悪魔の子 前編 - 3/4

2.神の子

 その日の夜は、眠れなかった。
 気になったのは、実家に帰った元妻や我が子だった。
 壁の崩壊に巻き込まれていないだろうか、巨人に踏みつぶされていないだろうか、何かトラブルに巻き込まれていないだろうか――
 すぐにでも街へ向かおうかとも思ったが、どう考えても、街に着くより先に日が暮れることはわかっていたので、翌朝向かうことにして、早めに就寝した。
 しかし、目を閉じると、巨人の大群が歩く姿が脳裏にちらついた。しかも外からは、巨人の歩く音と、振動が響いてくるのだ。
 実はこちらに向かってきているのでは? と想像しては飛び起き、窓の外を何度も確認した。
 結局、夜が明けきる前に家を出た。
 久しぶりの街にたどり着くと、衝撃の光景が広がっていた。
 街では、市民が集まって、朝っぱらから飲めや歌えや大騒ぎをしていたのだ。もしかすると、徹夜で遊んでいたのかもしれない。
 途中、壁の崩壊に巻き込まれた家や家族を失ったらしい人々の姿を見た。子供の死体の前で泣いている夫婦の姿を見て思い出したのは、我が子のことだった。
 誰もが、そんな目に遭う可能性があったはずなのだ。今だって、家族の名を呼び、ガレキを掘り返している者だっている。
 しかしそんなことはまるで遠い別世界の出来事であるかのように、市民は狂喜乱舞し『自由だ!』だの『イェーガー万歳!』だのと叫んでいるのである。
 そんな姿に恐怖すら感じつつも、向かったのは、逃げられた女房の実家だった。女房とは、収容所に入れられてから一度も会っていない。
 物陰からしばらく家の様子を見たところ、幸いみんな無事のようだった。ただ、直接会いにいく根性はなかった。こちらが無事だったことを、がっかりされるのが怖かったからだ。
 我ながら未練がましいと思ったが、子供宛てに、そちらが無事なようで安心したこと、自分は無事であることを伝える短い手紙をポストに投函すると、逃げるように立ち去った。
「――おい! サネスか?」
 騒がしい街中を歩いていると、突然呼び止められた。
 振り返ると、そこにいたのはかつての同僚のラルフだった。どうやらこちらを見つけて追ってきたらしく、軽く息を切らしていた。
 挨拶もそこそこに広場まで行くと『祝勝パーティー』とやらが開かれていた。一体誰が、何に勝ったのか、正直よくわからなかった。
 居心地の悪さを感じつつも、適当に空いていた席にテーブルを挟んで座る。
 ラルフは幸いにも家族に見捨てられず、一緒にやり直そうと、現在は妻の実家の家業の手伝いで生計を立てていた。
 久しぶりに会ったラルフから、この状況の理由を聞いた。彼自身も、ついさっき、知り合いの兵士から聞いて詳細を知ったという。
 昨日、マーレの飛行船がシガンシナを襲撃しに来たこと。それを阻止するため、エレンの支持者――兵団によってイェーガー派と命名されたという――の協力の元、エレン・イェーガーが始祖の巨人の力を手に入れたこと。そして力を手に入れたと同時に、壁の巨人を復活させ、世界を滅ぼしに行ったこと。このどんちゃん騒ぎは『この島が世界に勝った』という勝利の宴なのだということ――
 内容自体は単純だったが、どこかおとぎ話でも聞いている気分だった。世界を滅ぼす。完全に『神様』がやるようなことではないか。
 脳裏に、さっき見た、我が子の死体の前で泣いていた夫婦の姿が浮かぶ。
 世界に勝った? それで我が子が死んでしまっては、負けではないのか?
 もしくは『神への生け贄に捧げた』と、その名誉の死を喜ぶべきなのか……
「あんたは、どう思う?」
 ラルフは顔の前で手を組んで、聞いてきた。
 口元は皮肉気な笑みの形に歪んでいたが、目はまったく笑っていなかった。
「壁の王は世界を守るため、俺達を壁の中に押し込めた。壁の外の人類は巨人によって滅びたって嘘ついて。……『嘘から出た誠』って言うのかね? これは」
 そう。ほんの数年前まで、自分達は『壁の外の人類は滅びた』と信じていた。その頃に逆戻りするだけだ。
 そのうち、巨人を信仰する宗教も現れるかもしれない。信仰の対象が、壁から巨人に、王からエレンに代わるだけだ。
 なにも変わらない。
「――うるさい! エレン・イェーガーの何が英雄だ! あんなヤツただの人殺しだ!」
 その時、どこからか響いてきた怒鳴り声に、我に返る。
 辺りを見渡すと、まだ十歳かそこらの少年が、泣きはらした顔でわめきちらし、イェーガー派と思われる兵士にしょっ引かれていく姿が見えた。
 壁の崩壊の被害者だろう。兵士に小脇に抱えられた少年は、手足をばたつかせ、母を返せだのエレンはただの人殺しのクズだだのわめき散らしていたが、それよりも、兵士の顔に目が行った。
 同情と、呆れが入り混じった、めんどくさいものを見る顔だった。
 見るからに人を小馬鹿にした尊大な態度で、都合の悪いものを排除している。
 それは、かつての自分の顔だった。
 そう。自分こそが『あっち側』の人間だったのだ。
 理不尽に母を亡くし、泣いている少年を『ただのめんどくさいガキ』として、大の大人が排除している。
 だが、当時の自分はこう思っていた。自分は『いいこと』をしていると。わからないバカが悪いのだと。
 そうだ。自分がしてきたのは『いいこと』だった。神にお仕えし、神の言うとおりのことをしてきただけだ。
 初代壁の王も、きっと『いいこと』をしていたのだろう。だから『世界』を守るため、『悪者』達を見張りの巨人で取り囲み、悪さが出来ないよう記憶も奪った。そして刑が執行されるその日まで、自分とその子孫が看守になった。
 そして、エレン・イェーガーも。現在進行系で『いいこと』をしに行ったのだ。この『島の中』という『世界』を守る。そのご立派な『善行』のために、『世界』の外側にいる『悪者』を滅ぼしに行った。まさに神様だ。
 『神様』の悪口を言うなど、あのガキはなんて悪い子だろう。そりゃあお仕置きだ。
「何も変わらねぇよ」
 自然と、ラルフの問いの回答が出てきた。
「悪魔のせいで、数年神様が不在だったこの世界に、新しい『神様』が降臨なさっただけだ。俺らはこれまで通り『神様』にひれ伏し、時々『生け贄』を捧げりゃいい。それだけだ」
「……そうだな。『神様』がすることだもんな。『正しいこと』してらっしゃるに決まってらぁ」
 こちらの言葉に、ラルフもどこか投げやりに答えた。
 そうだ。『神様』がすることは『正しいこと』に違いない。なにしろどんなに殺したところで、『神様』が裁かれることなどいないのだから。
 ……壁が崩れた時は、まるで、天地がひっくり返るような、ものすごいことが起こるような気がした。
 しかし、気のせいだったようだ。
 すべて、これまで通り。
 なにも変わらない。
 なのに、どこか腑に落ちなかった。
「どうした?」
 こちらの異変に気づいたか、怪訝な顔でラルフが首を傾げる。
 そう、腑に落ちない。ただひとつ、釈然としないことがあった。
 手が自然と、微妙に歪んだ鼻に触れる。かつて剥がされた爪はとっくの昔に治ったはずが、なぜか今、ズキズキと痛む気がした。
「俺は……なんのために殴られたんだろうな」
 王よ、あなたも。
 あなたも、死んだ甲斐はありましたか――