3.一歩
あれ以来、何もする気が起きなかった。畑をほったらかしにしてしまったが、どのみち食えるような実などつかないのだ。数日サボったところで、大して変わらないだろう。
ベッドに寝転がり、ぼんやりしていると、嫌でも考えてしまう。自分は生きていていいのだろうか、と。
かつての家を売って出来た、いくばくかの金はあった。しかしその金も、食料を買っては消え、その食料はクソとなって消えていくだけ。
いっそのこと、その金をどこかの貧しい子供達にばらまき、自分は人知れず死んでしまったほうが、よっぽど世のため人のためではないのか?
脳裏に、壁の崩壊で子を失って泣いていた夫婦の姿がよぎる。下敷きになって死んだのが自分なら、みんな喜んでくれただろうに。
こんな時は、酒でも飲んで酔っ払いたかったが、この家には酒など――いや。
ふと思い出し、キッチンに向かう。
戸棚を開けると、奥から一本の黒いボトルを取り出す。収容所を出ることが決まった頃、母親に内緒で面会にきた我が子が、一足早い『退所祝い』として、昔、よく飲んでいた酒を差し入れに来てくれたのだ。
もっとも、囚人に酒を渡すわけにはいかないので、実際に手にしたのは出所日、荷物を返された時だが。
正直、いい父親ではなかったと思う。いつの頃からか、妻とは不仲でよくケンカをしていたし、『仕事』と言って、子供の相手もあまりしなかった。
心のどこかで、避けていたのかもしれない。血に汚れた手で、我が子に触れることを。おかげで、子供の自分への態度はいつもそっけないものとなった。
そんな我が子が、酒を差し入れてくれたのである。酒そのものは、子供のこづかいでも買える安物だ。
しかし、我が子が幼い頃――まだ、自分が中央憲兵になる前、自宅でよく飲んでいたものだった。
それを覚えていてくれたことに感激し、なにか特別な時に飲もうと思っていたが――結局、その日は戸棚の奥に戻した。
「エレン・イェーガーが帰ってこないらしい――」
壁の崩壊から一ヶ月ほどして、そんな話をしにラルフが訪ねて来た。
しばらくぼんやり過ごしていたので、それが何を意味しているのか、すぐにはわからなかった。
ラルフは、持ってきた古新聞を机に置く。日付を見ると、壁が崩壊して数日しか経っていない頃のもののようだ。
ラルフは、隅っこのずいぶん小さな記事を指さし、
「これなんだがよ。エレンが島を出た後すぐ、港でイェーガー派とマーレの巨人との戦闘があったそうだ」
「……それが?」
すっかり思考を放棄した頭で、話を促す。ラルフは少しイラついた顔で、
「マーレがエレンを止めたいってのはわかるよ。で、ここからが肝心なんだが……知り合いの兵士から聞いた話なんだが、敵に、調査兵団の残党がいたらしい」
その言葉に、放棄したはずの思考が、ゆっくりとだが再び動き出した。
改めて記事に目を通すと『起こったこと』と『勇敢なイェーガー派によって鎮圧された』と雑に書かれているだけで、詳細はなかった。
「表立って公表はされていないが、調査兵団の団長と、昔の奪還作戦の生き残りの精鋭班だったって話だ。……それって、あいつら、だよな?」
あいつら。
忘れようにも忘れられない。自然と、曲がった鼻に手が伸びていた。
「あいつらが――どうしたって?」
「だーかーらー。あいつら、エレンを追って島を出てったって言ってんだよ。マーレの残党と、残党どうし仲良く一緒に。……普通の巨人より、もっとでかい巨人の群れ相手にだぞ。しかも、あいつらの仲間を散々殺した連中とだ。正気じゃねぇよ」
隅っこで、恥ずかしそうに掲載された記事。
帰ってこないエレン。
エレンを追って、島を飛び出した調査兵団の残党。
家の外でラルフを見送る頃になって、鈍っていた思考がようやっと意味を理解し始めた。
「……そう、か。がんばったんだな」
相変わらず、あの悪魔は『神様の善行』の邪魔をがんばっているらしい。なんて悪いヤツだろう。
果たして、殴られた甲斐はあったのか。
それはまだわからない。
だが、殴ったことに対する『筋』は通してくれたらしい。あのとてつもなく、強大な力を相手に。
家の中に戻ると、急に、その散らかりようが気になり、掃除をすることにした。
すると、思っていた以上に埃が溜まっていた。なくしたと思っていた靴下が出てきたり、突然虫が出てきて悲鳴を上げた。
そして部屋の隅に、天井から壁を伝って黒い染みが出来ていることに気づいた。いつの間にか雨漏りしていたらしい。
翌日、朝から雨漏りの修理をした。
問題は畑だった。
薄々気づいてはいたが――本当に問題なのは、畑ではなく自分の『無知』だ。
ふと、森を抜けた所に、畑に囲まれた一軒家があったことを思い出す。
その家も人里離れた場所にあり、交流はまったくなかったが――以前近くを通りかかった時、色々な野菜が育てられているのを見た。おそらく売り物として育てているのだろう。
意を決して、その百姓に教えを乞うことにした。
しかし、森を抜け、家が見えてくると不安になってきた。外に誰かいれば、向こうから声をかけてくれる期待も出来たが、誰もいない。自分から家のドアを叩き、声をかけるしかない。
ただ声をかけ、自己紹介と、畑のことで相談があると伝えるだけだ。
それだけのことだ。
だというのに、玄関のドアの前に立つと、不安で胸が苦しくなってきた。
怖かった。
そんなことも知らないのかと、笑われることが。
かつて、百姓など小馬鹿にして生きて来た自分が、その百姓に頭を下げ、教えを乞わねばならないことが。
やっぱり明日にしようと、後ろに下がろうとした瞬間、脳裏に、大量の巨人の群れが歩いている光景がよぎり、足が止まった。
……そうだ。神様にケンカを売ることに比べたら、ただの人間相手に教えを乞うくらい、なんてことはないじゃないか。
そう思った瞬間、下がろうとしていた足が一歩前へ出た。そしてそのまま、ドアを叩いた。
叩いてから、いっそ留守だったらと思ったが、あっさりと返事があり、家主の男が顔を出した。
このところあまりしゃべってなかったせいで、思ったように声が出なかったが、それでも当初の予定通り、簡単な自己紹介と、自分の畑のことで相談があると伝えた。
すると、拍子抜けするほどあっさりと、男はこちらの話を聞き入れ、さらには問題の畑まで見に来てくれた。
「あんた、この土はダメだよ。ホラ、こんなに石が混じってる」
次々とダメ出しをされたが、嫌な気分にはならなかった。ダメ出しと同時に、適切なアドバイスを惜しみなく授けてくれたからだ。
こちらは礼も何も出来ないと言っているのに、いくつかの苗と野菜まで分けてくれた。
聞けば男は単身者で、十年ほど前に今の家に越してきたらしく、年も自分と近いようだった。