4.誰か
「どうしてですか? 帰りましょうよ、一緒に」
こちらの返答に、一番困惑したのはコニーだった。
世界とパラディ島を結ぶ、和平交渉の連合国大使――あちこち飛び回っているうちに、アルミン達は、いつの間にやらそんな大役に祭り上げられていた。いよいよ、パラディ島との和平交渉を本格的に始動させようということらしい。
コニーやジャンは、当然こちらも一緒に帰るのだと思っていたようだが――あいにく、そんな気にはなれなかった。
きっと、自分にとってあの島は『帰る場所』ではないのだろう。思い返すと、あの島は奪われ続けた場所だった。自分から家族を奪い、太陽を奪い、仲間を奪っただけでなく、その『死』の意味さえ奪おうとしたのだ。
しかし、コニーは食い下がり、
「ミカサが、エレンの墓作って待っててくれてるんですよ。だからみんなで――」
「だったらなおさらだ」
ベンチに座ったまま、まだ動ける右足をさすり、
「完全に車椅子になっちまうだろ」
「蹴るんですね? お墓」
アルミンだけがわかった顔だった。目の前にそんなものがあったら、うっかり助走をつけて全力で蹴りかねない。骨が砕けたとしても。
「あのクソ野郎、散々迷惑かけた俺に、詫びのひとつもなしに逝っちまいやがって……」
始祖の巨人の力で、事前にアルミン達に会っていたと知った時は、地味にショックを受けたものだ。
アッカーマンは記憶改ざん出来ないからだとアルミンがフォローしてくれたが、単純に、怒られるのが怖くて逃げたに違いないと思っている。
つくづく、どうしようもない甘ったれのクソガキだった。
エレンに追求したいことは山ほどあったというのに。表向きに語った『目的』と腹の中に隠した『目的』が同じとは限らないことは、エルヴィンという前例で学んだ。
アルミンだけは何かを知っているような気がしたが、追求はしなかった。彼が黙ることを選んだということは、白日に晒すと不幸になる真実でしかないということなのだろう。
ならば、下っ端は従うしかない。
ため息をつくと、
「俺の役目はとっくに終わってるんだ。お前らだけで十分だろ」
「そんなこと言わないでくださいよ。ヒストリアだって兵長に会いたいだろうし、俺達だって、いてくれるだけで十分心強いんです」
「だから一緒には行けねぇんだよ」
不安げな顔のジャンに、呆れ半分に返すと立ち上がる。いるだけのマスコットに成り下がってたまるか。
「――わかりました。後のことは僕達に任せて、兵長は自分の好きなようにしてください」
「そうさせてもらう」
アルミンだけは、元々説得する気はなかったらしい。まるでこちらを逃がすように、ジャンとコニーを黙らせる。
去り際に、ひとつ思い出し、
「ヒストリアに伝えとけ。俺に用があるならそっちから来い。そしたら、言い訳のひとつくらい聞いてやる。……出てくる覚悟があるならな」
それだけ伝えると、杖をつき、その場を離れた。
杖の使い方もすっかり慣れたもので、昔と同じとまではいかないが、子供となら並んで歩けるくらいの速度になっていた。
戻り際、畑を通りかかると、ファルコとガビがイモの収穫をしていた。ファルコがクワでイモを掘り起こし、それをガビがカゴに入れていく。
先にこちらに気づいたファルコが、顔を上げ、
「ここも、すっかり寂しくなりましたね」
「いいことじゃねぇか」
畑を見渡すと、人が減ったこともあって半分以上はもう使っておらず、雑草が生えていた。
畑を作ったはいいものの、結局小さなイモくらいしか育たなかった。今あるものを収穫しつくせば、いよいよ自分達もこの要塞から立ち退くことになる。
ガビもしゃがんだまま畑を見渡し、畑を作った当時のことでも思い出したのか、
「みんな、どうしてるかな……」
「こことたいして変わらんらしいぞ」
その現実を知ったのは、かつてコートを譲った少女から届いた手紙だった。仲間や家族と共に引っ越して一年以上が過ぎていたが、最初の収穫までは飢えや虫害で苦労したそうだ。
しかし手紙の最後には『自分達の力でここをみんなの楽園にする』と書かれ、家族や現地で出来た友人に混じって、サイズがぶかぶかのコートを着た写真が同封されていた。
「ところで、リヴァイさんはパラディ島に帰るんですか?」
「いいや。あいつらだけで十分だ。……相手がどう出るかわからん以上、俺がいるとかえって足手まといだからな」
密かに島の状況を見に行ったアズマビトと、アズマビトを介して届いたヒストリアの手紙では、あの島だけ時間が止まってしまっているようだった。壁が崩壊して甚大な被害が発生したはずだが、そちらの復興はそっちのけで、増税し、いつか来るであろう敵に備えて、武力強化に当て込んでいるという。
もう敵などいないのに。
てっきり壁はなくなったと思っていたのだが、どうやら今度は、自分達で見えない巨大な壁を建築し、来ない敵に備えて引きこもってしまったようだ。
「……これからだぞ。大変なのは」
むしろ、世界はようやくスタートラインに立ったのだろうと思う。
「巨人が消えたからって、『過去は水に流して仲良くしましょう』なんてことにはならねぇだろ。どんなにこっちが歩み寄ろうったって、相手にその気がなければ何も変わらない」
たしかにスラトア要塞の兵士達は、自分達や避難してきたエルディア人を受け入れてくれた。
しかし、全員ではない。仲間だけでなく、家族や故郷を失った者もいる。
今は目の前のことで精一杯でも、暮らしが安定するにしたがって、かつての理不尽に対する怒りや憎しみが沸き起こってくるのだろう。
果たして、エレンは一体何を変えたというのか。
「……でも、やらなくちゃ」
ガビは立ち上がり、額の汗を拭うと、
「私、自分がしていることは、レベリオのみんなのためになることだと思ってた。そのためなら、敵の命を奪うことも、自分の命を捧げることも、『いいこと』なんだって」
両腕を上げて大きく伸びをする。そしてこちらに振り返り、
「でも、わかったんです。命を粗末にしてただけなんだって。粗末な命で守ったものなんて、きっと粗末にされる……世界から敵を消し去る方法は、武器を手にやっつけることじゃなく、花を贈って友達になることだった。今まで私が奪ってしまった命はもう取り戻せないけど、せめてこれからは、助けられる命は助けたい。そのためには、もう二度と、軽々しく自分の命を捧げて、誰かを悲しませるなんてしない……」
「…………」
初めて会った時、狂犬のように吠えてた少女が、よくもまあここまで来たもんだ。
内心、感心しつつも、かつての自分も、エルヴィン達に出会うまでは狂犬みたいなものだったことを思い出す。
「俺も……許すつもりはないが、もう憎むこともないだろう」
この少女と同じ答えを、とっくの昔に、すぐ隣で指し示してくれていた誰かがいたというのに。とうとう、追いつけぬままだった。
追いつけぬまま――飛び去られてしまった。そうさせてしまった自分を、この先許すことはないだろう。
だが、そんな己の無力を憎むことも、呪うことも、もうしない。
目を閉じると、久しぶりに、今まで生きてきて一番殺したかった男の顔が浮かんできた。
その顔が、なんの曇りもない清々しいもので、しかもなぜか素っ裸というありさまだった。おかげで毒気を抜かれてしまい、憎もうにも憎めない。
「お前達は、パラディ島に行くつもりか?」
うっかり不快なものを思い出してしまったので気を取り直す。最初にパラディ島へ行く話が出てきた時、世話になったサシャの家族に会いたいと話していたはずだ。
しかし二人は顔を見合わせると、困った顔で、
「うーん、それなんですけど……」
「リヴァイさん、どうしよう。私達、なんにもない」
「は?」
ガビは掘りたての小さなイモを手に、
「お礼! 散々お世話になったのに、返せるものがおイモくらいしかないの!」
一瞬、意味がわからなかったが、すぐに、
「……顔見せるだけでも、向こうは喜ぶだろ」
「でもオレ達、手ぶらで行くのもどうかと思ってて」
「まあ……成果は、ないよりあったほうがいいかもな」
「でしょ!?」
かつて、命からがらボロボロになって壁の中に帰ってきたのに、成果がなくてガッカリされるあの空気は、何度体験しても気分のいいものではない。
もっともサシャの両親は、話を聞く限り身ひとつで訪ねても、喜んで出迎えてくれそうではあるが。
「あ、オニャンコポンが帰ってきたみたいですよ」
ファルコが指さした方角に目を向けると、空に小さな黒い影が見えた。
影はどんどん大きくなって飛行艇の形がはっきり見えるようになり、同時に、すっかり聞きなれた機械音も聞こえてくる。
腕のケガが治ってからというもの、だいたいあの飛行艇を操縦しているのはオニャンコポンだった。メンテナンスも必ず立ち合っては口うるさく注文をつけ、誰よりもあの飛行艇を愛していると言っていいだろう。
彼は帰ってくると、要塞の上空をぐるりと一週するので、燃料の無駄遣いだと整備士に怒られていたが、子供達の笑顔に免じて許されていた。もっとも、その子供達も去ってしまったので、今もやる必要はないはずなのだが。
「――そうだ! オニャンコポン!」
何か思いついたのか、突然、ガビが声を上げた。
「ここの人を全員運び終えたら、故郷に帰るって言ってた!」
ガビが何を言わんとしているのか困惑していると、先に理解したファルコが目を見開き、
「それだ! それなら父さん達に言い訳しやすい!」
ガビが何か言い出すと、だいたいファルコが止める側だったはずだが、ここ数年ですっかり染まってしまったらしい。
「まさかお前ら、ついていくつもりか?」
「だって開拓地に行ったって、畑仕事するだけじゃないですか! いや、それも大事な仕事ですけど! でもオニャンコポンは世界の英雄ですよ? 故郷に帰れば、絶対お偉いさん達が歓迎してくれるだろうから、その場にこんな愛らしい美少女がけなげに人種を超えた救済を訴えたら、偉い人籠絡しまくりで世界平和に一歩も二歩も前進ですよ!」
ぶふぉっ、と吹き出したファルコのすねを、ガビは表情ひとつ変えず蹴り飛ばす。
悶絶して転げまわっているファルコを無視し、ガビはテンション高めに、
「あ、そうだ。その次はヒィズルに行きましょうよ! アニさんが、魚料理がおいしいらしいって言ってました。あと、女子供でも簡単に大男投げ飛ばしちゃう武術があるらしいですよ。一緒に習いません?」
その言葉に、一瞬驚いて、
「俺も行くのか?」
「ええ!? アルミン達と行かないってことは、そういうことじゃないんですか!?」
何の疑いもなかったらしく、目を見開く。
ファルコも蹴られたすねを抱えて、涙目で、
「そうですよ……第一、わからないものは理解しに行くのが調査兵団じゃないですか……今パラディ島に行って『世界のことを教えてくれ』って聞かれても、オレ達留守番ばっかだったから、ちゃんと答えられないです……」
「あれ? そんなに痛かった? ゴメン」
「うう……」
ガビに引っ張られ、ファルコはよろよろと立ち上がる。
彼は土を払い落としながら、
「オレ……正直、自分が何したいとか、今でもよくわからないですけど。でもリヴァイさんから調査兵団の話聞いてたら、なんか……誰かからの話を聞くばかりで、自分は何も知らないままでいいのかって気がしてきて。だったらせめて、兄さん達が見ることが出来なかったものを見に行って……それを誰かに伝えていきたいんです。それが、オレ達を生かすために死んで行った人達への、せめてもの弔いになればと思います」
「調査兵団が守った世界、見に行きましょう。成果を持ち帰ってあげなきゃ!」
二人の目に、一瞬、既視感を覚えた。
まだ見ぬものに思いをはせ、おめでたい未来を夢見ている。
新たな地獄の始まりかもしれないのに。
だが、進まなくてはならない。
ため息をつくと、
「……で、俺には、お前らの親を安心させるための保護者役になってくれってことか?」
「バレた!」
ガビは舌を出し、ファルコは苦笑いする。
二人の両親とも話をしたことはあるが、戦士にした後悔と、今はずっと側に置いておきたいという願いをひしひし感じた。たしかに説得は骨だろう。
「そうと決まれば善は急げ! オニャンコポン捕まえに行くよ!」
「え? 収穫は?」
「そんなのあとあと! イモは逃げない!」
ガビはイモの入ったカゴを抱えたまま畑を走り出し、ファルコがクワを担いで後を追いかける。こちらはまだ、一緒に行くとは言っていないはずだが、まあいいかと、走り去る背中を見送る。
アルミンは、かつての夢見る少年ではなくなっていた。
夢の果てに、自分の『使命』を見出し、進み始めた。ならば、送り出すのが自分の役目だろう。
今度は、この少年少女らが自分の『使命』を見つけ、飛び立つまで、見守ることを己が使命とするのもいいだろう。
どうして自分が生き残ってしまったのか。このところ、わかった気がする。
「そうだな……手ぶらで、お前らのところには行けない、か……」
やっとあの狂人集団から解放されたと思ったのに。つくづく悪魔だ。
見上げると、青空の中、うっすらと白い月が見えた。