もう一人の自分 - 2/3

翌日。
「……………」
無言のまま、しばらく鏡の前に立つ。
呪われし、エジーナの黒い鏡。
さっさと封印してしまったほうがいいことはわかっている。わかってはいるが――
「……もう一度……もう一度だけ……頼む!」
祈るような思いで、鏡に手を触れるが――鏡はなにも映さず、暗い闇が広がるばかりだった。
「……やはりダメか……」
その場に膝をつき、深いため息をつく。
夕べ映ったものは――あの、懐かしい後ろ姿は――

――どうせ別れなきゃならないんなら、最初っから一人だったらよかったのにね――

アナイスの言葉が脳裏をよぎる。
考えなかったと言えば嘘になる。なぜ双子として生まれてしまったのか。どうせ引き離されるなら、お互い、存在を知らないまま育ったほうがマシだったかもしれない。
「アナイスの言う通り……寂しいのかもな……」
嫌でも認めざるを得ない。ロジェが去ってからというもの、一人でいることがこれほど辛いものだとは思わなかった。
ロジェはどうなのだろう?
外の世界で、うまくやっているのだろうか?
寂しくは、ないのだろうか……?
袂を分かった以上、こんなことを考えてはいけないことはわかってはいる。しかし、忘れることなど出来るわけがない。
せめて封印してしまう前に、一目でもと思ったが、やはりそんなに都合のいいものではないようだ。
……その時だった。
「…………?」

――歌?

一瞬、木々のざわめきかと思ったが、少しずつ、はっきりと歌声が聞こえてくる。
なんの歌なのかはわからなかったが、耳を澄ませると、鏡の向こう側から聞こえてくるようだ。
立ち上がり、恐る恐る鏡をのぞき込む。
ほどなくして、ぼんやりと――しかし、夕べよりもはっきりと、どこかの風景を映し出す。
「森……か?」
うっそうとした密林の中を、数人のペダン兵が歩いている。
全員武装していることから、モンスターの討伐かなにかに向かっているのかもしれない。
その中の一人―― 後ろから二番目にいた兵士に目が留まる。
後ろ姿だったが、帽子の下から、緑色の跳ねた毛先が見えた。

――頼む!こっちを向いてくれ!

食い入るように鏡をのぞき込み――願いが通じたのか、ようやくこちら(正確には、その後ろにいた兵士のほうだが)に振り返る。
若い青年で、今は厳しい顔をしていたが――間違いない。自分と、まったく同じ顔――
「………!ロジェ……」
自然と、顔がほころぶ。
鏡に映るロジェは、すぐに背を向けてしまったが、それだけでも十分だった。
「よかった……元気そうだ。相変わらず、顔は同じだな」
それでも、ずっとこの宮殿にいる自分と違って、兵士としての訓練をして、日焼けもしているせいか、向こうのほうがたくましく見える。
突然、音こそ聞こえないものの、鏡の向こうが騒がしくなった。
探していたモンスターが出たらしく、全員武器を手に取り、散っていく。
他の兵士はどうでもいい。とにかくロジェの姿を追うが、余計な心配だったらしい。出てきたパンサーキメラを剣の一太刀で斬り捨てる。
しかし、いつの間にか背後に回り込んでいた別のもう一体が、後ろからロジェを押しつぶそうと飛び上がり――
「――危ない!」
思わず叫び、そして、
「えっ?」
フッ、と、鏡に映っていたものが突然かき消え、鏡面は元の闇だけになる。
「――待て!そこで切れるか普通!?」
思わず鏡を何度も叩くが、まるで無反応。
「……鏡相手に、なにやってるんだ私は……」
しばらくして我に返ると、今度は変な自己嫌悪に落ち込んだ。
それにしても――
「ロジェ……無事だろうか……」
中途半端な所で途切れてしまい、安否がわからない。もしかすると、ケガくらいしたかもしれない。
いや、兵士である以上、危険とは常に隣り合わせだ。いつもこんな目に遭っているのか……
もう一度鏡に目をやる。
ロジェの姿を一目見たら、封印するつもりだった。しかし――
「もう少し……もう少しだけ……」
結局、その日も封印出来ぬまま、鏡の前を後にした。

* * *

「――ねえ。主教、なんかいいことでもあったの?」
アナイスは応接間のソファに腰を下ろし、お茶を運んできた使用人に聞くが、使用人はその問いかけに首を傾げ、いつもと変わらないと答え、退室する。
なるほど、確かにいつもと変わらないように見える。
しかし――妙な所で鋭いアナイスの目はごまかせなかった。
「……まあ……いいけどね」
つぶやき、お茶を飲む。
ほどなくして、主教が姿を現す。
「やあ。儀式の準備は出来たのかい?」
「ああ……」
いつもの態度で返事をする。
「ところで、例の鏡。あれはもう、封印したのかい?」

――ギクッ。

アナイスは、主教のかすかな動揺を見逃さなかった。
彼は平静を装いながら、
「……当然だ。あれは呪われた鏡。手元に置いておけば災いを呼ぶ」
「ふぅん。災い、ね。――どんな災いか、興味あるなぁ」
「ふざけたことを言ってないで、さっさと用事を済ませてさっさと帰れ」
「ハイハイ。――ところで、なんの儀式だっけ?」

――そんなことも知らずに来たのか……

主教は態度でそう訴えながら、あきれた様子で、
「……収穫祭の儀式だ。お前、自分のお膝元でやっている祭の内容も知らないのか?」
「ああ、そうだったね。祭なんて、騒いで遊びたいだけじゃないか。マナの女神に祈りを捧げようが捧げなかろうが、同じだと思うけど?どーせ誰も、こんな儀式のことなんて知らないしさ」
「うるさい。私の仕事に、いちいちケチをつけるな」
「お堅いなぁ。ちょっとくらいハメはずしたって、バチは当たんないと思うけど?」
「お前はハメをはずしすぎだ」
責任感の薄すぎるアナイスに、すかさず返す。
「ハイハイ。さっさと済ませて、祭にでも行ってくるかな。一緒にどう?」
主教がこの宮殿から離れることが出来ないと知りながら、あえて聞いてやるが、案の定、
「……幻夢の主教は、代々、このミラージュパレスから離れることなくペダンを守ってきた。その決まりを、今さら私が破るわけにはいかない」
「やれやれ。どうせ誰も、キミのことなんか知らないってのにね」
ぴたりと、主教の動きが止まる。
「陰ながらペダンを守るったって、この平和なご時世、何から守るってのさ?誰にも知られず、誰からも望まれないで、ホントに存在そのものが夢かまぼろしみたいじゃないか。せっかくの古代魔法も、これじゃ無用の長物だしさぁ」
「……まるで、戦争でも起きてほしいようだな?」
「戦争、か。いいかもね」
「大臣の胃に穴が空くのも時間の問題だな」
平静を装っているようだが、怒りをこらえているのがわかる。
「さて、それじゃあ帰ろっかな」
「儀式は?」
驚く主教に、アナイスはいつもの笑顔で、
「面倒だしやっぱいいや。どーせ僕は立ち会うだけで、なにかするわけでもないしさぁ。――キミと違って、伝統だのなんだの、僕にとっちゃどうでもいいことだし」
「待て!アナイス!」
背後で主教が呼び止めてくるが――すぐにあきらめたのか、ため息が聞こえた。

◆ ◆ ◆

「まったく……ペダン滅亡も時間の問題だな」
毎度のことながら、アナイスのいい加減さには、もうなにを言っていいのかわからない。
「いや……私こそ、伝統だの決まりだのに捕らわれすぎなのか……」
幼い頃から、跡継ぎとして先代の父から目をかけられ、色々教え込まれたのだ。
そんな自分にとって、自由奔放なアナイスは、時々、うらやましいとさえ思ったこともある。もっとも、あそこまで自由奔放すぎる王というのも考えものだが。
「自由……か」
いつものように、鏡の前に立つ。
結局、いけないとわかっていながらも封印することが出来ず、毎日時間を見つけては、鏡の向こうの弟の姿を追っている。
鏡も、封印されるのを嫌がってなのか、望めばすぐに映し出すようになった。
はっきり言ってのぞきだが、このささやかな楽しみを、どうしてもやめることが出来ない。
しかし――続ければ続けるほど、別のどす黒い感情がわき起こってくることにも、すでに気づき始めていた。
鏡はいつものように弟の姿を映し出す。
祭の屋台と、人でごった返した通りを、恋人の長い銀髪の女と腕を組んで歩いている。
「ずいぶんと……楽しそう、だな」
なぜか、ひどく遠くに見えた。
同じ世界――同じ島の上で起こっていることなのに、なぜかまるで別の――遠い、遠い異世界の光景を見ているようだった。

次の日は、いつものように友人達と食事をして、色々楽しそうに話をしていた。
その次の日は、なにか失敗をしたのか叱られていた。
さら次の日は――

「………………」
いつの頃からか、鏡の前に立つことが憂鬱になっていた。用もないのにやってきたアナイスにも、『最近は不機嫌だね。ちゃんと寝てないの?』などと言われた。
最近は鏡の前に立つこと自体なくなったというのに、寝ていても、奇妙な歌声と共に、あの鏡が夢の中まで追ってくる。
ぼんやりと、特に目的があるでもないのに宮殿の中を歩き――
「…………!」
我に返ると、いつの間にか、あの黒い鏡の前に立っていた。

――なぜここに!?

来ようと思って来たわけではない。
しかし、直前までなにをしていたのか思い出せない。
もしかすると、自分でも思っている以上にまいっているのかもしれない……
動揺しつつ、黒い鏡に目をやる。
最初の頃は、元気そうにやっている弟の姿を見るのがあんなに楽しかったのに、今ではまるでそれを感じない。いや、むしろ――

――ホントに存在そのものが夢かまぼろしみたいじゃないか――

以前、アナイスに言われた言葉が脳裏をよぎる。
「――くそっ!」
どんっ!と、鏡を殴りつけるが、黒い鏡面はびくともしない。
「アナイスめ……いつもいつも、余計なことを……!」
アナイスの言葉は、まるで心の奥深くを見透かしているかのように突き刺さってくる。
だから余計に腹が立ち――余計に気になる。
触れてほしくない部分、認めたくない部分に、土足で平気に入り込まれるような――そんな気分だった。
「……こんなものがあるから……」
鏡をにらみつける。
やはり、早く封印してしまうべきだった。
この際だ。今日という今日こそ、この鏡を封印しなくてはならない。いっそ、粉々に砕いてしまいたい。
鏡に手を伸ばした時、突然、黒い鏡面が光り、なにかを映し出そうとする。
「――――!」

――見たくない!

とっさにイビルゲートを放つが、鏡は壊れるどころか、逆にこちらの術を吸い込み、輝きを増す。
「やはりこんなものでは無理か……!」
鏡は自分の意志とは反して、ある光景を映し出す。
「………あ」
鏡の向こうでは、よく一緒にいる所を見かける銀髪の女が、ロジェにプレゼントらしい小さな包みを渡している所だった。
「――そう……か。今日、は……」

――誕生日……

すっかり忘れていた。
子供の頃――少なくとも、ロジェがまだこの宮殿にいた頃は忘れたことなどなかったのに、いつの頃からか、思い出した頃には過ぎ去っているようになった。

――また、会いに来るよ。

ふいに、昔――ロジェが、宮殿を去る時のことを思い出す。

「――大丈夫だって。なにも、今生の別れじゃあるまいし」
心配するこちらに対して、ロジェは笑みを浮かべ、
「また、会いに来るよ。決まりだかなんだか知らないけど、そんなのに縛られる必要ないさ」
そんなわけがない。
この宮殿の存在は秘密にされている。この宮殿を出ることが決まった以上、ロジェはもう、帰ってきてはいけないことになっていた。
しかし、不思議と、信じることが出来た。

その時までは。

鏡の向こうには、心底嬉しそうな弟の姿。
その顔は、悩みもなにもなく、日々を楽しんでいる――ごく普通の、幸せそうな青年の顔だった。
ここでのことも――自分のことも――なにもかも、忘れて――
喪失感に全身から力が抜け、その場に膝をつく。
もう、帰ってこない。
昔から、『ペダンを守ることがお前の役目だ』と言われて来た。
だが――幼い頃から、この宮殿を出たことのない自分にとって、『ペダン』という国のことなど何一つ知らない。
ならばせめて、いずれこの宮殿を去る弟を、ここから守ろうと誓った。それがペダンを、弟を守ることに繋がるのなら、それでいいと思った。
しかし――弟は違う。
友を得て、仲間を得て、愛する者を得て――守るべきものに囲まれている。
まるで――
「――まるで正反対、だな」
頭上から聞こえてきた声に顔を上げると、ついさっきまで恋人に誕生日を祝ってもらっていた男が、鏡の中から身を乗り出し、こちらを見下ろしていた。