14.明日への力 - 5/5

 町に来ると、僧兵の姿はすっかり消えていた。
 その代わりに聞こえてくるのは、家族を亡くした者達の嗚咽だった。
 燃えたのは町の一部だけで済んだとはいえ、どこに行っても焦げた臭いが鼻をつく。
 火災から丸一日経ったものの、住み家を失った者は途方に暮れた様子で町中をうろつき、日陰に行くと地面がまだ濡れていた。
 ……火を消したことにより、確かにすべて焼け落ちずに済んだ。だが、それだけだ。
 所詮、自分はただの通りすがり。ここから先のことに関しては、何も出来ない。やりっぱなしで、後片づけは人任せにして――通り過ぎていくだけだ。
 始めたからには、手を出したからには、後片づけまでやるべきなのにそれをしない。本当の無責任とは、こういうことを言うのかもしれない。
 教会の跡地に来ると、ここも完全に炭化して崩れ落ちていた。ここが教会だったと気づくのに、少し時間がかかったくらいだ。
「本も全部燃え尽きたか……」
 レニはぽつりとつぶやき、勘を頼りに図書室の辺りに来ると、ガレキの中に水を吸った本が一冊落ちていた。拾い上げると、ボロボロと崩れて原型を失う。
「…………」
 ある意味、これで良かったのかもしれない。
 どんな書物を保管していたのかは知らないが、読まれて困る本など、燃えてしまえばいい。
 ミラージュパレスも……いっそのこと、燃やしてしまえばよかったかもしれない。

「いいかい? この扉の向こうには危険な書物が保管されている」
 書庫のさらに奥――常に厳重に封じられている黒い鉄扉を前に、隣に立つ父は淡々と、
「不死や呪い、中には死霊を操るようなものもある。……大半は、私達の先祖が研究した末に生み出した呪術だ」
「私達の先祖が、そんなことを?」
 中にあるものが禁書だということは知っていたが、その内容や、誰が書いた本なのかは、この時初めて知った。
 隣の父に目をやると、相変わらず扉に視線を向けたまま、
「伝え聞いた話では、禁呪に手を出した者は、呪いが成就しようがしなかろうが、皆、ロクな死に方をしなかったそうだ。何かを恨み、呪いながら生きるというのは、そういうことなのかもしれないね」
「そんな危険なもの、焼いてしまうべきです。なぜ保管しておくのです?」
 すなわち、災いの種だ。
 どんなに厳重に封印しようとも、存在する限り、いつかは芽吹く。
 自分はしごくもっともなことを言ったつもりなのだが、父はしばらく黙り込み――ため息をつくと、自嘲(じちょう)じみた面持ちで、
「……お前だから白状するが、一度、開けてしまったことがある」
「え?」
「私もそう思っていた。燃やしてしまうべきだと。そんな恐ろしい研究を行っていた先祖も嫌悪した。……でもね、」
 一瞬――ほんの一瞬ではあったが、寂しげな顔で、
「でも……どうしても、会いたくなってしまってね」
「誰にです?」
「…………」
 聞いたが、父は答えてくれなかった。聞いてはいけないことだったのだろうか?
「すぐに思い止まって、また封じてしまったが……その研究を行っていた先祖達も、もしかするとそんな理由だったんじゃないかと思うと、どうしても燃やせなくてね」
「…………」
「どちらにせよ、悪用されては危険なものばかりだ。今日からここの鍵をお前に預ける。……鍵が使われる日が来ないこと、祈っているよ」
「はい」

 あの時、自分は確かにうなずいた。約束した。
 それなのに――一度だけ、開けてしまったことがある。
「――兄さん?」
 呼びかけられ、我に返る。
 振り返ると、ロジェの姿が見えた。わざわざ捜しに来たらしい。
「兄さん、一人じゃ危ないだろ」
「危ない?」
「今、すごく治安が悪くなってるんだ。僧兵がいなくなったもんだから、暴動が起こっても止める人がいないしさ」
「そ、そうか……」
 言われてみればそうだ。
 ただでさえ火事で住み家も財産も失い、食べることもままならない状態だ。食料や金品を求めて、強盗や盗みが横行しても不思議はない。
 ……僧兵はいなくなったが、今度は人間に怯えることになるとは、なんとも皮肉な話だ。
 ロジェは焼け落ちた教会を見渡し、不思議そうに、
「ところで、こんな所でどうしたんだ?」
「…………」
 問われて、自分でもどうしてここに来てしまったのか、不思議に思う。
 町の様子を見に来ただけなのに、気が付くと、吸い寄せられるようにここへ来てしまった。
 あの人形達の思念が残っているのか、もしくは――この焼け落ちた本が、自分の記憶のなにかを呼び起こしたからか。
 足下を見ると、さっき崩れ落ちた本の残骸が、水たまりに溶けるように浮かんでいた。
 ぼんやりとそれを眺めながら、
「……今さら、私がこんな心配をするのもなんだが、ミラージュパレスのことが気になってな」
 ミラージュパレスと比べれば、この教会の図書室などちっぽけなものだが、本に囲まれると、不思議と思い出す。
「あそこには、各地から集められた書物や、歴代の主教が記した魔導書……不死や呪い、そういった危険な書物が多く保管されている。いくら封印されているとはいえ、どこかの馬鹿が禁書の封印を解き、万が一悪用でもしたら……」

 ――私の責任……

 それらの禁書を守ることも主教の役目だ。
 今さら自分がこんなことを考える資格がないのは重々承知だが、この町に滞在している間、ふと思い出すのはミラージュパレスのことばかりだった。
「……考えたって仕方ないよ」
「…………」
 ロジェの答えはシンプルなものであったが、同時に、まったくもってその通りだった。
 考えても仕方ない。もはや自分にはどうすることも出来ない。
 なにもかも――すべて、投げ出してしまった。
 ロジェはポケットを探り、
「それよりさ、これ」
「なんだ? 突然」
 差し出された小さな布袋に、首を傾げる。
 ロジェは苦笑いを浮かべ、
「なに言ってんだよ。誕生日のプレゼントだろ」
「え?」
 予想外の言葉に、一瞬、頭の中が白くなる。
 しばらくして、
「たん……じょう、び?」
「まあ、俺達の世界とはちょっとずれてるかもしれないけど……この世界の日付だと、今日みたいだ」
「そう、か……」

 ――誕生日……

 当たり前のことなのに、自分にそんなものがあったことすら忘れていた。
 自分には、もう、必要のないものだったから。
「兄さん?」
「あ、ありがとう」
 我に返りと、ロジェが差し出した小さな袋を受け取り――ため息をつくと、
「……すまない。何も用意していない」
「いいって。俺も、ちょっと前まで忘れてたし」
「――そうだ」
 ふと思いつき、ずっと懐にしまっていたものを取り出す。
 包んでいた紫の布をめくると、その鏡面に自分の顔が映る。
「それは?」
「幻想の鏡……昔、父上から頂いたものだ。私からはこれをやろう」
 鏡を差し出すと、ロジェは驚いた顔で、
「ちょっと待てよ。父さんが兄さんにあげたものだろう? なんで俺が……」
「お前だからだ。お前なら、父上も許してくださる」
「…………」
 再び鏡を差し出すと、ロジェは一瞬悩んだようだが、
「……わかった。じゃあ、もらっておくよ」
「ああ」
 ロジェは鏡を受け取ると、鏡面をのぞき込み――なぜか、眉をひそめる。
「どうした?」
「え? い、いや……」
 なぜか曖昧な笑みを浮かべつつ、ロジェは鏡を持つ手を下ろし、
「ありがとう。それじゃあ、俺は先に帰るよ」
 それだけ言うと、そそくさと立ち去る。
「…………?」
 捜しに来ておいて先に帰ってしまうことに違和感を感じたが――気を取り直し、渡された小袋を開ける。
「指輪、か……」
 中に入っていたのは、青い石がついた指輪だった。そういえばこの前、アクセサリー屋でロジェの姿を見かけたが、どうやらこのためだったらしい。
 買った場所が場所なので、そんなに高価でもなければ、特殊なまじないが施されているわけでもない、ただの指輪だろう。
 言うなれば、オモチャ同然だ。
 同然だが――
「…………」
 右手の指にはめてみると、ちょうど人差し指にぴったりはまった。

 ◇ ◇ ◇

 角を曲がり、周囲に人がいないことを確認すると、さっき兄からもらったばかりの幻想の鏡を再びのぞき込む。
 どんなに見ても――映っているのは、自分の背景だった。
「……どうなってるんだ……?」
 後ろを確認し、もう一度、鏡面に目をやる。
 何度見ても、本来、自分の顔を映すはずの鏡面には、自分を通り越した向こう側しか映っていない。
 まるで、最初から自分がそこに存在していないみたいだ。
「…………」
 兄がこの鏡を取り出した時、鏡には兄の姿が確かに映っていた。
 なのに、自分の姿は映らない。
「どういう……ことなんだ?」
 鏡を手に、自問自答するが――考えても考えても、言いようのない不安がわき起こるだけだった。

 * * *

「――そう。じゃ、そろそろ潮時かな」
 ルサの報告に、アナイスは、座っていた岩から腰を上げる。
 今日は波が穏やかで、心地よい潮風が吹いていた。
 すぐ近くの町では、住む場所を失い、家族を失った者達の嘆きであふれているのに、目の前の海は、そんなものはお構いなしに揺らめいている。
 その海に視線を向けたまま、
「もう教団に用はないね。それじゃ、次に行くとするか」
「はい。手はずは整えています」
「そっか。じゃ、彼への指示は頼むよ」
「はい」
 こちらの指示に、ルサは聞き返すことも詳細を確認することもなく、素直にうなずく。
 その物わかりの良さに苦笑しながら、ポケットを探り、
「そうそう……はい、これ」
 特別高価でもない、小さな布袋を差し出すと、ルサはきょとんとした顔で、
「これは?」
「今日、誕生日だろ?」
「え……?」
 やはり忘れていたらしい。理解するのに少し時間がかかったらしく、ぽかんとした顔で、
「今日、でしたか?」
「うん。ルカの分も入ってるから、君からだってことにして渡しといてよ」
「ですが……」
「僕は、ルカに嫌われてるからね」
「…………」
 大げさに肩をすくめてみせると、ルサも黙り込む。
 しばらくして、
「あの、アナイス様」
「なんだい?」
「アナイス様の誕生日はいつなんですか?」
「…………」
 毎年、この日になると聞いてくる。さすがに少しうんざりすると、
「しつこいなぁ。忘れたって言ってるだろ」
「まだ思い出せないんですか?」
「別にいいよ、そんなの。なくても困らないし」
「……そうでしょうか?」
「そうだよ」
 背を向けると、ルサも黙り込み、それ以上は何も言わなかった。

 ――それにしても……

 正直、驚いたことがある。
 ルサとルカの誕生日が、今日。
 そしてあの兄弟の誕生日も、今日。
 自分がこの世界で過ごし、彼女達がちょうど彼らと同じ年になった頃、ひょっこり現れた。

 ――なんの因果かねぇ……

 女神とは、ずいぶんいい趣味をしているらしい。
「――アナイス様」
 ふいに呼ばれ、我に返る。
 振り返ると、ルサはさっき渡した小袋を両手で大事そうに持ったまま、
「ありがとうございます」
 久しぶりに見る笑顔でそう言うと、律儀に頭を下げた。

 ◆ ◆ ◆

 夕方になり、全員が夕食の席に集まってくると、ワッツは険しい顔で、
「ロリマーじゃ、大変なことが起こったらしいな」
「どうかしたのか?」
「前、教団が船造ってるって話をしただろう?」
 ワッツの手には、一枚の紙が握られていた。手紙のようだが封筒はなく、メモ書き程度の簡単なもののようだ。
 ワッツはパイプをくわえたまま、手紙に視線を落とし、
「ロリマーで反教団組織を中心に暴動が起こって、光の主教が殺されたらしい」
『なっ……!?』
 そのニュースに、全員、言葉を失う。
「ワッツ殿、その情報は信用出来るものですか?」
「出来る」
 真っ先に疑って掛かるユリエルに、ワッツは即答する。
「その手紙、差出人は――」
 ワッツはこちらの言葉を待たず、紙を小さくたたむと灰皿に入れる。
 そしてそこに、火のついたパイプをひっくり返した。
「情報保護」
 言い終わる頃には、手紙は黒い灰と化していた。
 ……一瞬、ルカの顔がよぎったが、問いつめた所で今は意味がない。
 ワッツのもたらした情報に、ロジェはぽかんとした顔で、
「光の主教が殺されたって……アナイスが?」
「どうせ影武者よ」
 意外なことに、口を開いたのはエリスだった。
 彼女は冷めた目で、
「アナイスは、主教として表に出る時は必ず仮面をつけているから。素顔を知っているのは、すぐ近くにいるほんの数人よ」
「あ……確かにそうですにゃ。オイラもウェンデルで主教の演説を聞いたことがありますけど、仮面で顔はわからにゃいし、全身を隠してるから、年どころか性別さえも知りませんにゃ。名前だって、みにゃさんから聞いて始めて知りましたし」
 エリスの言葉を裏付けるように、ニキータも口を開く。
「なるほど……それだと確かに、適当な者に同じ服を着せればいいだけですからね。素顔を誰も知らない以上、たとえ別人であったとしても、その人物を主教としてつるし上げるしかありません」
 ユリエルの言うとおり、たとえ別人だったとしても――いや、本人だろうと別人だろうと関係ない。反教団組織からすれば『光の主教が死んだ』という『事実』が重要なのだ。
「あともうひとつ。その暴動で完成した船が奪われたらしい」
「そんな簡単に奪われるもんか?」
「さあな。だが、いきさつはどうあれ、奪わちまったもんは仕方ねぇ」
 目を丸くするキュカに、ワッツはもう煙の出ないパイプを懐にしまう。
「わかっているのは、その時の騒動で、大勢死者とケガ人が出たそうだ。その後、船がどうなったかまではわからん」
「どういうつもりなの……?」
「どうした?」
「…………」
 エリスの顔色が変わったことにジェレミアがいぶかしがるが、彼女はそれきり黙り込む。
「ま、この件に関してはこれで終いだ。頭使うのは後にして、そろそろメシにするぞ」
 ワッツはさっさと話を切り上げると、台所へ向かう。
 他の面々も食事の準備に動く中、自分はその場に突っ立ったまま、頭の中で今の話を整理する。
 事実上、トップを失った教団は一気に力を失い、放っておいても勝手に崩壊するだろう。
 しかし、教団などどうでもいい。
 問題なのは、アナイスにとって主教としての立場が――教団が不要になったということだ。だから、切り捨てた。
 それはすなわち、アナイス側の準備が大詰めに向かっているということになる。
 さらに、船まで奪われたことも気になる。主教が殺されたことといい、あまりにあっさりしすぎている。まるで予定のひとつだったみたいだ。

 ――船が完成した。次はディオール――

 もしかすると、罠かもしれない。
 罠かもしれないが、
「考えても仕方ない、か……」
 結局、出てきた結論はそれだった。
 アナイスにしろルカにしろ、誰が何を考えていようが、結局、その真意はその時にならなければわからない。
 今、自分に出来ることは――
「…………」
 ポケットから、あの火石を取り出す。
 扱いを間違えると、災いをもたらす危険な石だ。なのにルカは、どう使えとも、どうしろとも言わなかった。
 そしてワッツも、この石を自分に預けてくれた。彼も、この石をどう使えとも、どうしろとも一切言ってこない。
 ……自分に出来たことは、いつだって壊すことばかりだ。
 それなのに、二人とも、この石を自分に託してくれた。
 なぜなのかはわからない。もしかすると、さほど深い意味はないのかもしれないが――

 ――使わせて……もらうか。

 石を握りしめると、確かな熱が伝わってきた。

 ――ちゅごむっ!

 轟音と共に家が激しく揺れ、ほどなくして、地下の研究室に煙が充満する。
「何事です!」
 爆発に駆けつけてきたのか、煙の向こうでユリエルの声が聞こえたが、あいにく返事をするどころではない。

 ――な……なぜ爆発が……

 煙で咳き込み、目も痛い。爆発の衝撃で明かりが消え、何も見えない。精霊達も驚いて消えてしまったようだ。
 とにかく床をはうように、勘で出口へと向かう。
「兄さん、どうしたんだ!?」
 やっとの思いで出口にたどり着くと、血相を変えたロジェが階段を駆け下りてくるところだった。
 先に来ていたユリエルは、驚きを通り越して呆れた顔で、
「何やってるんですかあなたは……」
「不可抗力だ!」
「とにかく上に行こう。な?」
 ロジェに腕を引っ張られ、一階へと続く階段を上がると、他の面々も集まっていた。
 すっかり焦げたこちらの姿に、エリスも血相を変えて駆けつけ、
「朝っぱらから何やらかしたのよ!? 鍋にホコリ入ったじゃない!」
「……そっちの心配か?」
 こっちは焦げているのに鍋の心配をするエリスに、心の中で冷たい北風が吹く。
「……ん? もう朝だったのか?」
「まさか徹夜をしてたんですか?」
 窓の外を見ると、明るい。地下にこもっている間に夜が明けてしまったらしく、全員朝の支度をしている最中だったようだ。
 地下室から登ってくる煙がひどかったので、近くの窓を開けながら、
「それより、完成したぞ。新しい魔導球だ」
 そう言って、脱出する際、落とさないよう懐に忍ばせていた魔導球を取り出し――
「ぷきっ……」
「…………」
「――おーい。肝心のコレ、置き忘れてたぞー」
 懐に忍んでいた焦げたラビを、無言で近くのくずかごに捨てる。
 気を取り直し、サラマンダーが運んできた魔導球を受け取ると、何事もなかったように、
「完成したぞ。新しい魔導球だ」
「言い直さなくていいです」
 ユリエルのツッコミはあえて無視した。
 ジェレミアは怪訝な顔で、
「前と同じに見えるが……」
「中心に、火石を組み込んでいる」
 光の屈折で、時折、中心に炎の揺らめきのような輝きが見えることに気づいたらしい。ジェレミアは魔導球を手にすると、しげしげと眺める。
「この魔導球と相性が良かったみたいでな。船の動力と結界維持には十分だ」
 合成の結果、最悪、弱体化する危険もあったが――それについては黙っておく。どのみち、相性がいいか十分調べた上でやったことなのだから、言う必要もないだろう。爆発した理由まではわからなかったが……
「――ちょい貸してみろ」
 ジェレミアが持っていた魔導球をワッツが横取りすると、彼も魔導球をしげしげと眺め、
「ほう。あの火石と完璧に融合させるたぁ、たいしたもんじゃねぇか。これで最後の課題はクリアしたな」
 そして、ため息をひとつつくと、
「となると――お別れだな」
「…………」
 ワッツは笑顔だったが、どこか寂しげだった。
 喜ばしいことのはずなのに、誰も笑わなかった。

「……船、直っちゃったね」
「どうした?」
 聞くが、エリスは岩の上で膝を抱えて座ったまま、無言でうつむく。
 船に荷物を運び終え、後は点検が終わるのを待つだけだ。
 その間、砂浜に下りたのだが――一足先に、エリスがいた。
 砂浜で、打ち寄せる波と戯れるラビを横目に、エリスはどこかつまらなさそうに、
「また、マナストーンを探しに行くんでしょ?」
「……嫌なら帰っていいんだぞ」
「そうじゃなくて! ……また、旅の生活なんでしょ」
「ワッツと別れるのが寂しいのか?」
 そう思ったが、どうやらこちらの考えとエリスの考えに、少しズレがあったらしい。彼女はそっぽを向いたまま、
「……もうしばらく、今の生活が続いてもいいかなって……」
「?」

 ――今の生活?

 エリスはボソボソと、
「そりゃ、いつまでもワッツの世話になるわけにもいかないし、町はあんなだし、あんた達だって、のんびりしてる場合じゃないってことくらいわかってるの。でも……船が故障したこと、わたしは良かったって思うの」
「まさか、それでジェレミアと?」
 エリスはふてくされた顔のままうなずく。
「なんだか、こういう生活も悪くないかなって。……ジェレミアが怒るのも、当然よね」
「…………」
 かける言葉に迷っていると、突然、エリスは顔を上げ、
「ねぇ。あんたにとって、ここで過ごした時間って、無駄な時間だった?」
「それは……」
「いらなかった?」
「…………」

 ――私には時間がないんだ――

 少し前、そんなことを言った気がする。
 ……時間は、本当になかったのだろうか?
 自分にとって『必要のない時間』とは、どんな時間だったのだろう?
 そこまで考えて、出てきた結論は簡単なものだった。
 そのことに、思わず苦笑すると、
「私も……ここでの生活は、悪くなかったと思う」
「ホント?」
「ああ」
「よかった」
 念を押されてうなずくと、彼女は安心したように満面の笑みを浮かべる。
「そうだ。エリス」
 渡すなら今だろう。ポケットに手を入れ――
「――――!」
 ズキン! と、右肩に鋭い痛みが走り、顔が引きつる。
 エリスは目を丸くして、
「どしたの?」
「い、いや……なんでもない」
 全身に冷たい汗が噴き出すが、そんなこと知るよしもないエリスは口をとがらせ、
「なによ。なにもないなんて――」
「なんでもないんだ! 忘れろ!」
 怒鳴るようにそれだけ言うと、エリスから逃げるように、船とは逆の方角へ走る。
 エリスの姿が見えなくなると、岩壁に寄りかかり、右肩をわしづかみにする。
 痛みはもう退いている。しかし、さっき感じた寒気がまだ残っていた。
「――おいおい、どうした? 怖じ気づいたのか?」
「そやそや。さっき渡せばよかったやん。なんでや?」
 サラマンダーとウンディーネが姿を現し、他の精霊達も次々と姿を現す。
 しかし、精霊達の言葉など、まるで耳に入ってこない。そんな言葉よりも――

 ――お前、自分の立場わかってるんだろうな?

「…………」
 ポケットから、さっき出し損ねた髪飾りを取り出す。
 今でも、自分がこんなものを買ったなんて信じられない。家族以外に贈り物なんてしたことがなかったのに。
 しかし、所詮は一時の感情。

 時が経てば忘れる。

「……私みたいな化け物、関わらないほうがいい」
 そうだ。本当なら、こんな浮かれた気分になっている場合ではない。
 エリスの、一瞬でも怯えたあの顔を見た時、気づくべきだったのに。
 顔を上げると、海が眼前に広がっている。
 髪飾りを手に波打ち際まで行くと、大きく振りかぶり――
『あっ』
 精霊達に口出しする暇を与えず、海に向かって、髪飾りを放り投げる。
 髪飾りは自分で想像したよりも遠くまで飛び、波に呑まれて見えなくなった。
 しばらく、精霊達はぽかんとしていたが、
「なんでダスか~!? エリスさんのために買ったんじゃないダスか!?」
「そやそや! 閉店間際まで悩んどったクセに!」
 精霊達が騒ぐ中、ルナだけは静かに、
「……いいの?」
「フン」
 その一言を無視して、元来た道を歩き出す。
 肩が、ズキズキと痛む。
 痛いのは肩のはずなのに、なぜか、別の場所が痛むような気がした。