「ねー。私も喉乾いた」
「え? 水は?」
「水?」
きょとんとするプリムに、水筒を開ける手を止める。
一瞬の沈黙ののち、
「……飲む?」
「あら、ありがとう」
遠慮なく水筒を受け取り、残量も考えずにグイグイ飲む。
「ところで……気になってたけど、荷物ってそれだけ?」
「そうよ。急いでたし、これより大きいバッグ持ってないのよ」
「そうなんだ……」
逆に言うと、これまで荷物を持つ必要自体、彼女にはなかったのだろう。
旅行もお出かけも、荷物はみんな召使いが世話してくれる。今持っているバッグの中身も、化粧品やアクセサリーかもしれない。
……イライラする。
貴族の娘とは、みんなこんななのか? これではまだ、村の五歳児のほうがマシだ。
「ところで結構歩いたと思うんだけど、妖魔の森ってそろそろ? それとも、もう入ったの?」
「……まだ先だよ。半分ってとこ」
「半分!?」
ひどく驚いた顔をし――肩を落とすと、
「あーあ、こんなに遠いとは思わなかったわ……」
「じゃあ帰ろう。今からなら、日が暮れる頃には帰れる」
「イヤよ! ディラックを助けるまで、私は帰らないわ!」
「でも、危ないよ。さっきみたいなゴブリンがまた出てくるかも……」
「平気よ。こう見えても私、小さい頃から色んな武術習ってるの。格闘技だって道場で一番強いんだから!」
「そう……すごいね……」
自信満々に虚空を殴るプリムに、生返事で返す。
どうするつもりなんだ?
道は知らない。水すら持っていない。それでどうやってディラックとやらを助けるというのだ?
これでは森につく前に、のたれ死ぬのが先だ。
「でも、どうにかなるもんよね」
「何が?」
「家を出て、さすがにちょっと不安だったけど、あなたに会えたし。これならなんとかなりそう」
不安なのはこっちだ。
のど元まで出かかった言葉を飲み込む。
このままではこちらの身が危ない。どこかで撒いてしまおう。
「ここを左に曲がるとキッポ村だから、一泊して――」
「寄り道してる暇なんてないわよ! ホラ、急いで!」
「いや、でも、」
「ディラックが先よ! 私のほうがお姉さんなんだから、言うこと聞きなさい!」
「ちょっとしか違わないじゃん……」
結局、こちらの当初の予定は崩れた。
本当に、なんなんだこの子は。この先、水も食糧も、こちらが全部用意してくれるとでも思っているのだろうか? むしろ、差しだしてくれて当然だから、思いつきすらしないのか?
イライラする。
「――ちょっと。妖魔の森はこっちよ。どこ行くのよ?」
分かれ道に設置された看板の文字に、プリムが声を上げる。
どれくらい歩いただろうか。とうとう撒く機会に恵まれないまま、日が傾いてきた頃だった。
とにかくよくしゃべる女だった。聞いてもいないのにディラックとやらとのなれそめやらのろけ話、そして時々、腹が減った足が疲れたまだなのかと文句を言う。
そのたびに帰るよう促しても、嫌だ帰らないの一点張り。本当に体力の限界で歩けなくなってくれたならまだ救いはあったが、武術を習っていると言うだけあって体力はあったらしい。文句を言いながらも、リタイヤする気配はなかった。
しかし――こちらはもう、限界だった。
「……僕はガイアのへそに用事があるんだよ」
「何言ってるのよ! 助けてあげたでしょ? 今度はディラックを助けるわよ!」
「――知らないよそんな人!」
気がつくと、感情のままに怒鳴っていた。
なんだこの感じ。
「一体なんなんだよ! たしかに助けてもらったことには感謝してるよ! してるけど! 恩着せてあれこれ要求するのは違うだろ! 地図も水も持たないで全部人任せ! 便利な召使いかなにかだと思ってるの!?」
溜まりに溜まったものを、一気にまくし立てる。
怒鳴られるとは夢にも思っていなかったのだろう。彼女は驚いた顔で、口をぱくぱくさせていたが、
「ご……ごめん……そんな、つもりは……」
やっとという感じで、声を絞り出す。
「で、でも……急がなきゃ、ディラックがあぶない……」
「こっちの身が危険になることはいいってわけ? ディラック以外の人の命は、どうなってもいいってわけ!?」
――ぱんっ!
頬をひっぱたかれる。
見ると、ひっぱたいた本人が驚いた顔をしていたが、やがて、目に涙を浮かべて、
「な……なによ。そんなわけ……ないわよ」
声が震えている。人間、反論出来ないと手が出るらしい。
イライラする。
「あ……ちょ、ちょっと! ホントに行っちゃうの!? 人でなし! 冷血!」
いったん足を止め――再び、ガイアのへその方角へと歩き出す。
プリムは慌てた様子で、
「ご、ごめん! ぶったりして! 今のも取り消す! でも私――」
音が消える。
後ろで、まだなにか騒いでいるようだったが、何も聞こえない。
……イライラする。
「なんだかずいぶん落ち込んでるな。お前さん、いつもそんななのか?」
「え?」
「……重いな」
ワッツというドワーフの鍛冶屋は、袋ごと渡した剣の重みに眉をひそめる。
ドワーフには初めて会ったが、ススで肌は真っ黒、ヒゲは剃る習慣がないらしく伸ばしっぱなしで、顔のほとんどがヒゲに埋もれていた。角の生えた兜からは、ゴワゴワの髪がはみ出している。
ドワーフの集落は、真っ暗な洞窟の奥にあった。そのため昼夜というものがないらしく、いつ来ても誰かが寝ていて、誰かが起きているのだという。
現に外は夜だというのに、このワッツの店は明かりが灯され、経営中だった。
彼は、袋から剣を出すと、
「うーん……こいつはひでぇな。かわいそうに」
「かわいそう?」
ワッツは工具を取り出すと、剣の刃と柄を分解しながら、
「かわいそうだろ。こんなボロボロになるまで放っておかれて。よーし、オレがまた活躍出来るようしてやるからな」
「かわいそう……」
そんな風に考えたことはなかった。
これまでずっと、誰の目に触れることもなく、ひたすらあの場所に刺さっていたのだ。
『守り神』と言うなら、もっと大事に扱ってやればいいというのに。それどころか、疫病神のように、出て行く人間に押しつけて。
「直りそうですか?」
「まかせとけって。こうやって磨いて錆びを落として、それから打ち直して……ま、ジェマさんの紹介だ。明日までにはなんとかしてやるさ」
「お願いします」
そう言っている間にも、すでにワッツはヤスリで磨きに入っている。
その顔はすでに職人の顔で、こちらの声など、もう何も聞こえていないようだった。
――知らないよそんな人!
目的地に到着し、村の村長宅に宿も取った。
あとはもう寝るだけだというのに、脳裏によぎるのは、あの時、自分が言った言葉だった。
どうして、あんなことを言ってしまったのだろう。
彼女の身勝手に苛立ったのは確かだが、人に対して、あそこまで怒ったのは初めてだ。
どうしてだろう。ここ数日の出来事で鬱憤が溜まっていたのだろうか? それとも、金持ち貴族への偏見か?
「最悪だ……」
だとしたら、完全に八つ当たりだ。しかも、あんな何が出るかもわからない場所に置き去り。いくら腹が立ったからとはいえ、これは人としてどうなんだ?
疲れているはずなのにまるで眠れない。仕方ないので宿の外に出る。
「よくこんなトコに住めるな……」
ドワーフの村は、一言で言うと巨大なすり鉢の中だった。
元は穴の中の大きな空洞に、坂道を作るように岸壁を削り、途中、横穴を掘ってねぐらを作り……宿を兼業している村長宅は、すり鉢の上の辺りだった。落下防止のための柵が設けられ、身を乗り出すと、下の道とその道沿いに掘られた穴が、そしてさらにその向こうには、村に入る時に通った広場と、外へ繋がる洞窟の穴が見える。
穴の中はあちこち常にかがり火が焚かれ、視界に困ることはない。とはいえ、薄暗くて、遠くを見る時は自然と凝視してしまう。
この薄暗さに気分が沈みっぱなしだというのに、ドワーフ達はよく平気でいられるものだ。
「――痛っ!」
突然、手に鋭い痛みが走る。
「なにこれ……」
柵に、トゲの生えた蔓が伸びていた。
蔓は柵の下――その下の階層の壁にもびっしり生えており、そこから伸びてきたらしい。そのうち、この柵も全体が蔦で覆われるかもしれない。
「あー、とうとうここまで伸びてきたべか」
「これ、なんなんです?」
通りすがりのドワーフに聞くと、彼はなまり混じりに、
「なんか二、三日前から急に伸びてきてよー。切っても焼いても、またすぐ伸びてきてよ。仕方ねぇから、そのままにしてるだ」
「そ、そうですか……」
礼を言い、ドワーフを見送る。
二、三日前――聖剣を抜いた頃だ。
というか、まだ二、三日しか経っていないことに驚く。わずか数日で、よくもまあ、こんなところまで来たもんだ。あのお嬢様のせいでもあるが。
「――シクシク……ああ、やさしいおにいさま……どうかお助けください……」
「え?」
突然、足元から聞こえてきた声に視線を落とすと、地面に突っ伏した長い赤毛の子供が、服の裾をつかんでいた。頭には二枚の羽根飾りが耳みたいに刺さり、ぶかぶかの緑のローブを着ている。どう見てもドワーフではない。
「洪水でながされ、こんなところまでまよいこんでしまいました……帰りたくても記憶がなく、おカネもない……ああ、せめておカネが……おカネがあれば家をさがしにいけるのに……」
はらはら涙が流れる顔を上げ、悲壮感たっぷりに訴えてくる。
「あ、あのさ……」
「ああ~。この不幸をともになげいてくれる心やさしいかた~。五百ルク、いえ、百ルクでもかまいません。どうかおめぐみを~」
こんなところでまさかの物乞い。
体の大きさはプリシラと大差ない。そんな子供が物乞いなど、気の毒ではあるのだが、
「……悪いんだけど、おじいちゃんが貯めた大事なお金なんだ」
「では、五十ルクで手をうちましょう」
「そういう問題じゃなくて」
財布が狙われている。
小さい子供相手では、あまり強くも言えない。困っていると、
「――こりゃチビすけ! な~にをやっとるだおまえは!」
びくっ! と、『チビすけ』がすくみ上る。
さっきとは別のドワーフの老人――この村の村長が、のしのしとこちらに向かってくる。
「それはもうやめろと言うたべ! じいちゃんの言うこと聞けんか!?」
『チビすけ』は、ちっ、と舌打ちして立ち上がると、
「ヘン! オイラの演技力をもってすれば、カネくらい自分でかせぐってんだ!」
「バカモン! 金どころか、どこへ帰りゃいいかもわからんくせに! えらそーなこと言うな!」
「べー、だ! あばよ! ケチのにーちゃん!」
舌を出し、捨てゼリフを残すと、『チビすけ』は一目散に逃げ出した。
「妖精?」
「そうですだ。洪水で流れ流れて、この地まで。どうにもそのショックで記憶を無くしちまったようだべ。おかげですっかりひねくれて、憎まれ口ばかり叩いて……意地張ってるだけですだ。勘弁してやってくだせぇ」
「あ、いえ、こちらこそすみません」
家に戻り、お茶を出してくれた村長に、養父と同類のものを感じる。どこにでも一人はいるようだ。
出されたお茶をすすり、ふと、壁の地図に目が留まる。
「……洪水で流れてきたってことは、川上に故郷があるんじゃあ?」
「川上?」
席を立ち、この辺り一帯の地図の前に立つ。
単純なことだ。
『ガイア低地』と呼ばれるこの地は、周辺の地形がすり鉢状にくぼんでいて、この集落がある『へそ』に水が下ってくる。その逆をたどればいい。
「ここから北に水の神殿が。その辺りに集落はないから、たぶんもっと上……ほら、上の大地まで繋がってます。その辺りかも」
「あ~、たしかに……」
「でも、上の大地となると結構な距離のはず……よく無事だったなぁ」
普通なら、溺れ死んでいる。
「妖精って言ってましたよね?」
「そうですだ。あの羽根飾りや服装は、『妖精族』っちゅー、魔法を得意としている一族伝統の格好ですだ。どこかに集落があるちゅー話ですが……そうか、上の大地だったべか……」
「妖精、かぁ……」
きっとそんなもの、ポトス村の者達は信じないだろう。
自分も、さっき見た時はただの子供だと思った。
それなのに、『妖精』という言葉をすんなり受け入れている自分に気づく。
――ずしんっ。
突然、穴全体が揺れる。
「地震?」
「最近、多いですだ。なにかよくない前触れ――」
言葉を遮るように、悲鳴が聞こえた。
「チビすけ!?」
悲鳴の主がわかったらしい。村長が玄関のドアを開けようとして――開かない。
「どうしたんですか?」
「どうしたもこうしたも……どうなって……」
代わると、確かに、ドア自体に鍵がかかっているわけでもなく、ちゃんと開いている。
しかし、押しても少ししか開かない。何かがドアの前を塞ぎ、開ける邪魔をしている。
「――ええい、面倒だべ!」
声に振り返ると、村長が近くに置いていた斧を振り上げていた。
慌てて退くと、ちょうつがい目がけて斧を振り下ろす。もうヤケクソだ。
壊れたドアが内側に倒れ――出入り口を塞いでいたものの正体に、一瞬、言葉を失う。
「なにこれ……」
蔦だった。
外で見たあの蔦が、びっしりと出口を塞いでいる。
「邪魔だ!」
再び村長が斧を振るい、強引に蔦を引きちぎる。ようやく外が見えたが、こちらも蔓でびっしりだ。足の踏み場もない。
わずか数分。その間に一気に成長し、今もなお、伸び続けている。
「チビすけ! チビすけぇっ!」
「じっ、じいちゃ……たっ、たす……」
村長は蔓を踏みつけ、柵に絡まる蔓を斧の背で払いのけ、身を乗り出す。自分も隣で身を乗り出すと、最下層の広場のど真ん中から天井に向かって、腕の太さはあろうかという蔓が大量に伸びていた。
そして、その蔓の一本に体を縛られたさっきの妖精が、天井近くまで持ち上げられていた。
広場周辺では、松明の火が積み荷や蔓に引火したのだろう。その炎と煙に紛れて、トゲだらけの、巨大な丸い塊が見えた。
さっきまであんなものはなかった。周辺の地面が盛り上がっているから、地中から生えてきたのかもしれない。
「あ、あれは……バド!?」
「バド?」
「大昔に、地中深くに封じられた怪物ですだ! それが、どうして……」
丸い塊が、四つにぱっかり割れる。
――キシャアァァァァァァァ――
そして雄叫びを上げながら、蛇のような体をした怪物が、中から飛び出した。
「ギャーーーーーー! たすけろ! いや、だずげろぐだざいーーーーーーーーー!」
「チビすけーーーーーーー!」
怪物の姿に、妖精が半狂乱になって叫ぶ。
「助けろったって……」
武器はない。道も、どんどん蔓が伸びていき、近づくことさえ困難だ。
「――そうだ! 魔法は!?」
「うぇ?」
「魔法! 妖精なんだろ!? 洪水で流された時も、魔法で身を守ったんじゃないの!?」
一か八かの問いかけに、妖精は涙でぐしゃぐしゃになった顔をこちらに向け――
「ギャーーーーーーー! わかるかそんなもん! 早くたすけろ! だずげでーーーーーーーー!」
「……やっぱそうだよなぁ……」
期待するだけ無駄だった。
「ま、まっとれチビすけ! い、今、助けてやるかんな!」
いつの間にかいなくなっていた村長が、身長くらいはあるロングボウを手に戻ってくる。たしかに、斧よりは遠くまで飛ぶだろうが、
「ちょ、ちょっと待って! まさか、それで蔓を切るつもり!?」
「ええい、止めてくれるな! こっ、こう見えても、若い頃は弓の名手だったべ!」
そうは言うが、手が震えている。
仮にそれで蔓が切れたとしても、あの高さから落ちれば重傷――どころでは済まない。
なら、どうする?
妖精をとらえた蔓をたどり――根元にたどり着く。
「あの、それ貸してください!」
「なに?」
「蔓なんか狙っても意味ない! 『本体』討たないと!」
やはりそうだ。
どの蔓をたどっても、あの『バド』とかいう怪物にたどり着く。きっとこの大量の蔓は、あの怪物の一部なのだ。
「し、しかし、この距離……ギリギリ届かんことはないと思うけんど……」
無視して、受け取った弓に矢をつがえる。
視界が、蔓と火災の煙に遮られる。
その隙間を縫って、バドが見える。
どこを狙う? 頭か? いや――
――根元!
なぜかはわからない。
殻と、体の接合部分。『直感』が、そう決断させる。
世界から、音が消える。
弓を握る手の感覚も、弓弦を引き絞る感触さえ、何も感じない。
急速に視野が狭まり、ただ一点。それ以外、何も見えなくなる。
――キュシャアァァァァァァァァァァ――
世界に音が戻る。真っ先に耳に飛び込んできたのは、怪物の甲高い悲鳴だった。
「す、すごい! 当たった!」
相当効いたのか、もしくは驚いたのか、辺り一面覆い尽くしていた太い蔓がしなびて地面に落ちていく。妖精を捕まえた蔓もだ。
「チビ!」
その隙に、地面を這う蔓を蹴散らし、急いで下の広場へ向かう。
「チビすけ! チビすけ!」
「う~……」
「しっかりするだ! ――それ!」
同じく騒ぎに駆けつけたドワーフ達が、妖精の体を拘束していた蔓を斧で切る。ひとまずこちらは大丈夫だ。
「武器――」
辺りを見渡すと、壁に立てかけられた槍に目が留まる。
「ヤ、ヤバッ! 動き出したべ!」
「逃げるが勝ちーーーーーーーーー!」
自分達の住処だというのに、ドワーフ達は妖精を抱え、慌てて逃げていく。
その後ろ姿を冷めた気分で見送り――槍の柄を、地面に突き立てる。
いつだってそう。
誰も助けてはくれない。
ならば自分で、どうにかするしかない。
どうにかするしかないのだ。
ダメージから立ち直ったバドが、こちらに振り返る。
世界から、音が消える。