「――ヒストリア!? ヒストリア!」
私を呼ぶ声が聞こえた。
ぼんやりとしたまま、声がする方角に頭を傾け――ぎょっとした。
そこには、涙と鼻水で顔をグシャグシャにした彼がいた。
彼は、こちらの手を握りしめたまま、
「ヒストリア! よがっだ……よがっだよおぉぉぉぉぉぉぉ〜!」
まるで子供のように、わんわんと泣いていた。
「――ああ、よかった! 一時はどうなるかと!」
助産師の安堵する声が聞こえ、ようやく状況がわかってきた。私、ホントに死にかけてたんだ。
「ヒストリアァァァァ〜〜〜!」
「ああもう、顔拭いてください!」
呆れ顔の助産師にタオルを投げられ、泣きわめく彼は慌てて顔を拭き――顔を上げると、ニカッ、と満面の笑顔を見せた。泣き腫らした真っ赤な顔を。
この人、ずっと側にいてくれたんだ。
出来ることなんて何もないのに。
なのに私の側にいて、私の手を握って、私のために泣いてくれていた。
なのに私、死のうとしてた。
私を泣かせたクソ野郎のために。
バカみたい。
バッッッッッッッッッッッッッッッカみたい!
「さあさあ。抱いてあげてください。元気な女の子ですよ」
その言葉にハッとなる。見下ろすと、大きかったおなかがぺたんこになっていた。
そして顔を上げると、真っ白なおくるみにくるまれた、真っ赤な顔の赤ちゃんがいた。
もうすでに泣いた後だったのか、静かに眠る赤ん坊を、助産師はゆっくりと私の胸の上に置いてくれた。
恐る恐る、そのぷにぷにした頬をつつき、小さな手のひらに指を触れると、握り返してきた。
「ちっちゃぁ……」
あまりの小ささに、涙が出てきた。こんな小さな体で、懸命に生まれてきてくれたんだ。
なのに私、迷ってしまってごめんなさい。あなたを産むべきじゃないだなんて。
こんなお母さんでごめんなさい。全部自分のせいなのに、あなたのせいになんかして。
こんな私なんかのところでも、来てくれたこと。ありがとう。
顔を上げると、彼と目が会った。
『世界一の幸せ者』のような顔をしていた。
今、世界ではあまたの命が踏み潰され、地獄と化しているのに。そんなことは考えもせず、目の前の命の誕生に感激し、のんきに幸せに浸っている。
私は、そんな彼に微笑みかけ、言った。
「おなかすいた」
その言葉と同時に、腹の虫が鳴った。
彼は一瞬、驚いた顔をし――
「そ、そうだね! 昨日から丸一日、何も食べてないもんね! すぐ何か作るから!」
立ち上がると、慌ててキッチンへ向かう。
空腹を感じたのは久しぶりだった。妊娠してからずっと食欲が湧かず、最近はロクに食べていなかった。
――あのクソ野郎、死んだぞ。
ユミルは、どうして最後にそんなことを伝えたのだろう?
エレンが死んだ。始祖の巨人が死んだ。でも、エレンが勝手に死ぬわけがない。誰かが殺した? 誰が?
「あ……あああああ!」
そうだ。世界を滅ぼす。そんなことを黙ってやらせるわけがないのだ。あの人達が。
元祖、正しさにケンカ売る最高のバカ集団なのだから。
すぐさま兵士を呼ぶと、ジャンの実家へ行き、彼の家族や親族を秘密裏に連れてくるよう命じた。予感通りなら、これから彼の家族がどんな目に遭うかわからない。
そしてラガコ村にも人を向かわせた。無人のはずだが、始祖の巨人が死んだことで、巨人にされたコニーの母親がどうなっているか、確認しなくては。
「――ヒストリア、出来たよ」
指示を出した兵士が慌ただしく出て行くのと入れ違いに、彼が料理の乗った皿を持って現れた。
ハムとチーズ、たっぷりの野菜を挟んだサンドウィッチが運ばれてくると、両手でつかんでかぶりつく。
決めた。私は世界一の嘘つきで、世界一の悪い女になる。
加害者のくせに、なに被害者みたいなツラしてたんだろう。なに『世界一不幸な女』に酔っぱらって、死ぬことばかり考えてたんだろう。あんな口ばっかな男のために! バッカみたい!
それもこれも、ユミルのせいだ。あなたが私を置いてっちゃうから! まんまと、あんなクソ野郎の『都合のいい子』になっちゃったじゃない!
ああ、ユミル! やっぱり私にはあなたしかいない!
「おいしいかい?」
「少ない! もっと持ってこい!」
「ええ!?」
ぺろりと平らげると、カラになった皿を突き返す。
それから私は、とにかく食べた。
行儀なんてあったもんじゃない。パンにかぶりつき、ミルクを一気に飲み干し、チキンだって手づかみで食らいつき、口が油まみれになるのも服が汚れるのもお構いなしに骨までむしゃぶりついた。スープも器に直接口をつけてかき込む。
ちらりと周囲を見渡すと、みんな唖然としていた。しかしそんな中で、彼だけが、ニコニコと私を見ていた。
なんなのこの人。
こんな行儀の悪い女。ちょっとは引くとか叱るとかしなさいよ!
それなのに! なに追加のイモ持ってきてんのよ!
「まだいるかい? 全部食べていいからね!」
なんでそんな嬉しそうなのよ? 私はあなたを利用した、とんでもないクソ女なのよ?
あなたは、そんなことも見抜けないダメ男。
私は、クソ野郎に引っかかったダメ女。
ダメダメ同士で、まるで似た者夫婦じゃない!
「……ごめんなさい……」
「えっ?」
気がつくと、喉の奥から声が漏れていた。
ふかしたイモにかぶりつき、口いっぱいに頬張ると、自然と涙が溢れてきた。ああもう。イモなんか見たら、嫌でもあの子を思い出しちゃうじゃない。ユミルと三人で、他愛ないおしゃべりしたっけ。
「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」
「ヒストリア?」
一体何に謝っているのか、自分でもよくわからない。謝る先が、あまりに多すぎた。
だけど一度流れ出すと、涙も言葉も止まらなかった。ついでにイモを口に運ぶ手も止まらなかった。きっと今の私、すっごく汚い顔してる。
なのに彼は、私の背中をやさしくさすりながら、
「なにに謝ってるのかよくわからないけど……食べるか泣くか、どっちかにしよう? イモは逃げないから」
「逃げるわよバカ……」
我ながら意味不明なことをうめきながら、次のイモを手に取り、かぶりつく。
ああ私、生きてる。