2.親心
十日も過ぎると体を起こせるようになり、顔の包帯もはずれた。
右目はすでに摘出手術をしてくれたらしく、触れるとくぼんでいた。義眼を用意してくれるらしいので、それまでは眼帯をしててくれと医者は言ったが――その眼帯を忘れてきたので、後で届けると言って部屋を去った。
医者が去り、しばらく開けた窓からぼんやり外を眺めていると、子供の声が聞こえた。
声のほうへ目を向けると、数人の子供が、かけっこでもしているのか近くの木の前に集合しているのが見えた。
ほんの数日前までは、世界中は阿鼻叫喚の地獄絵図で、今だって大人達はこれからのことに頭を抱えているだろうに、まるでそんなことはなかったかのようだ。
なんとなく見ていると、子供の一人がこちらに気づき、手を振ってきたので、手くらい振ってやればいいだろうかと思ったが――やめた。
走り去って行く子供達を見送っていると、
「手くらい、振ってあげればいいのに」
見ていたのか、勝手に入ってきたピークが不思議そうな顔をする。
指の足りない手に視線を落とし、
「こんな手見たら怖がるだろ」
「たいして珍しくないですよ。戦場帰りのエルディア人は、手足の一本なくなってることも多いし」
「そんなのに慣れるなんてロクなもんじゃねぇな」
言ってから――ふと、
「……いや、調査兵団もロクなもんじゃねぇか……」
「『手足の一本』になって帰ってくる人も多いんでしたっけ? あ、これ、お医者さんからです」
預かってきたのか、黒い布製の眼帯を差しだす。
「あなたはこれからどうするんです?」
ピークは抱えていたコートを机に起き、イスに腰を下ろすと、
「まずはケガを治すのが最優先でしょうけど……いずれは、パラディ島に帰るおつもりで?」
「わからん」
――一緒に帰りましょう――
コニーにそう言われてからだった。さほどあの島に、未練も思い入れもないことに気づいたのは。
こちらの反応の薄さに、ピークは驚きもせず、
「ま、あなたにしてみれば、あの島は自分や仲間達を裏切った『悪魔の島』ですしね」
イェーガー派のことを言っているらしい。たしかに、脊髄液入りワインをばらまかれ、その後も命を狙われた。自分の立場から見れば、ピークの言う通りなのかもしれない。
かもしれないが、
「……どうだろうな。悪魔は俺のほうかもしれない」
港での戦闘、自分は見ていることしか出来なかった。ハンジやアルミン達には、嫌なことをさせてしまったと思う。
「あいつらは、自分達が一番正しいと信じた道を選択しただけだ。俺達は、俺達が一番後悔しない道を選択して、そのために仲間を斬った。それは事実だ」
「……あなた達は、自分に刃を向けて来た者を『仲間』と呼ぶんですね?」
「選んだ道が違っただけだ。どこかでまた合流するかもしれん」
ピークは呆れともなんとも言えない顔でため息をつくと、
「ま、あなたがそれでいいのなら、私がどうこう言う筋合いはありませんね。……あと、ついでにこれもお返ししておきます」
立ち上がると、机に置いたコートを差しだす。彼女が潜入のために着ていた、調査兵団のコートだった。
「調査兵でもない私が、いつまでもこれを着ているわけにはいきませんから」
「こんなの返されても困る。だいだい、なんで俺に?」
「サイズ合うかと思って」
一瞬、ここ数年ですっかりごつくなった部下達が脳裏をよぎる。もっとも当のピークは、消去法で着れそうな者を選んで持ってきただけなのだろうが……
「みんな着るものにも困ってんだろ。他のヤツに回してやれ」
「それはあなたも同じでしょう?」
「そうかもしれんが、それはもう着ない。……もう、うんざりだ」
「…………」
ピークは少し考え――コートをこちらの膝の上に置くと、
「では、他のふさわしい方に差し上げてください。あなたの仕事です」
「は?」
「私ではどんな人に託せばいいのか、わからないので」
「……なんでお前に仕事を命じられなきゃいけないんだ?」
「まあ、いいじゃないですか」
用事が済んだのか、イスを元の位置に戻す。
「ところで、始祖ユミルって、結局何がしたかったんでしょう?」
部屋を出て行こうとして、思い出したらしい。足を止めて振り返ると、
「アルミンが『道』で聞いたという話では、初代エルディア王の奴隷だったこと、三人の娘の母親であったこと、求められるままひたすら巨人を作り続けたこと、エルディア王を愛していたこと……どう思います?」
始祖ユミルの名に、『道』で会った少女を思い出す。なぜかはわからないが、見た瞬間、始祖ユミルだと理解した。恐らく他の者もそうだったのだろう。
しかしその目的は、本人から聞かない限り誰にもわかるわけがなく、想像で補うしかない。
少し考えると、
「……案外、ガキの要求に応えてただけで、本人には何かしら目的があったわけじゃないのかもな」
ピークはきょとんとした顔で、
「つまり、彼女にとって巨人作りとは……子供が欲しがったから与えてただけで……与えたおもちゃがどう使われるかは重要ではなかったと?」
「子離れ出来ない、ダメな母親だったんだろ」
「だったら私達は、親離れ出来ない甘ったれのお子さまだったんですね」
聞いて損したと言わんばかりに肩をすくめると、一礼して部屋を出て行く。
去り際の呆れた顔が――まるで、自分のことを呆れられたような錯覚に陥る。
視線を落とすと、コートの背中の自由の翼が視界に入った。
「……自分には何もないもんだから、ガキに自分の存在意義を求めちまったのかもな」
それは、必要とされる『喜び』だったのか、不要と捨てられる『恐怖』だったのか。
自分と同じだ。
ここ数日で、気づいたことがある。自分には何もないのだと。
何もないから、自分の力の意味を、存在意義を仲間達に求め、仲間達の『願い』を叶え続けて来たのだと。
その結果、残ったのは、何もかも失った空っぽの自分だけだった。
きっと自分には、最初から『自由の翼』はなかったのだろう。今も昔も、自由に飛び回る鳥を、暗い地下から見上げてうらやむことしか出来ない。
見送ることは出来ても、同じところへは行けない。
一ヶ月も過ぎると体の痛みもよくなり、部屋を一階に移した。
リハビリも兼ねて杖を使っての歩行訓練を行うようになると、アニの父親がずいぶん熱心に歩くコツを教えてくれた。彼自身も足が悪かったらしく、巨人にされてしまう以前は杖を手放せなかったという。
そうだとしても、なんだってそんなに親身なのか聞いてみると、一緒に来ていたライナーの母親と共に謝罪された。
「あの子を戦士にしたのは俺だ。ライナーやベルトルトも似たようなもんだ。……だからあんたの仲間を殺したのは、俺達なんだ」
「許してくれ、なんて厚かましいことは言えませんが……せめてこれからは、協力出来ることはなんでもしたいんです」
来る者、来る者に謝罪される。自分の中では、アニやライナー達とのことはすでに終わったことだと思っていること、殺そうとしたのはこちらも同じであり、何より彼らのことはもう仲間だと思っていることを伝えると、彼らは少し安堵の表情をした。
リハビリの甲斐もあって部屋の外を歩き回れるようになると、見えたのは人間のたくましさだった。
食料確保のため、野菜や果物から種を採取し、育てていると聞いてはいたが、こんな荒野のど真ん中に、小さいながらもわりと本格的な畑が出来ていたのには驚いた。ただ、土壌の問題もそうだが、それ以上に水の確保が困難なので、あまり期待は出来ないそうだ。
正直なところ、食料も水も足りない生活が続き、もっと悲愴感や混乱があるかと思っていたが、意外とみんな穏やかで、そこには確かな秩序が存在した。
その秩序を守る一助になっていたのは、たった一機の飛行艇だった。外部との情報の共有、救援物資の輸送――すべての飛行船を失い、線路も壊され、孤立無援となった要塞を、確実に外部に繋げてくれる安心感を人々に与えていた。
誰が最初に言い出したのか、そのつぎはぎだらけの飛行艇を『自由の翼』と呼ぶ者もいた。