悪魔の子 前編 - 2/4

1.収容所

 汚れの浮いた鏡を見ると、くたびれた中年男の顔がそこにあった。
 精気の抜けた目に、年々深くなるシワ、あごには無精ひげが伸びていたが、特に人に会う予定があるわけでもなかったので、剃ることもせずそのままだった。黒髪には白髪がぽつぽつ混じっていたが、それよりも鼻が気になった。
 傍目には気づかないだろうが、ほんの少し――本人にしか気づかない程度に歪んだまま治った鼻の形に、手当てした者の軽い悪意を感じずにはいられない。

 壁の中の世界を兵団が統治するようになると、サネスのような王直轄の中央憲兵は収容所に放り込まれた。
 ところが三年も経たずして『ヒストリア女王の恩赦』として放り出された。
 命令とは言え、散々民を殺めてきた者達を、たかが二、三年で解放していいのか――という声もあったが『元々は人類に心臓を捧げた兵士であり、彼らにはもう、非道な行いをする理由は存在しない』とのことだった。
 単純に養うのに金がかかることと、この島への調査に来たマーレ兵を閉じ込める施設が必要だったから、厄介払いされただけではないかとみんな邪推した。
 現に、サネスにしてみれば、収容所のほうが心穏やかに過ごせたくらいだ。なにしろ周囲は自分と同じ境遇の者ばかり。食事も出る。問題行動を起こしさえしなければ、身の安全も保証されている。なにより『敵』が存在しないのである。
 にも関わらず、不満を抱えている者もいた。そういう者は大抵『こうなったのは王のせい』と、口を開けば王への恨み節、自分の境遇への嘆き、そして『自由への渇望』を生き生きと語るのである。
 ところが、いざ実際、収容所の外に追い出されることになると、そういう者こそ縮こまり、途方に暮れた顔をするのだ。
 待ち望んだ『自由』が目の前に広がっているというのに、どこかにいるかもしれない『敵』におびえているのである。
 それを見て、サネスは思った。今度は、自分を収容所から追い出した兵団への恨み節や自分の境遇への嘆き、そして『自由への渇望』を生き生きと語るのだろう、と。
 何も変わらない。

 サネスは出所後、人目を避けるように、山奥の小さな家で暮らしていた。
 庭に畑を作り、自給自足の暮らしを始めてもうじき一年が過ぎようとしていたが、知識もないまま始めた畑仕事はうまく行かなかった。
 野菜なんて水をやってりゃ育つものだ――などということはなく、失敗の連続だった。
 山で図鑑とにらめっこしながら採取した野草やきのこを、恐る恐る食べる日もあった。結局、食料は街で買ってくることになり、減る一方の貯金に不安がつのる日々だ。
 わびしい食事のたびに思うのは、かつての食事がいかに豪華だったかということだ。
 地位も名誉もあり、肉もたらふく食えた。女房との関係は冷えていたものの、給料は良かったので夫婦を続けていたが――状況が一変すると、女房は家の金と子供を連れてあっさり実家へ帰った。残ったのは、元住んでいた家を売って得られた金だけだ。その金で、格安だった今のボロ家を買ったのである。
 この『新居』に越してきた時、思った。結局、自分が持っていたのはこの程度のものだったのだ、と。
 時折、かつての憲兵仲間と会うこともあったが、その間隔もだんだん広がり、新しい人間関係を作ることもしなかった。
 孤高の世捨て人――と言えば聞こえはいいだろうが、単純に、怖かったのだろう。自分の過去を知られることが。
 自分には、何もないことを知られるのが。
 この期に及んで、サネスを世界の端っこに追いやっているのは、つまらないプライドだった。

 ある日のことだった。
 すっかり世間に取り残され、今、この世界がどうなっているのかも知らないでいたサネスにとって、天地がひっくり返るような出来事が起こった。
 突然、だだっ広い、暗い砂漠のど真ん中に立っていた。そして声が聞こえた。声の主はエレン・イェーガーと名乗った。
 正直、驚きが勝って、言ってる内容は頭に入ってこなかった。
 我に返ったその直後に、遠くから凄まじい音が聞こえた。外に飛び出し、音が聞こえた方角へ走ると、いつも遠くに見えていた壁がなくなっていた。
 代わりに見えたのは、壁と同じくらいの超大型巨人の群れだった。
 結局、自分に理解出来たのは、目の前で見たままのことだった。

 ――王よ。あなたが恐れていたのはこれなのですか?

 恐怖に、足が震えた。
 こんな遠くからでも怖いのだ。もっと近くでこの光景を見ている者は、どれほどの恐怖だろか?
 しかもその巨人達ときたら、きちんと列を組んで歩いているのだ。誰かが操っているのは一目瞭然だった。
 そんなことが出来るのは、神様しかいない。そうか。さっき聞こえた声。幻聴でも夢でもなかったのなら、あれは『神』の声だったのだ。
 気がつくと、地べたに這いつくばるようにへたり込んでいた。
 あの『声』が言っていたことが本当なら、あの巨人達は、これから世界を踏み潰しに行くらしい。
 恐ろしい力を前に、即座に屈した。この島も、世界も、ひれ伏すことだろう。
 そして、ふと思った。初代壁の王が、本当にしたかったのはこれではないのか? と。
 収容所で暮らしていた時、仲間内で話したことがある。初代壁の王は、なぜこんな壁を作り、閉じこもったのか。
 滅びを望むのであれば、その時に滅びればよかったのだ。なぜ、民から記憶を奪い、何も知らない未来の子供達に――自分達の知る『王』も含めて――『死んでもらおう』なんてひどいことをしたのか。
 議論を重ね、出てきた結論はこうだった。『結局、自分は死にたくなかったのだ』と。『自分は死にたくなかったし我が子が殺されるところも見たくなかったから、自分の知らない未来のガキを生け贄に捧げたのだ』と。
 しかし、こうして実際に歩いている巨人の群れを見ていると、新たな疑問が湧いてきた。
 初代壁の王は、その当時、なぜこの巨人を使って世界を踏み鳴らさなかったのだろうか?
 未来の子供達を殺せる王だ。世界だって殺せるのではないのか?
 わからない。
 しかし、なぜか――なぜか、その理由を、知っているような気がした。