ」
「ふむ。たしかにそうかもしれねぇが……そうなると、俺達だって不思議だぜ」
「?」
ワッツは開いていた本を閉じ、棚に戻すと、
「考えてもみろ。俺もお前も、みーんな体は肉と骨で出来ているんだ。それがモノを考えたり、メシを食ったり、ケガをしても治ったり……不思議だとは思わないか?」
「…………」
そうかもしれない。
今でこそ当たり前のように思考し、動き回っているが――心臓が止まった途端、それまで生きるために機能していた肉体は腐り始め『人』だったものはただの『モノ』へと早変わりする。
……なんとなく、父が死んだ時のことを思い出す。
少し前まで言葉を交わしていたはずの相手が、もう別のモノ――それこそワッツの言う通り、ただの肉と骨で出来た人型へと成り果てる。
覚悟していたはずなのに、まるで実感が沸かない。なのにそんなことはお構いなしに、生き物としての機能を終えた肉体は腐っていく。
もうこの世にいない事実に、寂しさと悲しさを感じるようになったのは、葬儀が済んでしばらく経ってからだった。
「……それ、なんとなくわかる気がしますにゃ」
ふいに、隅っこで本を読んでいたニキータが口を開く。
「オイラの両親は旅の商人やってたんですにゃ。十年前の戦争の時、オイラ、まだチビだったんですけど、両親と一緒に戦場から戦場へ、武器や薬を売り歩いてましたにゃ。そんにゃ生活でしたから、死体とかよく目にしましたにゃ。魔物に半分食われたヤツとか、腐って虫が湧いたヤツとかも……」
「…………」
ニキータの口から戦の体験談が語られるのは始めてだった。むろん、話したい内容ではないというのもあるのだろうが……
現に、ニキータは少し話しにくそうな顔で、
「すっごく臭いんですにゃ。ちょっと前まで生きてた人間だってわかっていても、ウジやハエがたかって、これが人間だったのかってくらい見た目も悲惨で……とても近寄れませんでしたにゃ。『王様だろうと平民だろうと、種族も関係なしに、死ねばみんにゃこうにゃるんだ』って、両親が教えてくれましたにゃ」
「…………」
――肉と骨の塊、か……
なんとなく胸に手を当てると、服越しに鼓動が伝わってくる。
生きている間は肩書きだの種族だの、そんなものに振り回されても、死ねば皆、同じように腐って土へと還っていく。
遅かれ早かれ、行き着く先は皆同じなのに、なんだってそんなものに振り回されて生きているのだろう?
「――ま、辛気(しんき)くさい話はこれで終いにしよう。何か参考になりそうなものはあるか?」
空気が重くなってきたせいか、ワッツがあえて明るい声を上げる。
「あ、ああ……そうだな」
ワッツの意見には賛成だ。とりあえず手にした本を元の場所に戻し、他の本の背表紙を眺めるが――家中の本は、今日までにほとんど読み尽くしてしまった。元々、冊数も多くない。
「他にはないのか?」
「あいにくこれで全部だ。あとは教会の図書室で調べるしかない」
「教会?」
「出入りは自由だからな。この町で調べ物するなら、あそこしかない」
「……あまり近づきたくないな」
正直な感想をつぶやく。
以前、前を通ったのだが、中から不気味な気配がした。
禍々しいとは違う。おぞましいとも違う。どう言えばいいのかわからないが、まるで、胸を締め付けられるような、嫌な気分になった。
それ以来、遠目に見ることはあっても、前を通ったことはない。
「あそこにはな、十年前の戦で死んだ子供の遺品が奉納されてるんだ」
「遺品?」
「供養ってことでな。そのせいか、幽霊が出るだのそういったウワサがある」
「……供養するために納めたんじゃないのか?」
化けて出られたのでは、供養になっていないような気がするが……
「ま、ウワサってのはそういうもんだ。それに、ちゃんと供養されているのかどうかも怪しいしな」
「供養、か……」
自分がいなくなった今、ミラージュパレスはどうなっているのだろう?
古の時代でこんなことを考えるのも妙な話だが、少なくとも、墓守がいなくなったのだ。荒れ果てるのは目に見えている。先祖供養も自分の役目なのに、あれ以来、ほったらかしだ。
「……どちらにせよ、資料探しをするならそこしかないわけだな?」
「あ、オイラご遠慮しますにゃ」
ドアを開け、そそくさと廊下に出たニキータの首根っこをつかみ、
「遠慮はいらん。本を運び出すのを手伝うだけでいい」
「それだったら! 小柄なオイラより、あちらのほうが適任かと!」
そんなことを言いながら、慌てて廊下の向こうを指さす。
ニキータにすれば、とっさの思いつきだったのだろうが――
「なるほど。適任だ」
昨日倒れて、今日一日休むことになったらしい。
今頃になって起きたのか、ちょうど奥の部屋から、キュカが出てきた。
* * *
「なんで俺が……」
今日一日寝て過ごすつもりが、わけがわからないまま、教会までレニと同行するハメになった。
一人で行けと言いたいところだったが、彼一人で行かせると一体どんなトラブルを起こしてくれるかわからない。一応目付役である以上、何か起こった時、自分のせいにされてしまうのだけは回避したい。
結局、行きたい本人と自分、そして勝手についてくるラビ一匹で教会へと向かう。
門の前には僧兵が立っていたが、微動だにしない上、こちらを止めることもしない。
一言くらいあっても良さそうな気がしたが――レニは僧兵など最初から視界に入っていないのか、勝手に門を押し開け、敷地内に踏み込む。
雑草が伸び放題の小さな庭を横断し、入り口の扉を開けると、中は真っ暗だった。
「なんだ? 人っ子一人いないじゃねーか」
教会なら僧侶の一人や二人いるはずなのだが、人の気配がまるでない。
中に入ると、レニが魔法の明かりで辺りを照らすが、床にはホコリが積もり、空気がよどんでいる。窓もカーテンが引かれ、薄暗い。
暗い中、真っ直ぐ進むと、すぐ礼拝堂に出る。ここも窓がカーテンでふさがれ、光源はレニの魔法と、カーテンを透けて入ってくる陽光くらいだ。
「真っ暗な礼拝堂ってのも気味悪りぃな……」
思わずつぶやく。
何かリアクションを返して欲しいところだったが、レニは無言で、奥の祭壇に向かう。
礼拝堂には木製の長イスが並び、一番奥には祭壇があった。祭壇の近くには古びたオルガンが置かれている。
礼拝堂としてはよくある形だと思ったが――祭壇のさらに向こう側、大抵は女神像を置いている場所が、普通とは違った。
祭壇の奥はひな壇になっていて、何かがずらりと並べられている。
「これか? 奉納された遺品ってのは」
「……嫌な感じだ」
レニの言う通り、確かに嫌な感じだ。
ひな壇には、人形などの子供用のオモチャが並べられていた。どれもがホコリをかぶり、焦げて黒くなったもの、一部が破損したもの、血の跡か黒いシミがついたものと『きれいな状態のもの』がまるでない。
この教会の事情は聞いたが、供養するために奉納したはずの遺品ですらこの有様だ。遺族も長いこと来ていないだろう。
これではまるで――
「……教会ごと捨てられたみたいだな」
「…………」
確かに、ホコリをかぶったまま無責任に放置されるくらいなら、いっそのこと、燃やして跡形もなく消してくれたほうが、責任を果たしたことになるかもしれない。
「図書室は……あっちか? さっさと行くぞ」
「ああ……」
こんなところに長居すると、気分が滅入ってしまうだけだ。
とにかく目的を果たすために、オルガンの向こう側にあったドアを開け、ほとんど勘で奥へと向かった。
ほどなく見つけた図書室も、案の定、無人だった。
古い本独特の臭いと、やはりここも長い間放置されていたのか、ホコリを吸ったラビがクシャミをする。
中に入ると、真っ先に、変色したカーテンと窓を開け放ち、新鮮な空気に入れ替える。
「あー、ひでぇな、こりゃ……」
空気中を漂うホコリが光に照らされ、その量に、息をすることをためらってしまう。
「……この教会、ずいぶん前から無人になっているようね」
ルナが姿を現し、薄暗い室内を照らす。
「そうみたいだが……町の連中はそれに気づいてないのか?」
「気づいたところで何も出来ない。だから誰も来ないんだ」
「…………」
確かに。
ただでさえ僧兵があちこち歩き回り、夜に出歩くと斬られるという。
ある意味、恐怖支配だ。当然、人々は教会から遠ざかる。だから教会内の変化に気づかない。いや、気づかないフリをしているのかもしれない。
「僧兵……あの僧兵達はどうなってるんだ? 僧兵だけなら、ずいぶん数がいるみてぇだが」
「あの僧兵達、中身はカラだ」
「カラ!?」
「――この前、適当な僧兵の後を一日中つけて回ったダスー」
風と共に、ジンが姿を現す。
「その僧兵……一日中歩き回ってたダス。朝から晩まで、休憩もなしに」
「…………」
その言葉に、ゾッとする。
もし人間だったら、あんな鎧を着て歩くだけでも大変だ。しかも元々暖かい土地であるため、中は蒸し風呂状態だろう。
そんな格好で、休憩もなしに朝から晩まで町中を徘徊。それこそ怪談話だ。
もちろん、魔法で動く鎧だと片づければいいのだが、それだけでは済ませられない不気味さがある。
「ちょっと待てよ。そうなると、元々ここで働いていたヤツらはどうなったんだ? さすがに昔っから無人だったわけじゃないだろう」
「そこまではわからんが……単純に解雇しただけならいいのだが」
「…………」
……あいにく、そこまで楽観視は出来ないだろう。言っている本人もわかっているらしく、それ以上は何も言わずに本探しを始める。
自分も手近な棚に目をやるが、本の背表紙を見てもさっぱりわからない。
「なあなあ。こっちにヘンな部屋あるでー」
その声に顔を上げると、部屋の隅のカウンターから、ウンディーネが手を振っていた。
関係者が出入りする部屋だろう。カウンターの奥の部屋に入ると、本棚や机があり、さらにその奥には、大きな南京錠で施錠された扉があった。扉には、何か書かれたプレートがつけられている。
レニはそのプレートに目をやり、
「『持ち出し禁止』……禁書の類か?」
「だったら色々あるだろ。鍵壊して――」
「待て」
南京錠に手をかけようとしたところで、止められる。
「本ならほかにもある。わざわざ禁書を持ち出すほどのことでもない」
「まあ……そうだけどよ」
てっきり飛びつくかと思ったら、意外と慎重だ。さっさと元の場所に戻ると、目をつけた本棚から次々と本を取り出す。
「ってオイ!? まさか、ここで読書するのか!?」
「読んでみないことには、どれが必要なものかわからないだろう」
言いつつ、レニは抱えた本を机の上に置いては、また新しい本を取りに向かう。
「これ……全部読むのかよ……」
本棚と机を往復しては、大量に積まれていく本に唖然とする。
中は無人だわ鎧はカラだわ供養されてなさそうな子供の遺品が奉納された教会で読書。
テケリとニキータなら泣いて逃げ出すだろうが、あろうことか、レニはイスに座ると本を広げ始めた。自分が思っている以上に、肝が据わっているのかもしれない。
レニはこちらをにらみつけると、
「お前も突っ立ってないで、調べたらどうだ?」
「……こんなの読めるわけねーだろ」
本に書かれている意味不明な文字を指さし――意味がわからなかったのか、レニはヘンなものを見る目でこちらを見てきたが、
「あ、そうか……」
ようやく、この時代の文字がこちらにとっては古代語であることを思い出したらしい。
わかってくれたところでため息をつくと、頭をかき、
「俺にしてみれば、お前のほうがよっぽどヘンだぞ。古代語の本なんて、どんな時に読むんだ?」
「もっぱら、研究の時だな」
答えはあっさりと返ってきた。
レニは本のページをぱらぱらと読み飛ばしながら、
「私の仕事は、メインは儀礼的なことだが、それ以外は魔法の研究に時間を使うことが多い」
「そうなのか?」
意外な回答に、目を丸くする。
言われてみると確かに、あの宮殿は魔法の研究を行うのに適した環境のような気がする。まず、研究が盗まれる心配はない。設備も最高のものだろうし、万が一事故が起こっても、被害は最小で済まされる。
「研究費は国がいくらでも出してくれるからな。小さい頃は魔法の修行と平行して、父上の研究をよく手伝ったものだ」
目当ての記述がなかったのか、レニはさっさと次の本を手に取る。速く読むコツでもあるのだろうか?
「他国は研究内容を発表し合うと聞いたが、ペダンはそんなことはしないからな。一体、世界にどれほど通じるのかは知らないが、そういった研究の積み重ねが、ヴェル・ヴィマーナやガルバットの開発に一役買ったそうだ」
「そ、そうか……」
――それって偉業じゃないのか?
すごいヤツほど自分のすごさに気づいていないとは言うが、もしかすると、ペダンが他国の影響を受けず独自の文化を築いてこれたのは、幻夢の主教の力があったのかもしれない。
「てぇことは、ペダンのあの凶悪な魔工兵器の類は、全部お前らが関わっていた、と?」
「単なる技術提供だ。それをどう使うかまでは知らない」
こちらの言い方が気に入らなかったのか、彼は乱暴に本を閉じ、
「魔工学は特に需要が高いから、王国側から研究依頼がしょっちゅう来る。まあ、父上は魔工学の合間をぬって、精霊の研究もしていたがな」
「精霊の?」
「複数の精霊の力をひとつに収束し、さらに力を高める研究をしておられたが、うまく行かなかった。父上は私にその研究を継いで欲しかったようだが……私は他の研究を優先させてしまって、結局、途中でほったらかしにしてしまったな」
「…………。そうか」
正直、よくわからない。
とはいえ、父親の研究を継がなかったことを多少は悔やんでいるらしい。彼の父がどんな人物だったのかは知らないが、少なくとも、彼にとっては一番影響のある人物だったのだろう。
「にしても、親父さんの研究ほったらかしにして、お前は何の研究やってたんだ? やっぱ魔工学か?」
「……お前には関係ない。もう黙れ。気が散る」
「へいへい」
しっしっ、と、手であしらわれ、背を向ける。さっきまで、自分が一番よくしゃべっていたというのに。
近くの棚からなんとなく目についた本を手に取り、開いてみるが、やはりなんと書いてあるのかさっぱりわからない。自分達が使っている文字のルーツのはずなのだが……
あきらめて本を戻し、開いた窓に目をやると、ラビが窓枠に乗って外を見ている。
「ぷきっ……」
「落ちるぞ」
ラビの首根っこをつかんで持ち上げるが、ラビは相変わらず外をにらみつけている。
何かあるのかと外に身を乗り出すが、伸び放題の雑草が生い茂っているだけだ。その数メートル先には白い塀。これが中からも外からも見えないよう、目隠しをしている。
特に警戒するようなものはないと思うのだが――
「…………?」
塀の上に、何かいた。
どうやらラビが見ていたのはそれだったらしく、よく見ると一匹の白い猫だった。
猫は塀の上に寝そべり、のんびりとひなたぼっこをしていた。