「なっ……!」
突然のことに混乱しつつも、慌てて鏡から離れる。
彼は、鏡から出てくると、嫌味ったらしい声で、
「どうしたのさ?せっかく弟が会いに来たっていうのに」
――まやかしだ。
鏡の向こうから出てきた弟の姿に呆然としつつも、胸中でハッキリと断言する。
しかし、向こうはお構いなしに、もらったプレゼントを見せびらかしながら、
「そうそう。知ってるとは思うけど、俺のほうはうまくやってるよ。友達には恵まれてるし、誕生日を祝ってくれる可愛い恋人もいる。ここで暮らしていた頃とは雲泥の差だ」
――鏡が作ったまぼろしだ。
彼は周囲をぐるりと見回し、小馬鹿にするように、
「それにしても兄さん、相変わらずこんな所に引きこもってるのか?『幻夢の主教』なんて外じゃ誰も知らないし、ほんと、名前通り夢かまぼろしみたいだ。これじゃあ、いてもいなくても同じだな」
――ロジェは、そんなことを言ったりしない!
――ぷつんっ、と、これまで張りつめていた糸が、切れた。
気がつけば、相手が次の言葉を発するより先に両手が伸び――その首を、思い切り締め上げていた。
「………っ!」
トサッ、と、小さな音をたてて、持っていたプレゼントが地に落ちる。
ロジェは驚いた顔で、こちらの手首をつかみ返し、引きはがそうとするが――かまわず、そのまま勢い任せに地面に押し倒し、さらに力を込めて締め上げる。
「おまえに……おまえにわかるものか!誰にも知られず……誰にも必要とされず……一人で生きる辛さが……恐怖が、わかるものか!」
「――にい……さ……」
ロジェの喉の奥から、かすれた息と共に、声が聞こえる。
――やめろ!やめるんだ!
もう一人の自分が必死に止めようとするが、もうひとつの思いのほうが強すぎて、首を締める力は一向におさまらない。
……そうだ。ロジェにわかるわけがない。
持たざる者の心など、わかるわけがない。――わかるわけが、ない。
どれくらい、そうしていただろうか。
突然、自分の手首をつかんでいたロジェの手が離れ、力なく地に落ちる。
「………え?」
我に返った頃には、ロジェは目を見開いたまま、ぴくりとも動かなくなっていた。
首から手を離し――しばらく膝をついたまま、動かなくなった弟をぽかんと見下ろす。
「―――――!」
ようやく事態を理解すると、慌てて立ち上がり、
「なっ……!私は……なにを……」
全身から嫌な汗が噴き出し、ガタガタと足が震える。
すぐに、これはまぼろしだ――偽物だと自分に言い聞かせるが、さっきまでロジェの首を絞めていた手の感覚は消えず、震えも収まらない。鼓動は激しくなるばかりだった。
「――ありゃりゃ。なーんか、すごい光景だなぁ」
その軽薄な声は、すぐ後ろから聞こえた。
「!!」
――アナイス!?
もう、声すら出ない。
振り返ると、そこにいたのは、いつもの責任感の薄い少年王だった。
――まぼろし?いや、本物?
動揺が大きすぎて、もはや正常な思考が停止してしまっている。
いるはずがない。ここは、自分以外近寄れないのだ。アナイスが、こんな所にいるはずがない。
しかし、なぜだか、まぼろしと断言できる自信がなかった。
アナイスは、ひどく動揺している幼なじみを見て楽しむように、
「おいおい、困るなぁ。『幻夢の主教』が、本物とまぼろしの区別もつかないのかい?僕に『王としての自覚を持て』って言ってるわりには、自分が一番自覚足りないんじゃないの?」
「……っ!………っ!」
何か言おうとして――なにが言いたいのか、自分でもわからなかったが――口をぱくぱくさせるが、息がもれるばかりで、肝心の言葉は出てこなかった。
アナイスは、今度はこちらの後ろに倒れているロジェに目を向け、
「『可愛さ余って憎さ百倍』ってヤツ?怖いねぇ。双子の弟を殺しちゃうなんてさ」
「ちっ……違っ……」
――違う!
首を横に振り、必死で否定しようとするが、舌がうまく回らない。
アナイスは首を傾げ、意地の悪い笑みを浮かべると、
「違うって?じゃあ、そこでくたばってるのは誰さ?」
「……………」
もう、なにがなんだか。
自分はただ、ずっと気がかりだった弟の姿を見たいだけだった。
ただそれだけのはずなのに――なんだ?今のこの状況は。
とたんに、体から力が抜け、その場にがっくりと膝をつく。
わからない。もう、なにがなんだかわからない。夢なのか現実なのか――その区別さえつかない。
「なに慌ててるのさ。単に、正直になっただけだろ?人間、誰だって自分より幸せそうなヤツを見ていると、妬ましくもなるさ。ましてや、自分とうり二つの双子……まるで光と影。鏡に映したみたいに真逆じゃないか」
「……………」
なにも、言い返せなかった。
なぜなら、アナイスの言葉は、まさしく自分の本心だからだ。
弟を憎んだことなど、一度もなかった。
ないはずだった。
なのに、今は――妬みがある。憎しみがある。悲しみがある。恐怖がある――
周りに必要とされ、愛されている弟を見れば見るほど、まるで自分の存在が、本当に夢かまぼろしなのではないか――このまま消えてしまうのではないか――そんな恐怖を、嫌でも感じずにいられなかった。
……歌が、聞こえた。
不思議と、それまで嫌だったはずの歌声が、今はとても心地よく聞こえた。
目を閉ざし、聞き入っていると、さっきまでの動揺が嘘のように、心が静まりかえっていく。
『――おまえの役目はなんだ?幻夢の主教』
その声に目を開けると、ロジェの姿も、アナイスの姿も消えた奇妙な闇の中にいた。
『おまえの役目はなんだ?』
声は、もう一度問いかけてくる。
「私の……役目は、陰ながらペダンを守る……こと……」
そう。代々、幻夢の主教は、陰ながらペダンを守り、導いてきた。何十年も、何百年も――
しかし、声はそれを鼻で笑い、
『本当にそうか?本当に、それがおまえの役目であり、望みか?』
――望み?
『おまえには、なにもない。守るものも、守ってくれるものもない。誰もおまえを知らず、必要としないように、な』
……そう。なにもない。
この宮殿も、いにしえの魔法も、『幻夢の主教』という肩書きも、その役目も……周囲を見回してみると、自分が望んで手に入れたものなどひとつもない。
いつだって、自分が望むもの、欲しいと思ったものは、鏡の向こう側――ロジェが持っていた。
まさに鏡映し、だ。
声は、こちらのことを何もかも知っているかのように、
『悔しくはないか?悲しくはないか?ただ、魔法の素質があったというだけで……なぜ弟ではなく、自分だったのか――なぜ、弟は手にすることができて、自分にはそれが許されないのか――いや、むしろ、最初から一人だったら……こんな思い、せずに済んだと思わないか?』
「なにが、言いたい?」
立ち上がり、声に聞き返す。
この声の正体は――
『いっそのこと、一から――いや、ゼロから作り上げてみないか?無慈悲な女神の世界など……弟の住む世界など破壊して、自分の望みのままの世界を』
無茶な話だった。
しかし、同時に、とても魅力的な誘いに聞こえた。
目の前に、あのエジーナの黒い鏡が浮かび上がる。
その黒き鏡面に、ぼんやりと文字が映し出された。
――エジー……ナ……いや、これは……
アニス。
かつて、大樹の力と共にありながら、女神になりそこねた魔女。
これこそ、世界を闇に陥れた大魔女の鏡。
――マナの世界を破壊せよ――自分が望むままの世界を作り出せ――
……出来るような気がした。
幻夢の主教としての役目など、もう、どうでもいい。
むしろ、これこそが、自分がいにしえの魔法を受け継いだ理由のような気がした。
『これは、チャンスだ』
声が聞こえる。
『おまえという存在を知らしめる、最初で、最後のチャンスだ。同じ顔、同じ血を引く者は、この世に二人もいらない』
――この、声の主は――
ぼんやりと、鏡に人影が映る。
鏡に映るその姿は――
『幻影が、真実を喰らう時が来た』
――もう一人の、自分――
「……大臣が死んだ?」
「一応言っておくけど、誰もなにもしてないよ。突然の発作さ」
「フン。どちらでも同じだ」
主教は、二人――アナイスとバジリオスに振り返ると、
「邪魔者は消えた。では、これよりΨ計画を実行に移す」
その宣言を合図に、バジリオスはマントをひるがえして立ち去り、
「さーて、楽しくなりそうだね」
アナイスも、無邪気な笑顔を浮かべて立ち去る。
一人になると、エジーナの――いや、アニスの黒い鏡の前に立つ。
「……皮肉なものだな」
何度も壊してやりたい衝動に駆られたというのに、今は大切に、堂々と祭壇に安置されている。
その鏡面に映る自分の姿をぼんやりとながめながら、自嘲気味な笑みを浮かべ、
「幻夢の主教が、幻夢に取り憑かれるなんて……」
もう、進むしかない。
この心地よい歌声に導かれ、暗い闇の世界へと――
◇ ◇ ◇
「――いったい、誰が戦争なんか始めるんだ?」
ロジェの問いかけに、一瞬、船内が静かになる。
「誰が、どうして戦争なんかやりたがるんだ?」
しばらくして、
「――欲しいものがあるから、奪う」
ジェレミアが口を開き、視線が彼女に集まる。
「気に食わないから……恨みがあるから……こわいから、叩き潰す」
「世の中は、ムダに血の気の多いバカどもで、あふれかえってる……」
* * *
「――主教の言っていたこと、あれは本心でしょうか?」
王城のテラスから外を見ていると、ふいに、バジリオスがそんなことを口にする。
隣にいたアナイスは、顔だけバジリオスのほうに向け、
「うん?『宇宙の創造』とかいう、あれ?」
「……本当に、それが望みでしょうか?」
仮面の向こうの表情は読み取れないが、アナイスは特に気にしたふうでもなく、
「ま、本人がそう言ってるんだ。そういうことにしといてやりなよ」
いつもの軽薄な笑顔で、そう答えた。
◆ ◆ ◆
黒い鏡が、歌声と共にある光景を映し出す。
敗北を悟った一人の銀髪の女が、戦艦を特攻させ――逆に迎撃され、船ごと海へと沈んで行った。
そして今度は、一人の男を映し出す。
戦いに勝ったというのに、男は力なく、すべてに絶望したように、がっくりとうなだれていた。
その光景に――笑いがこみ上げてくる。
「――そうだ。苦しめ。絶望しろ。おまえの大切なもの……守りたいもの、すべて奪い去ってやる。ハハッ……アハハッ……!」
『裏切り者』と罵られ、帰る故郷を失い、戦いに明け暮れても流れを止めることは出来ず、愛する者を失い――
笑いが止まらない。実の弟の不幸が、楽しくて仕方がない。
なのになぜだろう。
涙が止まらないのは――
* * *
「――ところで、王の望みはなんだったでしょうか?」
バジリオスのもうひとつの問いかけに、アナイスは迷うことなく、
「言っただろう?僕は僕の、新しい王国を作るのさ」
無邪気な笑顔で答える。
「……では、そういうことにしておきましょう……」
彼女は軽く仮面を直すと、空を見上げる。
アナイスも、バジリオスと同じ方角に目を向けると、太陽を背に、影が見えた。
「――来たね」
四枚の翼を持つ獣に引かれた、世界の命運を乗せるには、なんとも小さな一隻の船。
しかし、大きな希望を乗せた船。
「待っていたよ。ロジェ」
アナイスは、不適な笑みを浮かべる。
◆ ◆ ◆
――そう。待っていた。ずっと、待っていた……
どんなに切ろうとも、決して切れることはない糸に導かれるように、必ず帰ってくる。
きっと、この闇の底から引っ張り出してくれる。
「――こ、こいつは、どうなってやがるんだ!?」
ついにミラージュパレスにたどり着いた者達が動揺する中、ただ一人、まっすぐこちらを見つめる目があった。
鏡ごしではない。まぼろしでもない。ずっと、ずっと待ち続けた、自分の愛しい半身。
その目をまっすぐ見据え、
「……お帰り、弟よ」
暗く、冷たい微笑みを浮かべ、帰郷した弟を出迎えた。