「チッ……逃がすか!」
「待ってであります!」
イザベラは消えた男を追って飛び出そうとしたが――テケリはイザベラに抱きつき、すんでの所で引き留める。
「なにがどうなってるでありますか!? レニさん、どこに行っちゃったでありますか!?」
「…………」
今にも泣き出しそうなテケリに、イザベラも追跡をいったん止め、ナイフをしまうと、
「あれは『死を喰らう男』。ヤツの目的は、極上の魂を喰らうこと……ただ、それだけだ」
「たましいを……食べる?」
意味がわからず、テケリは目をぱちくりさせる。
「ヤツは神出鬼没だ。空間を自由に行き来する。この場で殺せたものをわざわざ連れ去ったということは、すぐに殺しはしないということだろうが……どちらにせよ、急いだほうがいい」
「レニさん、どこに連れてかれたでありますか?」
イザベラは目を伏せ、長い亜麻色の髪をたなびかせ――
「……風……」
「?」
イザベラは目を開けると、北の方角――バストゥーク山をにらみつけ、
「……嫌な風だ。死の香りが混じっている。おそらくレニは――」
「テケリも行くであります!」
「では行くぞ」
「へっ?」
てっきり止められるかと思いきや、イザベラは、ひょいっ、とテケリの体を小脇に抱え、
「苦情は聞かないからな」
そう言うと、手すりに飛び乗る。
ちなみに、ここは三階……
「ちょまっ……イザベラさ――」
まさかとは思ったが、そのまさかだった。
次の瞬間、イザベラは、問答無用で空中に身を躍(おど)らせる。
「――ひゃいいいいいいいッ!」
その浮遊感に、テケリはイザベラの腕の中で、ただただ悲鳴を上げるしかなかった……
◇ ◇ ◇
「…………?」
風の音に混じって、何か声が聞こえたような気がして、ロジェは顔を上げた。
今の声は――
「……今、テケリの声が聞こえたような……」
「はぁ? いくらなんでもそりゃねーだろ」
「そ、そう、だよな……」
怪訝な顔をするキュカに、曖昧な笑みで返す。
サラマンダーも姿を現し、
「疲れてんじゃねーのか? ちょっと休憩するか?」
「大丈夫だ」
かまわず進むと、ゴツゴツした岩場を抜け、崖沿いの道に出た。
崖の側まで行くと、遠くに、緑の森に囲まれたノルンの町並みが見える。山の上から見下ろすと、ひどく小さな町に見えた。
キュカもそれを眺めながら、ため息をつくと、
「それにしても、全然見つかんねーな。手がかりもないんじゃなぁ……」
うんざりした様子でつぶやく。
バストゥーク山にあるはずのマナストーンを、昨日、今日と二日続けて捜索しているものの、手がかりさえ見つからない。
ロジェはキュカとルナ、サラマンダーと共に山の上を。他の者達は山の下と、二手に分かれて探している。船もそちらなので、時間が来るまで戻ることは出来ない。
以前――と言っても、この時代からすると未来の話だが――は、風の精霊が自ら出てきてくれたのだが、今回は地道に探さねばならないようだ。おまけに地形もずいぶんと違うので、キュカにもどこがどこだかよくわからないらしい。
「精霊の気配もしないのか?」
「……残念だけど、感じないわ。もしかすると、身の危険を感じて隠れているのかも……」
「隠れてる?」
ルナの言葉に眉をひそめると、彼女は淡々と、
「嫌な風が吹いている……おそらく、マナストーンのありかを隠すために、気配を殺しているんでしょうね。逆を言うと、気配を現したが最後、マナストーンを奪われる状況にあるのかもしれない」
「じゃあ、教団のヤツらが、もうこの山に来てるってことかよ?」
「…………」
ルナとキュカの言葉に、先日出会ったルサのことを思い出す。
あの時の彼女は、マナストーンを捜索しているようには見えなかったが、少なくともこの地に来ていることは確かだ。
「……俺、もうちょっと上を探してくるから、キュカはあっちを頼む」
「あ、ああ」
上とは逆の道を指さすと、返事も待たずに歩き出す。
「おい。オレもそっちに行こうか? なんか嫌な予感が――」
「一人で大丈夫だ」
サラマンダーの申し出を断ると、一人で山頂の方角へと向かう。
自分でもよくわからなかったが、なんとなく、一人になりたい気分だった。
……どれくらい歩いただろうか。
前方に、人影が見えた。
* * *
「ねぇ。あの二人、仲悪いの?」
「…………?」
「誰のことだ?」
岩壁沿いの道を歩きながら突然ふっかけた問いに、ユリエルとジェレミアは怪訝な顔をしたが――エリスは足を止めると、腰に手を当て、
「レニとロジェよ。なんか、ヘンな兄弟よね」
以前から気になっていたことを、ストレートにぶつける。
レニが眠っている間は、看病のために留守番をしていたのだが――今日、わざわざついてきたのは、レニの意識が戻ったということもあるが、このことを聞くためだ。宿では本人達に聞かれる恐れがある。
エリスは二人をにらみつけ、
「双子って、もっと仲いいもんだと思ってたんだけど……これまで二人きりになってるトコ、見たことないわよ? なんて言うか、お互い一歩退いてるって言うか、出来るだけ避けようとしてるみたい」
「――そやそや。ロジェのヤツ、兄貴が具合悪ぅしとんのに、まるで気づかんやんか。ひどいケガしたのに、ぶっ倒れるまで心配もせん」
ウンディーネも姿を現し、口をとがらせる。
それに、気になることといえば――
「朝、捕虜とかなんとか言ってたけど、どういうこと? あんた達ってお仲間さんだと思ってたけど、これまでだって、レニ一人だけはなんか違うみたいだし……」
言いつつ、二人が腰につけたベルトに目をやる。
後から入ってきた自分とニキータはともかく、ロジェ達はおそろいのベルトやたすきを身につけているのに対し、レニにはそういったものがない。
それだけと言えばそれだけなのだが、逆を言うと、それだけのことで妙な違和感を感じてしまう。
ユリエルは困った笑みを浮かべ、
「まあ……色々ありましたからね」
「…………」
適当に言葉を濁すだけで、肝心なことには答えない。ジェレミアに至っては黙秘だ。
……どうやら、これ以上は問いつめたところで無駄らしい。
ため息をつくと、もう一つ、
「……それにロジェのヤツ、なーんか、わたしを避けてる気がするんだけど。わたし、なんかした?」
今度は言葉を濁すどころか、ユリエルは曖昧な笑みを浮かべたまま黙り込み、ジェレミアはあさっての方向に目をそらす。
「もう! なんか言いなさいよ! 気分悪いじゃない!」
二人に詰め寄ろうと、一歩、足を踏み出し――
「――いいいいいいッ!」
――べちっ!
目の前に、突然何かが降ってきた。
何がなんだかわからず、目をぱちくりさせる。もう一歩踏み出していたら、下敷きにされていたかもしれない。
「テ……テケリ!?」
どこからどう見ても、降ってきたのはテケリだった。大の字になって、地面に突っ伏している。
「――すまない。急いでいたものだから、つい」
振り仰ぐと、少し上の岩壁に、見覚えのある女が立っていた。
「イサベラさん!?」
彼女は、こちらの顔ぶれを確認すると、
「キミ達だけか?」
ユリエルも、イザベラの突然の登場に困惑した顔で、
「そうですが……あの、一体何が?」
「――レニさんがさらわれたであります~!」
テケリが土で汚れた顔を上げ、無駄に大きな声で叫ぶ。
「さらわれた? どうしてあいつが……」
「そんなのどーでもいいであります! 早く助けに行くであります~!」
目を丸くするジェレミアに、テケリが泣きそうな顔で怒鳴り返す。
「ねぇ。イザベラさんはどうしてここに?」
「妙な勘違いはするなよ。私は、私の宿敵を追って来ただけだ。レニに関することはお前達の問題だろう?」
彼女はさらに高い岩壁に飛び移り、
「こうしている時間も惜しい。私は先に行かせてもらう。どうやら、山の上にいるようだ」
早口にそう言うと、人間ではあり得ない身のこなしで、岩壁のわずかな出っ張りを足場に上へと登っていき――その姿は、あっという間に見えなくなった。
◇ ◇ ◇
――誰だ?
まるで自分が来るのを待っていたかのように、その人物は岩壁沿いの一本道に立ちはだかっていた。
顔すべてを覆い隠す白塗りの仮面を身につけ、頭をすっぽりおおう聖帽をかぶり、さらに全身を包み込む儀礼用と思われるデザインの白いマントを身にまとっている。
おかげで、顔はおろか、肌の色、髪の色、ましてや性別や年齢すらわからない。
「久しぶりだね」
仮面越しに、くぐもった声が聞こえる。どうやら男のようだ。
男は、ゆっくりと仮面をはずす。その顔は――
「ア……アナイス!?」
「やあ、ロジェ。元気そうだね。……そういえば、こっちで会うのは初めてだったかな?」
こちらの驚きなどお構いなしに、目の前の青年――アナイスは、マイペースに微笑んでみせる。
今頃になって、自分の中のアナイスは幼い少年のイメージしかなかったことを思い出す。
自分達より五年のズレがあると聞いてはいたが、アナイスの言う通り、この世界で会うのはこれが初めてだ。
アナイスは空を見上げると、
「ここは空がきれいだねぇ。手が届きそうだ」
そう言うと、実際に手を伸ばしてみせる。
……確かに姿は変わったが、その軽薄さはまるで変わっていない。
そのことに恐怖さえ感じたが――そんなことはおくびにも出さず、
「……何をしに来た?」
「冷たいなぁ」
アナイスは手を下ろし、脱いだ仮面をもてあそびながら、
「そういえば、ロジェとはまだちゃんと話をしていないと思ってさ。せっかくだから会いに来てやったんだよ」
「――ふざけるな! ジャドで何をしていた? あの黒い魔導球……それにメノス村でのことを知らないとは言わせないぞ!」
一歩詰め寄り、怒鳴りつけるが、アナイスは呆れたように肩をすくめ、
「何怒ってんのさ? あーやだやだ。そうやって善人ぶるヤツ」
そして穏やかな――なのに、どこかゾッとするような笑みを浮かべると、
「どうせくたばったのは、自分の知らない赤の他人だろう? 百人死のうが千人死のうが、ホントはどうでもいいくせに……」
「…………!」
その言葉に、思わず剣の柄を握るが、アナイスはケロッとした顔で、
「ねえ、そんなことよりさ。気になってたんだけど……ロジェは、何しにここまで来たのかな?」
「なに?」
「何しにここまで来たんだって聞いてるんだ。あれだけ戦いに明け暮れて、まだ戦い足りないの?」
ようやく、『なぜいにしえのファ・ディールまで来たのか』と聞かれているのだと気づく。
剣の柄から手を下ろすが、それでもまだ、アナイスをにらみつけたまま、
「……お前には関係ないだろう」
「そう? じゃ、当ててみよっかな」
アナイスは明るい声でそう言うと、仮面をあごに当てて考えるしぐさをし――ほどなくして、ぼそりと、
「復讐のため、だろう?」
「……え?」
一瞬、意味がわからず、ぽかんとするが――アナイスは仮面をあごに当てたまま、邪悪な微笑みを浮かべ、
「だってそうだろう? お前にとって、僕やレニは親友と恋人を死に追いやった憎い仇……レニと一緒にいるのだって、自分の手元に置いておいたほうが都合がいい。いつでも、自分の気が向いた時に殺せるもんねぇ」
「なっ……!」
まるで、金槌で頭を思い切り殴られたような衝撃に、言葉を失う。
アナイスはクスクス笑いながら、
「おや、違うのかい? うさんくさい正義を掲げるよりは、こっちのほうが、誰もが納得すると思うんだけどなぁ」
「…………」
反論しようと口を開くが――頭の中は真っ白で、口は、打ち上げられた魚のようにぱくぱくするだけだった。肝心の言葉は、何一つ出てこない。
「――クックックッ……感じる……感じるぞ……」
「!?」
突然降って沸いてきた声に、驚いて振り返るが、声の主は見あたらなかった。
なのに、声だけは聞こえる。
「どんなに覆い隠そうとしても、お前の中には深い悲しみ……憎しみが渦巻いている。……いい。実にいい魂だ……」
――上!?
側の岩壁を振り仰ぎ、ようやく、岩壁のわずかなくぼみを足場にこちらを見下ろす、巨大な鎌を持った不気味な男の姿を見つける。
「なっ……!」
まるで気配を感じなかった。なのに、その存在を認識したとたん、背筋に寒気が走り、すさまじいプレッシャーに足が震えそうになる。
アナイスも男に目をやり、
「おや、どこ行ってたの?」
「ククッ……ルサ様に用事を頼まれましてね。今、済ませて来たところです」
「そう」
男は岩壁から飛び降り、アナイスの側まで来ると、こちらに軽く頭を下げ、
「お初にお目にかかります。ワタクシは、『死を喰らう男』。……と言っても、勝手にそう呼ばれているだけなんですがね。呼び名がないのも不便なので、この名を使わせてもらっています。以後、お見知りおきを……」
「…………」
別に、こちらを襲うつもりはないらしい。
ないらしいが――その邪気に、思わず一歩、後ずさる。
そして、ふと、さっきの言葉を思い出す。
「おい、ルサの用事っていうのはなんだ? 一体、何を頼まれて……」
こちらの言葉に、死を喰らう男は頬まで裂けた口を楽しそうに歪め、
「なぁに。会いたい方がいると言うので、山の上までお連れしただけですよ……ククッ……」
「…………!」
その言葉に、背筋に寒気が走る。
特に、誰のことだと言ってはいない。
言ってはいないが――嫌な予感がする。
「おい――」
「それではアナイス様、そろそろ参りましょう」
こちらが問いつめるより早く、死を喰らう男はアナイスに目をやり、
「ワタクシにとって、少々おっかない方が近くに来ておりますので。見つかるとやっかいです」
「そう?」
その言葉に、アナイスは手を振る代わりに仮面を振り、
「じゃ、僕はそろそろ行くとするよ。キミが『いい弟』演じてる間、僕も哀れな信者に尽くす、いい主教様を演じるとするかな」
「それでは、またお会いしましょう」
そう言うと、死を喰らう男は鎌を一閃し――
次の瞬間には、二人の姿は影も形も消えていた。
「…………」
しばらくの間、さっきまで二人がいた場所を呆然と眺める。
――違う……
絶対に違う。
必死で自分に言い聞かせるが、なぜか自信が持てなかった。
この世界で、兄やアナイスと再会したのはほとんど偶然で、自分はそんなことを考えたことも、そんなことのために来たわけでも――
「――チッ。逃げられたか」
その声に、我に返る。
「イザベラ……?」
振り返ると、ロアで出会ったあの魔族の女がいた。風に、長い亜麻色の髪がなびく。
「どうしてここに……」
「死を喰らう男に会ったな?」
こちらの問いをさえぎり、イザベラは眼光鋭い目でにらみつけてくる。
「……知り合いなのか?」
ということは、死を喰らう男が言っていた『おっかない方』というのはイザベラのことだろうか?
イザベラは、警戒した様子で辺りを見渡していたが――あきらめたのか、肩をすくめ、
「昔に少し、な。……気にくわないヤツだよ。姑息で、ずる賢く、利用出来るものはすべて利用し……見ているだけで反吐が出る!」
勢いよく腕を一閃すると、触れてもいないのに、岩壁が巨大な爪に引き裂かれたかのようにえぐれる。
「…………!」
その力に息を呑み、言葉を失う。
イザベラはこちらに振り返ると、目を見据え、
「気をつけたまえ。ヤツは、心に深い傷、深い闇を持つ者の魂を好む。……そう、キミのような」
「俺……?」
意味がわからず戸惑うが、もうここに用はないのか、彼女はこちらに背を向け、
「喰われないよう、せいぜい気をつけるんだな」
「――待て! この小瓶はなんだ!?」
慌てて呼び止めると、ポケットから小瓶を取り出す。
「テケリに万病の薬だとか記憶が消えるとか言ったらしいけど、中身はただの灰だ。どういうつもりだ?」
「…………」
小瓶を突きつけると、イザベラは足を止め、
「もし……本当に記憶が消えてなくなるとしたら、キミならどうする?」
「…………」
「忘れたくとも忘れられない忌まわしい記憶。消してしまえるのなら、消してしまいたい……一瞬でも、考えなかったかね?」
「…………」
手を下ろし、背を向けたままのイザベラをにらみつける。
もし――本当に消えてしまうのなら――
「……まるで、俺のことをなんでも知っているみたいだな?」
口から出てきたのは、イザベラの問いとは関係のない言葉だった。
イザベラと二人で話をするのは初めてだが、まるでこちらの心をのぞき見されているような、妙な居心地の悪さを感じる。
イザベラは振り返り、笑みを浮かべると、
「フフッ……お察しの通り、その小瓶の中身はただの灰さ。そうでも言っておかないと、泣き止みそうになかったのでね」
「…………」
「だが、いい薬だったろう? 少しは効いたかね?」
「……ああ」
小さくうなずくと、イザベラは軽く手を挙げ、
「じゃあな。じきにお仲間が来るだろうが……キミは一足先に、山頂へ急いだほうがいい」
それだけ言い残すと、その姿は溶けるように消え去った。
◆ ◆ ◆
「キュゥッ! キュウゥッ!」
頬をつつかれ、耳元では甲高い声がする。
「っ……」
うっすらと目を開けると、まず、黄色が視界いっぱいに入る。
それがラビだと気づくのに、少々時間がかかった。
「…………?」
ようやく意識がはっきりし、まばたきを繰り返す。
「ここは……」
風が吹き、舞い上がった砂ボコリに目を閉じる。
ようやく連れ去られたことを思い出すが、ラビは根性でついてきたらしい。そういえばさらわれる直前、こちらの服に噛みついたことを思い出す。
体を起こし、服の裾を見ると、新品だというのにラビに噛まれた跡がくっきりと残っていた。
「まったく……仕方のないヤツだ」
「キュ?」
抱き上げ、頭をなでてやると、ラビは不思議そうに目をぱちくりさせる。
とにかく現状を把握しなくてはならない。
ラビを抱えて立ち上がると、辺りを見渡す。
ずいぶん広い場所のようだが、草木はほとんどなく、ゴツゴツした岩肌が剥き出しだった。空気が薄いのか、なんとなく息苦しい。
「どこなんだ……?」
まさか山の上だろうか? まだまだ上があるらしく、天へと続く岩壁がそびえ立っている。
風もひどく冷たい。意識を失っている間にすっかり体が冷えてしまい、ラビも寒いのか、腕の中で少しでも暖を取ろうとこちらの胸に顔を押しつけてくる。
ふらつく足取りで、崖へと近づく。
「――――!」
吹き上げる風に、一瞬目を閉じ――ゆっくり開けると、見たことのない光景が広がっていた。
「これは……すごいな」
「キュッ!」
寒さも忘れて、その光景に魅入る。
遠くまで、森が大地に敷かれた緑のじゅうたんのように広がり、深いコバルトブルーの海と、その色によく似た空が、地平線の彼方まで色鮮やかにはっきりと見える。
船の中からも海は見たが、あくまで窓越しだ。ここは余計な障害物がなく、空がどこまでも、果てしなく続いているようだった。
「…………」
「キュ?」
腕の中のラビが、不思議そうにこちらを見上げるが、無視して空を見上げる。
今日は天気がよく、青い空を、雲がゆったりと流れている。
――違う……
自分でも、何が違うのかはわからない。
だが、自分が探している空とは、何かが違うような気がした。
「――キィッ!」
突然ラビが腕をすり抜け、足下で、警戒するように全身の毛を逆立てる。
「――景色は堪能したか?」
「――――!?」
振り返ると、いつの間にやってきたのか、見覚えのある青い髪の女が立っていた。
「ルサ!?」
ロアで会って以来だが、彼女は淡々とした口調で、
「ようこそ、バストゥーク山へ」
「……バストゥーク山?」
言われて初めて、自分がどこへ連れてこられたのか理解する。
振り返り、今度は遠くの景色ではなく崖の真下に目を向けると、終わりがないのではないかというくらいの断崖絶壁に、足がすくみ上がる。こんな所から落ちたら、人間の体など粉々だ。
「なかなかいい景色だろう? 気に入ったか?」
慌てて崖から離れ、再びルサに目をやると、彼女は風に青い髪をなびかせ、ゆっくりとこちらに歩み寄る。手にはあの黒い杖を握り、風に教団の白い法衣がはためく。
ルサの登場に、ふと、
「まさか、さっきのヤツは……」
「フン。まさか、こんな簡単に捕まるとは思わなかったぞ」
――こ、この女……
こめかみが引きつるものの、必死でこらえ、
「それで、わざわざこんな所まで、なんの用だ?」
「…………」
ひときわ強い風が吹くが、ルサは髪を押さえることなく、杖をこちらに突きつけると、
「単純な用事だ。どちらが強いか、勝負だ!」
「――――!?」
とっさに後ろに一歩下がると、すぐ足下にイビルゲートが突き刺さった。
「くっ……!?」
「キュゥッ!」
危うく崖から落ちるところだったが、膝をついてなんとかこらえると、息をつく暇もなく、先を行くラビの後を追って走り出す。
「どうした!? 逃げるだけか!?」
ルサは立て続けにイビルゲートを放ち、そのうちの一つが足下に突き刺さり、衝撃で転倒する。
「キィッ!」
ラビがこちらをかばうように前に飛び出し、そこにイビルゲートが飛んできた。
「――――!」
――砕けろ!
ラビに直撃する寸前に、イビルゲートが砕け散る。うまくいった。
「キュ?」
驚くラビを拾い上げると、一目散に駆け出す。少し前まで立ち上がることも出来なかったのに、この緊急事態に足はそんなことを忘れてくれたらしい。
「チッ。逃げられると思うな!」
今度はダークフォースの黒い矢が大量に飛んでくるが、よけきれないと判断すると、その場で足を止め、ありったけの力で結界を張る。
「…………!」
二本、三本とはじくが、四本目、五本目が結界を貫通し――六本目で、とうとう結界が砕け、相殺しきれなかった闇の波動が容赦なく降り注ぐ。
「――――っ!」
耐えきれずにその場に膝をつき、肩で荒い息を繰り返す。
「……どうした? その程度か?」
ルサは攻撃の手を止め、こちらを見下ろし、怒りのこもった声で、
「ロアで私を退けたのは、ただの偶然か?」
「――キィッ!」
こちらの腕の中をすり抜け、ラビが全身の毛を逆立て、ルサに向かって健気に威嚇するが――かえって、自分が惨めな気分になるだけだった。
そう。この程度だ。
魔力が戻ったところで、自分は戦い方など知らない。
ひとたび戦いの場に身を投じれば、防戦一方どころか、防戦すら出来ない。
あげく、ラビにかばわれてしまうなど……
「…………」
今なお、ルサに威嚇するラビに目をやると、
「……もういい。逃げろ」
「キュ?」
今度はルサに目をやると、
「おい。お前の狙いは、風のマナストーンだな?」
「…………」
ルサは無言だったが、否定もしなかった。
「私の命をくれてやる。アナイスのたくらみも、私にとってはどうでもいい。……だが、弟には手を出すな」
「…………」
ルサは相変わらず無言のままだったが――こちらに背を向けると、下へと続く道に目をやり、
「……あいにく、誰であろうと、邪魔する者は排除する」
「…………?」
膝に乗ってきたラビを抱えて立ち上がると、誰かがやってくるのが見えた。
「――ロジェ!?」
向こうもこちらに気づき、剣を抜くと、
「兄さ――」
「邪魔だ!」
ルサが杖を振るい、容赦なくイビルゲートを放つ。
ロジェはとっさに横に飛んでかわすが、立て続けに、ダークフォースの黒い矢が出現する。
「――――!」
ラビから手を放すと、ほとんど無意識に駆け出し――術が放たれる寸前、ルサに背後から抱きつく。驚いた拍子に、出現した黒い矢が消滅する。
「くっ!?」
「ロジェ! 早く……!」
原始的な方法ではあったが、今の自分にはこれが精一杯だった。
これで後は――
「兄さん!? よせ!」
「さっさと斬れ! 私ごと……早く!」
「コイツ……!」
ルサが振りほどこうと暴れるが、こちらも放すまいと必死でしがみつく。
しかし――ロジェは抜き身の剣を片手に、動こうとしない。
「ロジェ、何をやって――」
その時になって、動かないのではなく、動けないのだと気づく。
ルサも暴れるのをやめ、
「どうやら、これまでのようだな」
勝ち誇った声でつぶやく。
いつの間にか、ロジェの首に剣が突きつけられていた。ロジェも剣を片手に、ぽかんと突っ立っている。
「――動かないで。そのまま、ゆっくり離れなさい」
女の声だった。ロジェの真後ろに立ち、こちらからは姿が見えない。
状況を呑み込めないでいると、ルサがこちらを突き飛ばし、杖を突きつける。
「フン……こしゃくなマネを。こんなヤツに、一度してやられたのかと思うと、情けなくて腹が立つ」
「やめろ!」
ロジェが剣を捨て、声を上げる。
ルサはロジェを一瞥するが――杖を突きつけたまま、再びこちらに目をやる。
「――やめて。わたし達の目的はマナストーンよ」
「…………?」
てっきり、このまま殺されるのかと思ったが――出てきたのは、意外なことに制止の言葉だった。
ルサはしばらく、こちらと、ロジェの後ろの女を見比べていたが――舌打ちすると、杖を引っ込め、こちらから離れる。
それと同時に、ロジェに突きつけられていた剣も下ろされ、剣の主がようやく姿を現した。
「――――!?」
その姿に、目を見開く。
現れたのは、青い髪を結い、白い軽鎧で武装した女だったが――
その女と、女の隣に立ったルサ、何度も顔を見比べる。
女は剣を鞘にしまい、
「どうしたの? そんなに双子が珍しいかしら?」
格好は違えども、まったく同じ顔――
「……双子……?」
呆然と、つぶやいた。