「行き止まり!?」
いや、正確には橋があった。
橋と言っても、断崖絶壁から勢いよく流れ落ちる滝の前に、一本の太い丸太が倒れているだけだ。一体誰が、なんの目的で倒したのかは知らないが。
しかも滝からの水しぶきで濡れ、緑の苔がびっしり生えている。渡るなど自殺行為だ。
「まったく、どーなってんだよ。なんでラビがあんな狂暴化してんだ?」
戸惑うネスに、ボブはハッとした顔で、
「――まさか伝説の黒き滅びの化身!? ちくしょう、あれほどダメだって言われてたのに、誰かがついにやりやがったんだ! ラビ百羽狩り……!」
「えぇ~……」
それ、マジで言ってんのか?
相当混乱しているのか、わけのわからないことを言い出すボブに、胸中でつっこむ。
ラビの一匹や二匹、たいしたことはない。むしろ捕まえて、献立を考えるくらいだ。
しかし、今日は異常だった。
一匹や二匹ではない。さっき見かけただけでも十匹くらいはいた。それが噛みつく気満々で向かってきたら、さすがに逃げるしかない。
「――ぷきっ!」
『げ』
茂みから飛び出してきた黄色の毛玉に、硬直する。
一匹出たらもう一匹。黄色のボールに長い耳を生やし、体の半分はあるピンクの丸いシッポがついたようなウサギのモンスター。
どちらかというと狩る対象か、かわいいペットのイメージしかなかったが、どうやら認識を改めなければならないようだ。
「ぷきーーーーー!」
突進してきたラビの群れに、ボブとネスは左右に散り――こちらはとっさに、丸太橋に乗っていた。
「あ……」
己の無意識を悔やむが、もう遅い。
「ちょ、ちょっと……」
丸太の上を、じりじり後退する。そして丸太に乗ってきたラビもまた、じりじり迫ってくる。
滝からの飛沫が冷たい。苔の柔らかい感触が、靴越しに伝わってくる。さすがに下を見ることは出来なかった。
「あっち行って!」
とっさに、さっき拾っておいた石をラビに思い切り投げつける。
――ひゅぱん!
適当に狙ったのだが――石が命中したラビは悲鳴を上げる暇もないまま盛大に吹っ飛び、何度か地面をバウンドすると、ひっくり返ったまま動かなくなった。
一瞬、静かになる。
「ぷきっ! ぷきゅっ!」
「キュー!」
さささっ、と、ラビが一斉に後退すると、一目散に森の奥へと一斉に逃げ出す。
「え? あれ?」
ざあぁぁぁぁ……と、滝の音だけが響く。
隠れていたボブとネスが出てくると、手にした小枝で石が命中したラビをつんつんつつく。
そして、
「し……しんでる……」
「お前の怪力、相変わらずバグってんな……」
「え? そんなに強かった?」
うっかり仕留めてしまったらしい。とっさのことで、力加減が出来なかった。
ボブは、とりあえずラビを拾い上げると、気を取り直した様子で、
「まー、とりあえずこれは夕飯に持って帰るとして。ちょうどいいや。おまえ、そのまま向こう岸まで渡って、なんかないか見て来い」
「無茶苦茶言わないでよ! 帰り――」
ずるっ、と、足元が、滑った。
「どうし――」
一瞬だった。
視界がぐるりと回転し、全身を、浮遊感が襲った。
* * *
「……宝探し?」
ボブの突拍子もない思いつきに、思わず聞き返す。
川に垂らした釣り糸はまるで反応せず、三人もいて一匹も釣れる気配がなかった。
退屈なのはわかるが、自分達ももうそこまで子供ではない。仕事だってもう大人と同じだし、十歳やそこらで都へ奉公に出る者もいるくらいだ。
だから彼の思いつきは、子供が遊びの延長で思いつくような――実に『幼稚』なものだった。
そんなことはお構いなしに、ボブは指を立て、
「昔、ばーちゃんから聞いたことあるんだよ。滝の辺りで光るものを見たって。なにか金目のものが埋まってるかもしれないぜ」
「埋まってるのが、どうやって光るんだよ」
思わず本音を漏らしたネスの頭を、釣り竿で叩く。基本的に、ボブは口より先に手を出す。そして、他人の意見に耳を貸すこともない。自分が中心でなければ気が済まないのだ。
彼は釣り竿をしまうと、
「よし、決まりだ。さっそく行くぞ」
「あの……僕、帰ってプリシラの面倒見ないと」
「もうそこまで手が焼ける年じゃねぇだろ。第一、おまえがいるといつも釣れねーんだ! 責任取れ!」
「はあ……」
なんの責任だろう。
自分に魚を追っ払う能力があった覚えはないが、こういう時、いつも自分のせいにされる。だったら誘わないで欲しいのに、それもしない。
ささやかな抵抗もむなしく、『宝探し』は始まり――
そして、今に至る。
「だから嫌なんだよ……『つるむ』ってのは」
錆びた剣で生い茂った草を切り払いながら、ぶつぶつ文句を言う。
我ながら、よく生きていたと思う。
一応、服は絞って脱水したが、乾かしている暇はない。額に貼り付く髪をかき上げ、帰路を急ぐ。
「――げ」
ラビの姿に、思わず足を止める。
幸い一匹だけだったようで、向こうから逃げ出す。ラビも、一匹では人を襲う根性はないらしい。
「…………」
嫌な感じだった。
『なにが』と言われると答えようがないのだが、妙な感じだった。
ラビの狂暴化はもちろんだが、森全体が、静かすぎる。鳥のさえずりすらしない。
何かが、おかしい。
「……早く帰らないと」
手にした剣に目をやる。
おかしいといえば、この剣もそうだった。
なぜか川の中に一本、突き刺さっていた。
ずいぶん長く放置されていたのか、錆び付き、元の姿もわからないくらいのひどいありさまだ。
こんなボロい剣など放っておいてもよかったのだが、道に雑草が生い茂って刃物がないと不便だったことと――なぜか、放っておくことがいけないような、そんな気がした。
「村は……あっちかな」
影の向きで方角を、頭の中で地図を描きながら、村への帰路を急いだ。
森を抜けると、見覚えのある小さな古い家が視界に入った。
ポトス村の外れに出たらしい。今朝、掃除をしていた小さな家にたどり着いた。
「ここに繋がってたか……」
ほとんど勘だったが、当たりだったようだ。
「――おにーちゃん! おかえりー!」
窓から見えたのか、同居人の長い赤毛の少女が家から出てくる。
彼女は本を手にこちらに駆け寄り――きょとんとした顔で、
「おにーちゃん、なんでぬれてるの? 川におちたの?」
「まあ、そんなトコかな……」
「ケガ、ない? いたいトコは?」
「それは大丈夫」
五歳児に心配されている。情けないと嘆くべきか、この年で気遣い出来る妹分に喜ぶべきか。
「プリシラ、またなにか本探してたの?」
「うん。ねー、きょうはこれよんで」
「ああ、これ……」
プリシラが持ってきた古い絵本に、懐かしい気分になる。読んだのは小さい頃に一度きりなので、内容はよく覚えていないが。
顔をそらし、くしゃみをする。気が緩んだのか、急に寒気がしてきた。
「カゼ? だいじょうぶ? あしたにする?」
「大丈夫、大丈夫……」
とは言うものの、濡れたまま森の中を歩き回り、さすがに冷えたようだ。
「ところで、ボブにいちゃんたちといっしょだったんじゃないの?」
「……あ」
思い出した。なごんでる場合じゃない。
「ちょっと先帰るね。本は後で」
「はーい」
素直に返事する妹分を残し、足早に家へ向かう。
どうせあの二人のことだ。自分達に都合のいいよう言いふらしているに違いない。もしくは死んだと思っているか。
すべての元凶がこちらだと言うなら、連れ回さないでほっといてくれればいいのに。それとも、不都合を押しつけるための要員か?
「――ランディ!? 無事じゃったか!」
考え事をしている間に家の近くまで来たらしい。先に気づいた養父が、血相を変えて駆け寄ってくる。
年のせいか、わずかな距離なのに息を切らしながら、
「大丈夫じゃったか? ケガは?」
「うん……ケガはないから大丈夫」
「――なんだよ、生きてやがったか! まったく、驚かせやがって! このドジ!」
「だからやめようって言ったんだよ」
「…………」
そう怒鳴る二人には、あちこちラビの噛み跡がついていた。どうやらあの後、また襲われたようだ。運が良かったのか悪かったのか、よくわからない。
「うん? お前……それはなんじゃ?」
「お? まさか、なんか見つけたのか?」
「え? マジでお宝? やるじゃん」
ボブとネスは目の色を変えるが、養父だけは違った。
「川に刺さってたんだけど……これって、剣だよね?」
「剣……川じゃと? 滝の下の?」
うなずくと、養父の顔から血の気が引く。
「お前……それは聖剣じゃ! なんということじゃ! 誰にも抜けないと思っていたのに!」
「聖剣?」
これが?
唐突なことにぽかんとしていると、ボブも血相を変えて、
「聖剣だって? 聞いたことあるぞ! それが抜けたら村がおしまいだってヤツじゃねぇか!」
「え? いや、そんな……」
そんなまさか。
聖剣の話なら聞いたことはあるが、どれもおとぎ話の中でのことだ。あまりに現実味がない。
しかしネスまで、難しい顔で、
「……でも、たしかに今日はヘンだったよな。あんなに狂暴化したラビ、初めて見た」
「まさか、聖剣が抜けたせいじゃないだろうな!?」
「そんなこと言われても……」
第一、ラビに襲われたのは剣を抜く前だ。
しかし、そんなことが通じるボブではない。ダメだと言われていることほどやりたがるくせ、妙に迷信深いところがある。
「――わかったよ! じゃあ、元の場所に戻せばいいんでしょ!?」
「あ! こら待て!」
ヤケクソになって宣言すると、剣を抱えて走り出す。
「ちょっと! やめろって!」
「おまえのせいで、こっちはラビに噛まれまくって――」
村の広場に入ったところで肩をつかまれ――足元に、違和感を感じた。
「え?」
違和感の原因を考えるより早く、今度は地面が、揺れた。
「なんだ!? 地震か!?」
大きな揺れだ。驚いたのか、周辺の家や店から人が飛び出してくるのが見えた。
そして、足元の違和感の正体。
「あ――」
地面に、亀裂が走る。
そうだ。薄い板の上にいるような、そんな感じだ。そしてもう、手遅れだった。
足元が、一気に沈んだ。
……今日はよく落ちる日だ。
なんとか体を起こす。斜面を滑り落ち、体のあちこちすりむいたが、幸い動けなくなるようなケガはしていない。こんな状況でありながら、剣は握ったままだった。
「――おーい! 大丈夫か!?」
顔を上げると、落ちてきた穴の向こうに人影が見えた。
――誰?
逆光で、影しか見えない。声も聞き慣れない。それなりに年を取った男のようではあったが。
穴は、身長の倍はあろうかという深さだった。じめじめと湿っぽい空気が肌にまとわりつき、遠くから水が漏れるような音がする。少なくとも、誰かがイタズラで掘った程度の穴ではない。
村の地下にこんな空間があったなんて想像もしたことがなかった。この上は広場だが、もし家があったら大変だったかもしれない。
「お、おい、あれ……」
「え?」
一緒に落ちたボブが、暗がりの向こうを指さしている。
なにか、いる。
「――明かりを!」
「なに?」
「何かいる! 明かりを!」
上にいる男に向かって叫ぶ。
それが何かはわからない。
しかし、体の奥底から、危険を知らせるアラームが鳴り響く。
こちらの声に緊急性を感じたのだろう。ほどなく、火がついた松明が数本落とされる。
一本拾うと、奥の暗がりへと放り投げる。
土に埋もれた、巨大な石だった。
「なんだ、石かよ……」
ボブの安堵した声が聞こえたが、違う。
「え?」
石が、動いている。
ぼこっ、と、石のでこぼこの表面が崩れ、曲線を描いた何かが出てきた。
――鎌?
もう一本、火のついた松明を放り投げると、石のあちこちに亀裂が走っているのが見えた。
もしかすると、巨大な石だと思ったものは、石ではなかったのかもしれない。
まるで卵からひな鳥がふ化するように、石が割れ、中から何かが出てくる。
「ひっ!?」
ボブが悲鳴を上げ、転がるように逃げた。
「……え?」
一方で、こちらは理解が出来なかった。
たとえばこれが卵なら、出てくるのは鳥をイメージするが、考えてみれば卵を産むのは鳥だけではない。
――オォオオオオオォォォォォォォォッ!
石が完全に砕け落ち――こちらの身長の倍近くはあろうかという『それ』は、奇妙な雄叫びを上げて、のっそりと二本足で立ち上がった。
なにこれ。
怖いとは違う。ただ、今のこの状況が理解出来ない――いや、理解することを拒んでいるかのように、体が動かなかった。
「――おい、どうした!? 今の音はなんだ!?」
頭上からの声に、我に返る。
とたんに、呪縛が解けたように体の感覚が戻る。
「――化け物……」
「は?」
「カマキリの化け物がいる!」
伝えることよりも、自分に言い聞かせるよう叫ぶ。
カマキリといっても、顔はアリで、体は鎧のような硬そうな装甲に守られている。カマキリだと思ったのは、手にあたる部分が、両方とも巨大な鎌になっていたからだ。あんなもので斬られたら、人間の体など真っ二つだろう。
「おっ、おまえ! 剣持ってんだろ! なんとかしろ!」
「え?」
現実を受け入れたのは自分だけではなかったらしい。振り返ると、顔面蒼白のボブが岩陰からわずかに顔を出して叫んでいた。まあ、たしかに剣を持ってはいたが――
戦えと?
無理難題を要求するボブに、怒りよりも、気持ちが冷めていくのを感じる。
昔からそうだ。日頃親分面をするくせ、自分がピンチになるとこちらに押しつけ真っ先に逃げ出す。
しかし、今回はそうもいかない。今すぐ自力で出るなど無理。そしてあんな怪物がいるとわかって、誰かが来てくれることもないだろう。
「――――!」
鎌が、振り上げられる。
反射的に後ろへ逃げようとするが、足がもつれて仰向けに転倒する。
「う……」
目を開けると、一瞬、視界が赤くなった。
額に手を当てると、ぬるりと温かいものが手を濡らし、地面に流れ落ちていく。血だ。
「おい、どうした!? ――はしごはまだか!? ロープでもいい!」
こちらの状況がわからず、上から焦ったような声が聞こえたが、そんなものはどうでもいい。穴の中のただならぬ気配に、村人達はこのまま穴を塞ぐことを考えているのかもしれない。
いつだってそう。
誰も助けてはくれない。
一人で堪え忍び、過ぎ去るのを待つだけ。
しかし今回ばかりは、待つのは死だった。死。死、死――
ぞわりと、全身が粟立つ。
鼓動が激しくなり、息が荒くなる。
死ぬ。死んでしまう。
「うっ……くぅ……」
うつぶせに転がると、血でべっとり濡れた手で、落とした剣をつかむ。
そして全身に力を込めると、剣を支えに立ち上がる。
立ってどうする。いっそあのまま寝ていれば、後はあの怪物が終わらせてくれたというのに。さらにその後のことなど知ったことではない。
なのに、立っていた。
なんなんだ一体。リアルな死に直面して、本能が死への拒絶反応でも起こしているのか?
顔を上げると、怪物は緩慢な動きでこちらを捜しているようだった。目が悪いのか暗いからか、こちらの姿がよく見えていないのかもしれない。
大きく息を吐く。
手足は違う。致命傷にはならない。
胴体。太すぎる。
なら、首。
剣を構える。
使ったことなどない。ほとんど勘で、下段に構える。
体が熱い。しかし頭の中は、妙にクリアだった。
深く息を吸い――地面を蹴る。
何も聞こえない。
誰かが叫んでいたかもしれない。
自分が叫んでいたかもしれない。
しかし、周りの音も、自分の声も、何も聞こえない。
ただ一点――怪物の、首しか見えなかった。
まるでそれ以外の情報すべてを遮断してしまったかのように、暑さも寒さも、痛みも、何かに触れた感覚も、何も感じない。
異様に長い一瞬だった。
次に起こったのは、地面との激突だった。
暗闇の中、地面を二転三転し、止まる。何が起こったのか、何をやったのかもよくわからない。
「――おい! しっかりしろ!」
突然体を揺さぶられ、目を開ける。一瞬、意識がぶっ飛んでいたらしい。
声からして、穴の上にいた男のようだ。暗くて顔はよくわからないが、少なくとも村の者ではなさそうだ。
体がだるい。頭がぼんやりする。
男は、こちらのこめかみを布で押さえながら、
「大丈夫だ。そんなに深くはない」
そういえば、ケガをしたんだった。今頃になって痛みだす。
生きてる。
そのことに、気が緩むのを感じながら、
「あの……ありがとうございます。助けてもらって」
「なに?」
男は、なぜか驚いたようだった。
「――うわっ!? なんだこの化け物!?」
「ウソだろ? こんなの……あいつが?」
男の後方から声が聞こえた。
村の者が何人か下りてきたらしい。体を起こすと、松明の炎に辺りが照らされていた。
「覚えていないのか? ……キミがやったんだぞ」
「え?」
炎に照らされた先――
そこにはカマキリの体が。そして少し離れた場所に、アリの頭が転がっていた。