「……隊長はどう思う?」
「何がです? ――あ、ちょっとスパナ取ってください」
振り返りもせず手を差し出すユリエルに、ジェレミアはスパナを手渡す。
やはりこれまでの無理が祟ったのだろう。ナイトソウルズのエンジンは熱で焦げ、パーツもいくつか壊れていた。
壊れたパーツは交換し、切れていた配線もつなげ直したものの、専門家でない自分達には限界がある。
状態を一通り確認した後、ロジェとキュカは技師を探しに町へ戻ったが、期待出来ないだろう。
期待出来ないので――ジェレミアは代わりに、
「レニのことだ。あいつは一体なんなんだ?」
溜まりに溜まった不満を、ユリエル相手にぶつける。
「ペダンを守ることが役目だったはずなのに、その役目を放棄して……その結果があれだ。見ててイライラする」
ユリエルはいったん手を止め、苦笑いを浮かべると、
「ジェレミアは、彼のことが相当気に入らないようですね?」
「…………」
はっきり言ってその通りだった。
昨日もそうだが、自分でもわかるくらいきつく当たってしまう。事情を知らないエリスやニキータには、きっと嫌なヤツだと思われているだろう。
ユリエルにこんな話をしていいのか、一瞬迷ったが――いずれ、しなくてはならない話だ。
「……バジリオスは叔父上に何もしていないと言ってはいたが、バジリオスが知らないだけで、ヤツやアナイスが何か仕組んだかもしれない。もしそうだとしたら――」
「彼は何もしていないと思いますよ」
こちらに最後まで言わせることなく、口を挟む。
「……勘ですけどね。アナイス様までは知りません」
「どうしてそう思うんだ?」
ユリエルは緩んでいたボルトを閉め直しながら、
「これまで見てきた限り、彼は、本来温厚な人間のようです。戦うことはおろか、足下にすり寄ってきたラビを蹴り飛ばすことも出来ない。人並みの感情も持ち合わせている。……特別でもなんでもありません」
「…………」
たしかに、それは自分も感じた。
最初のうちこそ、ペダンを滅ぼした張本人と憎悪すら抱いていたものの――共に行動するうちに、今度は別の感情がわいてきた。
本当に、彼が国ひとつ滅ぼしたのだろうか? と。
訓練でどんなにいい成績を修めた兵士でも、いざ実戦の場に放り出されると、恐怖でまるで動けないなどよくあることだ。昨日のレニは、それとまったく同じ――普通だった。
ラビがすり寄ってくればなでてやるし、子供が泣き出せばあやすくらいはする。
……戦争を起こすのは、人と違う何かを持った人間か、もしくは、人より何かが欠けた――『異常』な人間だと思っていた。
なのに、知れば知るほど、信じられない気持ちと、言いようのない悔しさがわいてくる。
「アニスの鏡で狂わされていたからとでも? あたし達が戦ったのは、ヤツとは別の誰かだったって言うのか?」
「そうは言っていません。……誰もが、彼と同じ可能性を持っていると言っているんです」
「…………?」
目をぱちくりさせると、ユリエルは他のボルトも緩みがないか確認しながら、
「人の心にアニスはいる……『きっかけ』さえあれば、私やジェレミアでも彼と同じことが出来るということです。あそこまで規模が大きい必要はありません。きっかけと手段さえあれば、その辺りの通行人を見境なしに傷つけ、殺すことが出来る。隣で談笑している相手を殺すことが出来る。皆、しないだけで、出来ないわけではないんです」
「…………」
一瞬、意味がわからなかったが――その意味を理解するにつれ、背筋に寒気が走る。
「ば、馬鹿馬鹿しい! なんでそんな――」
「事実、ペダン兵はそれをしました。一人一人はおとなしかったり、温厚な者でさえも、『命令』を『きっかけ』に、無抵抗な民間人を虐殺しました。恨みも何もない、自分達とはまったく面識のない相手を、です」
脳裏に、炎に包まれたミントスがよぎる。
あのときのペダン兵達は、女子供見境なく殺し、まるでケダモノのようだった。
しかし――もし、自分があの偵察作戦に駆り出されず、一ペダン兵として戦場に送り込まれていたら――もし、ロジェという『きっかけ』がなければ、どうしていただろう?
反逆者と呼ばれる覚悟で、ペダンと戦えただろうか?
……そこまで考えて、ため息をつくと、
「隊長は、ずいぶんあいつの肩を持つんだな?」
「別に肩を持つつもりはありません。ただ、責める権利がないだけです」
「…………?」
「セシリアも、そうでしたから」
「…………」
お互い、それ以上は何も言わず、しばらくの間金属音だけが響き、ジェレミアも他に切れた配線がないか確認する
「……ジェレミア」
「……なんだ?」
振り返ることなく返事すると、彼はぽつりと、
「もう少し……もう少し、待ってみましょう」
「…………」
特に返事はしなかったが、それからロジェ達が戻るまでの間、黙々と作業を続けた。
◆ ◆ ◆
「もう起きて大丈夫なのか?」
振り返ると、全身包帯まみれの女が立っていた。
「…………」
「テセニーゼだ。……キミ、治療してやった医者に対して、なんだその態度は」
「テセニーゼ……お前が?」
いぶかしがりつつも、隠れたテーブルの下からラビと一緒に顔を出す。
テセニーゼはため息をつくと、
「会う時はいつも眠っていたからな……別に捕って食いはしない。座れ」
「…………」
その言葉に安心したわけではないが、ラビを抱えてイスに座り直す。こちらも聞きたいことがある。
「ここが気に入ったようだな?」
「…………」
目が覚めた後、特別用もないのにこのテラスに来て、ずっとバストゥーク山を眺めていたのだが――気が付くと西の空は赤くなり、バストゥーク山が黒い影となりつつあった。
自分でもよくわからなかったが、まるで、この光景を脳裏に焼き付けようとしているみたいだ。
「…………」
「…………」
しばらく、無言のまま山を眺めていたが――ぽつりと、
「薬を作ったと聞いたが……薬で治るようなものなのか?」
「…………」
「答えろ。これはなんなんだ?」
立ち上がると、その拍子にラビが転がり落ちたが、かまわず服の前をはだけ、右肩を見せる。
「確かに熱は下がったが、皮膚は変色して、肩の妙な模様も消えない。この模様……邪精霊の体の模様にそっくりだ」
右肩――ちょうど、タナトスの爪にやられた辺りが青く変色し、不気味な黒い模様が浮かび上がっていた。
昨日、風呂の時に気づいたが、その時よりも色が濃くなっているような気がする。
お互い、しばらく黙っていたが――やがて、
「タナトス化」
テセニーゼは近くのイスに腰を下ろすと、淡々と、
「私が治療したのは高熱と毒だけだ。タナトスそのものではない」
「…………」
服を直し、自分もイスに座る。
「一度、人に取り憑いたタナトスは決して消えない。一時的に回復しても、タナトスは再び毒を吐きだし、じわじわと蝕んでいく。皆、その苦しみに耐えきれず、長くても半年……いや、三月(みつき)と保たずして、タナトスと化した」
――三月――
「私も……そうなるのか?」
「わからない」
目を伏せ、首を横に振る。
「ひとつ言えるのは、あれは体だけではなく、心を蝕むもの。邪精霊と化した者達に共通していたのは、心に深い傷を負っていたということ……その傷口に入り込み、心を蝕む」
冷たい風が吹く。
しばらくして、
「聞かないのかね?」
「……何を?」
テセニーゼは首を傾げ、
「『どうにかならないのか』と」
「…………」
しばらくの間、無言でバストゥーク山を眺める。
「……三月も保たなかったのだろう?」
「ああ」
「なら、問いつめるだけ無駄だ」
「そうか」
それだけ言うと、テセニーゼはその場を立ち去る。
「…………」
「キュゥ……」
見下ろすと、足下のラビが不安げな顔でこちらを見上げていた。
それを抱き上げると、
「……戻ろう」
立ち上がると、ちょうどドアが開き、エリスが姿を現した。
「どう? 具合は」
「……悪くない」
一応そう返す。
テセニーゼとほとんど入れ違いに現れたエリスに、さっきの話を聞かれたのではないかと一瞬疑ったが――彼女は笑顔で、
「あんた、カートとコートニーに感謝しなさいよ?」
「?」
一瞬、意味がわからなかったが、エリスはすぐに、
「あの二人、あんたのために薬草探しに行ってたのよ」
「薬草?」
言われて、コートニーが花の入ったカゴを落としたことを思い出す。
その後、二人は――
「それがなかったら、もしかすると間に合わなかったかもしれないのよ? ホント、感謝しなきゃね」
「…………」
「それにしても昨日は大変だったわよね」
エリスはこちらの前を横切り、手すりに寄りかかり、
「ホラ、あんたさらわれたり、でっかい鳥に襲われたり。ジェレミアなんか『おとぎ話の姫様か!』って怒ってたわよ?」
「…………」
「にしても、ジェレミアもひどいわよね。もうちょっと心配してもよさそうなのに、戦えー! なんて」
「……仕方ないだろう」
魔法使いが一人しかいないのだから、あの状況では自分が戦うしかない。
それにジェレミアにしてみれば、自分は――
「まあ、そうだけど、もうちょっと言い方ってのがあるじゃない。みんな無事だったから良かったけど、ニキータもあんたが熱出して帰ってきたもんだから、心配してたわよ?」
「…………」
「…………」
話のネタが尽きたのか、エリスはぎこちない笑みを浮かべ、視線をさ迷わせ――気まずい沈黙が流れる。
部屋に戻ろうと足を踏み出そうとした瞬間、
「聖剣……」
その言葉に、足を止める。
エリスはこちらに振り返ると、
「もしかすると、伝説の聖剣なら……取り憑いたタナトスを切り離すことが出来るんじゃないかしら?」
「…………」
――聞いていたか……
ため息をつくと、エリスに背を向け、
「……馬鹿馬鹿しい。そんなまやかしの剣に頼るなど……」
しかしエリスは、こちらの前に回り込み、
「でも、このままじゃあんた――」
「聖剣は、世界の危機を回避するために存在するもの」
エリスの言葉を途中でさえぎる。
「くだらん私欲のために、それを求めろと? 女神の剣も、ずいぶん安く見られたものだな」
「くだらんって……」
エリスは一瞬言葉をなくしたようだが、やがて、
「あんた、それでいいの?」
「…………」
「…………」
しばらく、エリスとにらみ合いになるが――
「……仕方のないことだ」
立ちつくすエリスを横切ると、振り返りもせず、
「さぞかし……おぞましい化け物になるんだろうな」
それだけ言うと、テラスを後にした。
「…………」
冷たい風が吹き、長い銀髪がたなびく。
「……なによ。ホントは怖いくせに……」
誰もいなくなったテラスで、エリスはぽつりとつぶやく。
わかっている。女神なんてアテにならない。
女神にすがり、泣きついたところで、時間が無情に流れるだけで、何も変わりはしない――
わかっているのに、自分の力ではどうにもならない出来事に直面すると、すがらずにはいられない。
「――ぅおっと!?」
「!?」
突然、背後に気配が現れ、驚いて振り返ると――見覚えのあるヘンな黒い生き物と、人形のような少女の姿があった。
「ベル!?」
「えへへ……ど~もぉ~」
はにかんだ笑みを浮かべ、ベルはずれた帽子を直す。
「あんた、なんで……」
てっきり、もう会うことはないと思っていた。
ベルもそのつもりだったようだが、彼女は乗っていたバクの背を叩き、
「どうやらバクちゃん、エリスちゃんの歌が気に入ったみたいで、また聞きたいってしつこいんですぅ~」
「歌? わたしの?」
「――オイラも聞きたいダス~!」
小さな竜巻が現れ、ジンが姿を現す。
「サラマンダー達から聞いたダス。エリスさん、歌がうまいって。歌ってほしいダス~」
おねだりするように、周囲を飛び回る。
「そう? ……かわいいこと言ってくれるじゃない」
ただの歌なのに。
こんなことで喜んでもらえるなら、悪い気はしない。
ジンは手すりに腰を下ろすと、辺りに心地よい風を吹かせ、こちらもイスに座ると、一度深呼吸をし――この前と同じ歌を歌った。
◆ ◆ ◆
「…………」
すっかり暗くなった部屋に戻ると、明かりもつけずにベッドに突っ伏す。
――長くても半年……いや、三月と保たずして、タナトスと化した――
「長くて三月、か……」
逆を言うと、短かければ数日かもしれない。
うつぶせに寝そべったまま、左手で右肩を押さえる。
痛みも何も感じないのに、確かに、いる。
「フフッ……ハハハ……」
腹の奥底から、自然と笑いがこみ上げてくる。
……元よりアニスに呪われた身。単に、それが目に見える形で現れただけのこと。
今さら、何を恐れる。
「――キュッ! キュゥッ!」
顔を横に向けると、ラビが耳をぱたぱた振りながら、窓際のテーブルの上でくるくる回っていた。
ラビはテーブルから飛び降りると、部屋の中をぴょんぴょん跳び回り、自分に注意を向けようと何度もこちらに振り返り、愛嬌を振りまく。
「キュッ! キュィ~ッ!」
「…………」
「キュゥ……」
しばらくして、ラビは跳び回るのをやめ、振っていた耳を力なく下ろす。
「――レニさん。起きてるでありますか?」
ドアが叩かれ、テケリの声がした。
「……なんの用だ?」
ドアが開き、器の載ったトレーを手に、テケリが入ってくる。
「おなかすいてないでありますか? ちょっと早いでありますけど、晩ゴハン持ってきたであります!」
そう言うとテーブルにトレーを置き、ロウソクに明かりを灯す。
夕食と言っても、病人ということを考慮して、お湯のように薄いスープと、今回はそれにパンがついていた。焼きたてらしく、かすかに香ばしい匂いが漂っている
「テケリもお手伝いしたであります! 冷めないうちにと思って」
「…………」
言われてみると、確かにパンの形が少しいびつだ。
余計な気遣いだと思ったが――それは口にせず、体を起こすと、
「……テケリ。少し、ラビと遊んでやってくれ」
「?」
足下に寄ってきたラビを抱き上げると、
「この所、私につきっきりだ。気分転換に、どこかで遊んでやってくれ」
「キュ?」
そのまま、有無を言わさずテケリに押しつける。
「それはいいでありますけど……レニさん?」
「…………」
テケリはこちらの顔をのぞき込もうとするが、それから逃れるように、窓の外に目をやる。
空は、いつの間にかあかね色から藍色へと変化しつつあった。
窓越しに、その空をぼんやり眺めながら、
「……しばらく、一人にしてくれ」
「…………」
テケリは少し戸惑ったようだが、
「……じゃあ、ちゃんと食べるでありますよ? テケリ、がんばって作ったであります」
「ああ」
テケリはそれだけ言うと、ラビを抱えて部屋を出て行く。
足音が遠ざかっていくのを聞きながら、立ち上がり、窓の外を見下ろす。
植え込みに背の低い木が植えられており、人通りもない。この部屋の下には窓がないので、気づかれることもない。
スープの器を手に取ると、窓の鍵をはずす。
「――――!」
鍵をはずしたとたん、窓が勢いよく開き、吹きすさぶ風にロウソクの火が消え、カーテンも大きくはためく。
たまらず器をテーブルに戻し、窓を閉めようとするが――
「…………?」
ふと、手を止める。
どうやらさっきの強風は一瞬だったらしく、いつの間にか、風は穏やかになっていた。
その風に乗って――何か聞こえた。
窓から少し身を乗り出し、耳を澄ませると、歌声が聞こえてきた。
――この……歌……
どこかで聞いたような気がする。
ゆっくり後ろに下がり――すとんっ、と、ベッドに座る。
窓から離れたにもかかわらず、風に乗って、歌声はなおも聞こえた。
誰が歌っているのかはわからない。
わからないのに、知っている。
最近ではない。ずっと昔――それこそ、生まれる前から知っているような気がする。
「…………っ!」
突然、背筋に寒気が走り、自分で自分の体を抱きしめる。
長くて、三月。
三月もすれば、自分は――
突然、体がガタガタ震え出し、止めようと意識しても、止まらない。
「っ……ぅぁっ……!」
口から嗚咽が漏れ、目の奥が熱くなる。
わけがわからない。
わからないが――まるで、これまで堪えてきた壁が決壊するかのように、押さえられていたものが、目から一気にあふれ出した。
◇ ◇ ◇
船の修理を終え、宿に戻ってきた頃には、辺りはすっかり薄暗くなっていた。
戻ったら兄の様子を見に行こうと思っていたのだが、ちょうどすれ違ったテケリに、しばらく一人にしてほしいと聞き――なぜかホッとしている自分に、妙な違和感を感じた。
「…………」
ロジェは一人で三階の部屋に戻り、窓を開けると、ぼんやりと町を眺める。
――忘れたくとも忘れられない忌まわしい記憶。消してしまえるのなら、消してしまいたい――
「…………」
無言のまま、ポケットからあの小瓶を取り出す。
中身は、ただの灰だ。
灰だとわかっているのに――
ふと、視線を下の通りにやると、昨日見かけた白い猫がこちらを見上げていた。
猫はこちらの視線に気づくと、そっぽを向き、その場から立ち去る。近所で飼っている猫だろうか?
「…………?」
風が吹く。
その風に乗って、何か聞こえてきた。
身を乗り出し耳を澄ませると、少しずつ、はっきり聞き取れるようになった。
「……歌?」
誰が歌っているのだろう。
不思議と、懐かしい気分だった。
初めて聞く歌なのに、ずっと昔から――それこそ、生まれる前から知っているような気がする。
……それからしばらくの間、歌が終わるまでその場に立ちつくし――
小瓶を、ポケットに戻した。
◆ ◆ ◆
「…………」
ベッドにうつぶせに倒れたまま顔を上げると、部屋の中はもう真っ暗だった。
……歌はもう聞こえない。涙も枯れ果てた。
開けっ放しになった窓から吹き込む風がカーテンを揺らし、月明かりがテーブル周辺をわずかに照らしている。
長くて、三月。
ずっと、死を望んでいた。
望んでいたのに――漠然としていた死の気配が、現実のものと化した。ご丁寧なことに、具体的な数字つきだ。
「…………」
起きあがり、テーブルに目をやると、放置されていたスープとパンが視界に入った。
ほとんど味がなくて半分も飲めず、今日の昼に出された分は、こっそり窓から捨てた。
スプーンを手に取ると、一口、口に運ぶ。
すっかり冷め、スープ自体も昨日と同じ薄いものだったが、ここ数年食べた中で、一番おいしいような気がした。
「あ、レニさん。テセニーゼ先生がテラスでお待ちですにゃ」
「テセニーゼが?」
部屋に顔を出したニキータの言葉に、荷物整理をする手を止める。
船の修理が終わったらしく、宿を引き払う準備をしていた時のことだった。
ニキータは耳元でボソッ、と、
「……たぶん、治療費の話じゃにゃいかと」
「……治療費?」
一瞬意味がわからなかったが、ニキータはまるで『ここだけの話』と言わんばかりに声を潜め、
「テセニーゼ先生の治療費は高額で有名ですにゃ。ウワサじゃ、払えなかったら体で払わせる(※人体実験)とかにゃんとか……」
「なぜそんな医者を紹介したんだお前は……」
ニキータのヒゲを左右にぐいーっ、と引っ張ると、ニキータは慌てて、
「あ! いや、あくまでウワサですにゃウワサ! お金だって払えれば万事オーケィにゃわけですし!」
「――自分の治療費は自分でちゃんと払ってくださいね。足りなかったら借金という形で貸してあげてもいいですが」
「……お前からは意地でも借りん」
ニキータの後ろから現れたユリエルが、サイフ片手にそんなことを言うが、頭の中はすでに手持ちの金のことを考えていた。
ユリエルはサイフをしまいながら、
「これに懲りたら、今後、健康管理はしっかりするように。以上です」
「…………」
それだけ言うと、ユリエルはニキータと共に部屋を後にし――自分は、サイフの中身をチェックする。
「治療費……」
「キュ?」
足下のラビが、不思議そうに体を傾ける。
考えてみれば、医者も生活がかかっている。そうなれば当然、金を取るわけで……
――病気も金がかかるのか……
これまで、病気をしたところで専属の医者が嫌でも勝手に診てくれたので、病気が出費になるなど考えたこともなかった。
ため息をつくと、ラビを連れてテラスへ向かう。
「――おい」
途中の廊下でジェレミアに呼び止められ、足を止める。
「な、なんだ?」
なぜか背筋に緊張が走り、嫌な汗が噴き出す。
ジェレミアは、こちらを眼光鋭くにらみつけていたが――ぼそりと、
「……体は、もういいのか?」
「は?」
「体はもういいのか?」
イラついた声で、同じ質問を繰り返す。
「あ……ああ。もう……大丈夫、だ」
「なら、いい」
そう言い捨てると背を向け、さっさと立ち去る。
――なんなんだ? 一体……
なんとなく、いつかの獣人の少女のことを思い出す。
首を傾げつつテラスに入ると、テセニーゼがこちらに背を向け、バストゥーク山を見ていた。他には誰もいないようだ。
テセニーゼは振り返るなり、
「これを渡しておく」
そう言って、小さな紙袋を差し出す。
中を見ると、薬品臭のする数個の包帯とメモのようなものが入っていた。
メモを手に取り広げてみると、どうやら薬のレシピらしい。
「これは?」
とりあえず聞いてみると、テセニーゼは淡々と、
「タナトスに冒された者は、三月と保たなかったと言ったが……手段がないわけではない」
「…………?」
怪訝な顔をすると、テセニーゼは袋に目をやり、
「薬で毒を抑え、さらにその魔法処理を施した包帯を皮膚の変色した箇所に巻いておけば、浸食を少しは抑えられる。研究の末にたどり着いた方法だ」
「…………」
無言で、薬のレシピを袋の中に戻し――そのまま、テセニーゼに突き返す。
「……いらない」
「なに?」
テセニーゼは目を丸くしたが、こちらは紙袋を突き出したまま、
「単に、タナトス化を遅らせるだけ……根本的な解決にはならない」
「…………」
「私は、そこまでして生きながらえるつもりもない」
「…………」
しばらくの間、無言でにらみ合うが――やがて、テセニーゼはため息をつくと、
「……わかった。治療費はいらん」
「なに?」
今度は、こちらが目を丸くする。
「私は、私が治した患者からしか金を受け取らん。……私はキミを治せなかった」
「…………」
それだけ言うと紙袋を受け取り、帰ろうとするが、
「……なぜだろうな。キミは、タナトスにはならないような気がするよ」
足を止めると、こちらに振り返る。
「仲良くしてやれ。でないと――私のようになってしまうぞ?」
言うと、顔半分を覆っていた包帯をずり下ろす。
包帯の下に隠れていたのは、邪精霊と同じ、不気味なあの模様だった。
テセニーゼが去った後も、しばらくテラスに止まり、バストゥーク山を眺める。
……本当に、突き返して良かったのだろうか。
せめて、薬のレシピくらい受け取っても……
「…………」
――良かったんだ。これで――
胸に手をやり――指輪と、もう一つ、そこにあるはずの感触がないことに気づく。
「そうだ、鏡……」
先日の騒ぎのせいで、幻想の鏡のことをあやうく忘れるところだった。
テラスを出ようと振り返ると、ちょうどキュカが姿を現す。
「いたいた。ホレ、お前の服に入ってた」
そう言うなり、一枚の古ぼけた鏡を差し出す。
「……お前が持っていたのか……」
間違いなく、探していた幻想の鏡だった。てっきり、ロジェかニキータあたりが持っていると思っていたのだが……
こちらが鏡を受け取ると、キュカも鏡に目をやり、
「ずいぶん古い鏡だな?」
「…………」
鏡面に視線を落とすと、自分の顔が映る。
鏡に映るその姿は、少し強い風が吹けば吹っ飛ぶのではないかと自分でも思うくらい、痩せこけていた。
それを眺めながら、
「いつ作られたものなのか、なんのために作られたものなのかは知らないが、代々受け継がれてきたものらしい」
「ふぅん……お守りみたいなもんか?」
「お守り?」
キュカの言葉に、目をぱちくりさせる。
鏡はただの鏡だ。そんなこと、考えたこともなかったが、
「……そうだな。そんなものだ」
つぶやき、あらためて鏡に視線を落とす。
よく見ると、かなり古い鏡のはずなのに、その鏡面には年月による傷も曇りもない。
それだけで、大事にされてきたものだとわかるのに――どうして、今まで気づかなかったのだろう。
「しっかしまあ、またバストゥーク山を拝めるとはな。それも古代の」
顔を上げると、キュカはこちらを横切り、手すりに寄りかって山に目を向けていた。どことなく、懐かしいものを見るような目だ。
そういえば、キュカはたしか――
「……お前はローラントの出身らしいな」
ふと、そんなことを思い出す。
キュカは山に目を向けたまま、
「ああ……本当なら、二度と帰るつもりも、帰れるとも思ってなかった。昔、俺のせいで、うまく行きかけてたナバールとの外交を完璧に破談させちまったし」
「破談?」
「ナバールの首領の弟を殺した」
「…………」
――追放されたか。
たしかローラントとナバールは、長い間、国境付近で小競り合いが起こっていたはずだ。
そんな二つの国のリーダー達が、同じ席につくまで話を持っていくとなると、相当な苦労をしたのは容易に想像がつく。
それが、たった一人の行いで破談。
キュカが、理由もなくそんなことをするとは思えない。それ相応の理由があったのだろうが――なるほど、ローラント側としては、キュカを追放せざるを得なかったのだろう。
むしろ、その場でキュカの命をもってして、ナバールの首領に謝罪することも出来たはずなのに、それをしなかったのは寛大な判断と言ってもいい。むしろ、甘すぎる。
とはいえ、
「……帰ればよかったんじゃないのか? ローラントの族長も、ナバールの首領も死んだはずだ」
「族長やオウルビークスが死んだからって、帰っていい理由にゃならねーだろ」
意外と即答だった。
「むしろ、オウルビークスがペダンと組んで戦う道を選んだのも、弟殺された恨みがあったのかもな。そして、あの戦いで族長が殺された。……その原因作った俺が、どのツラ下げて帰れるってんだ」
「…………」
――どのツラ下げて……
なんとなく、幻想の鏡に視線を落とす。
どんなに鏡を見た所で、さっきと何か違いがあるわけでもないのに。
ぼんやりと、鏡に映る自分の顔を眺めながら、
「……キュカ。お前にとって、ペダンはどんな国だった?」
「あん?」
キュカは、突然の問いに不思議そうな顔をして振り返ったが、特に深く追求することもなく、頭をがしがしかきながら、
「どんなって言われてもなぁ……二年くらいしかいなかったしな」
「やはり、ローラントのほうがいいのか?」
「そりゃあ、なんだかんだ言っても生まれ故郷が一番だろ」
あっさり肯定する。
「……隣の芝生は青いっつーか、ローラントを出るまでは、もっといい国があるんじゃないかって外ばかりに目が行くが、いざ離れてみると、今度は故郷に目が行っちまう。無意識に比べちまうんだ」
「なぜペダンに来たんだ?」
なんとなく聞いてみると、キュカはしれっ、と、
「船着き場でたまたまペダン行きの船を見つけた。で、『おー、そんな国あるのかー』と思ってテキトーに乗った」
「…………」
身もなければ蓋もなかった。
「でもまあ、なんだかんだで、これまでで一番長く居着いちまった。不思議と、出て行こうとか、そんな考えがわいてこなくてな」
「…………」
「…………」
それきり、お互い言うこともなく、ぼんやりと山を眺める。
……小さな島国だ。
特別、他国と関わりがあったわけでもない。それどころか、あの戦いが起こるまで、その名を知らない者のほうがきっと多かっただろう。
しばらくして――ぽつりと、
「あの戦いで……他国の連中は、ペダンが滅びてせいせいしているだろうな」
そして長い歴史の中で、忌まわしい、いにしえの都として語られ――いつかは忘れ去られる。
なにもかも、最初から存在しなかったかのように。
しばらくの間、キュカは山に目を向けていたが――体重をかけていた手すりから体を離すと、
「他の国がどう思ってるかは知らんが……少なくとも俺は、ペダンはそんなに嫌いじゃなかったぜ」
「……そうか」
それ以上は特に話すようなこともなく、キュカはテラスを後にし――それを見送ると、幻想の鏡に視線を落とす。
このまま消えてしまいたいのに、鏡はここにいる自分の姿をはっきりと映し出す。
――真実を映す鏡、か。
「――それ、なんダスか?」
風が吹き、ジンが姿を現す。
「……大切なもの、だ」
胸に当てると、不思議と気分が落ち着くのが自分でもわかる。
鏡を懐にしまい、ふと見上げると、晴れ渡った青い空が見えた。
長くて、三月。
それだけで、何が出来るのかはわからない。
わからないが――
「行くぞ」
「はいダスー」
ジンはひとつうなずくと、その姿は一瞬で消え去り、心地よい風を吹かせた。