5.正義の奴隷
それから半月が過ぎようとした頃だった。
玄関のドアがノックされる音に驚き、思わず持っていた木のコップを落としてしまった。
とうとうその時が来たかと思ったが、
「――サネスさん? ジェル・サネスさんのお宅でしょうか? いらっしゃいますかー?」
知らない声に、拍子抜けする。
最初は無視したが、コップを落とした音を聞かれてしまったようだ。しつこいノック音に根負けし、ドアを開けた。
訪ねて来たのは、眼鏡をかけた若い男だった。差し出された名刺を見ると、ベルク新聞社のピュレとかいう記者のようだ。
どうやって自分を探し当てたのかは不明だが、かつて、王制側として働いていた者達――特に、自分のような、王直轄の中央憲兵だった者を中心に取材して回っているらしい。それらの証言を元に、かつての王制の繁栄と崩壊にまつわる本を作りたいのだと。
なぜ今さらそんな本が必要なのか。
「話すことなんてねぇよ。わざわざご足労いただいて申し訳ねぇが、帰んな」
「では、今のこの島の状況について、どう考えているかだけでも!」
玄関のドアを閉めようとすると、強引に手をかけて食い下がってきた。タダで帰るつもりはないらしい。
仕方ないので家に上げると、彼は改めて、突然の訪問と無礼を詫び、勧めたイスに腰を下ろした。
「今の状況と言われてもね……見ての通り、俺はすっかり世捨て人だ。最近の世情にうとくてね」
「では、これを読んでみてください」
鞄から取り出したのは、数冊の新聞だった。日付を見ると、地鳴らしがあった頃のもののようだ。
島を制圧したイェーガー派は、今では『軍』というものを作り、島の権力を手中に収めていた。
新聞は、まだ軍が出来る前、イェーガー派を名乗っていた頃のものだ。
「あんたんトコの?」
「はい……お恥ずかしい話、今では全部、軍の都合に合わせた内容ばかり書かされています」
「ふぅん……」
ざっと記事を流し読みすると、たしかにその通りのようだ。
壁の崩壊で大勢の死者が出た。それもあって、最初こそエレンやイェーガー派を非難する記事はあったが、日を追うごとにそれらの記事は消え、どんどんエレンを賞賛する内容に変わっていった。『彼のおかげで敵は消え、島に平和が訪れた』と。
「こちらは最近の記事です」
新聞記者は、今度は別の新聞を数冊取り出し、机に並べる。手に取るまでもなく『戦わなければ勝てない! 戦え、エレン・イェーガーのように!』だのというデカデカした見出しや、『集え勇気ある若者よ! エレン・イェーガーの名の元に!』だのという兵士の募集記事が見えた。あまりに露骨すぎて、王様や神様扱いを通り越して、客寄せの珍獣のようだ。
「近頃は、特にエレン・イェーガーの功績を称える記事を書かされています。と言っても、ほとんどでっち上げですが。……本人もいないのに、なぜかわかりますか?」
「わかるわけないだろ」
「怖いからですよ。エレンが」
その言葉に、大量の巨人の群れが闊歩する光景を思い出す。
「こんな噂をご存じですか? あと一、二年以内に、エレンが帰ってくるんじゃないか、って」
「死んだんじゃないのか? だから世界の報復にびびって兵士募集してんだろ」
「エレンの生死を確認した者はいません。だから『噂』が立つんですよ」
「で、なんで今さら『帰ってくる』って?」
「エレンの寿命が近いからです。巨人継承のために帰ってくるんじゃないかと言って、次の継承者は誰にするか、軍の上層部では押し付け合いをしているとか」
巨人継承者の寿命は十三年――そういえば、収容所でそんな話を聞いた気がする。そしてその力は、次の継承者に『食われる』ことで受け継がれると。
十三年後に食われて死ぬとわかって、欲しがる者はそうそういないだろう。
「軍を取材しているとわかります。ヤツら、本当はエレンに帰ってきて欲しくないんですよ」
「だけど万が一にそなえて、今からシッポ振る準備だけはしておこう、ってわけか」
ばさりと、手にした新聞を雑に机に置く。
「で?」
「で……とは?」
「今さらこれを俺に読ませて、あんたはどんな感想を聞きたい?」
あんたの都合に合わせた感想を言ってやろう。
暗にそう含ませると、彼は口ごもった。
ため息をつくと、
「あんたは軍に不満があるんだろ? 最初は『敵はいなくなり平和になりました。めでたしめでたし』って喜ばせて支持を集めといて、今は兵士募集して戦え戦え。海の向こうに進出するって話も聞いたことがねぇ。ずーっと島ん中に引きこもったままだ。なのに軍は今のこの状況が続くことを望んでいる。ヤツらにゃ都合がいいからだ。だが『そんなこと』をバカ正直に書いちまったら命が危ない。だから昔の王制を持ち出して、遠回しに軍のおかしさを主張したい。違うか?」
図星を付かれたのか、彼はしばらくうつむいていたが、
「私達は……こんなことのために王と戦ったわけじゃない」
絞り出すような声だった。
彼は顔を上げると、身を乗り出し、
「結局、あの頃に戻っただけじゃないですか! いや、あの頃よりもひどい! 壁の崩落で、どれだけの人が死んだと思います? なのに、その人達の怒りや悲しみはすべて『自由』なんてもののために封殺され、支援どころか開拓地に送り出されて過酷な労働を強いられている! おまけに、異論を上げれば容赦なく捕らえられ、よくて地下街、悪ければ粛正! これは一体、誰のための『自由』なんです? 巨人を主と崇めて、自らを家畜として差し出して喜んでいるようにしか見えない!」
腹の中に溜まったものをぶちまけるように、一気にまくし立てる。
結局、彼が訴えたいのは現状への非難と自分の正義感だった。そのことにため息をつくと、
「相手は『神様』なのさ。神様だから、家畜を愛し、家畜守り、家畜を脅かす外敵をやっつけ、そして家畜を食う。ああ『出来の悪い子』は間引いたりもするな。なんにもおかしいことはない」
「我々も、エレン・イェーガーも、みんなただの人間だ! 家畜でもなければ神様でもない! 人間のくせに神様みたいに振る舞って、他人を家畜扱いするなんて、ただの傲慢だ!」
一瞬、静かになった。
記者は腰を浮かせたまま、じっとこちらを睨みつけていた。
実にきれいな目だった。それはまるで、無知者に『真実』というものを教えてあげる『正義の味方』の目だ。
その目に――自然と、笑いが込み上げてきた。
「何がおかしいんですか!」
「ああ……いや、悪い悪い。あんた『いい人』なんだなって思ってな」
こちらの言葉に、記者は勢いを削がれきょとんとする。
その顔に、笑いを噛み殺しながら、
「あんたは、いずれ食われる家畜どもが『かわいそう』で仕方ないのさ。なのに家畜どもはそのことすら知らず、のほほんと暮らしている。それがあまりに哀れで、愚かで、腹ただしくて。家畜小屋を壊すことで『救ってあげたい』と思っている。なぜなら『俺はあいつらとは違う』と思っているからだ」
「ち、違います! 私はただ――」
「――違わねぇさ! あんたさっき『他人を家畜扱いするなんて傲慢だ』っつったな? 他人の『傲慢』を責められるヤツがどんなヤツか知ってるか? 自分が人を家畜扱い『する』のは許せるが、自分が人から家畜扱い『される』のは許せない、傲慢極まりない正義の奴隷さ。そうだろう? 俺の予測では、あんた、俺らに会いに行ってること、仲間や家族には言ってないんじゃないのかい?」
記者は何も言い返せず、青ざめた顔で硬直する。
「なぜ誰にも言えないのか当ててやろう。『どうせ止められる』とわかってるから? 違うね。『俺の正しさを理解できない、頭の悪い家畜どもは使えない』と思ってるからだ。だからあんたは、ひとりぼっちでここに来た。『この世界を変えられるのは自分だけだ』と思い上がってるからだ!」
「それは……! 家族や仲間を巻き込まないためであって――」
身を乗り出してきた記者の喉を、すかさず片手でつかんでやる。
別に力は入れていない、触れてる程度だ。しかし今の彼は、強い力で絞められている気分だろう。首を絞められた鶏のように、口を開けて酸素を求めている。
「へー、そりゃあかっこいいな。まるでヒーローだ。『みんなの』問題のために、我が身ひとつを犠牲にがんばってくれようとは。でもそのためには、自分一人くらいちゃんと守れねぇとなぁ?」
手を離してやると、記者は苦しそうに咳き込み、さっきとは一転、すっかり怯えた目でこちらを見上げる。
それに呆れると、
「おいおい、ついさっきまで『死ぬのなんて恐くない!』ってツラで語っといて、情けねぇな。早くも『死にたくない』ってか? 俺が何者か、知っててここに来たんじゃねぇのかよ? 今でこそしょぼくれたジジイだが、ちょっと前までは訓練された兵士だったんだぜ? その気になりゃあ、ブン屋一人消すくらい、朝メシ前だ……」
「わっ、私を……どうす……」
「どーもしねーよ。ったく、さすがの俺も、人肉肥料で育った野菜なんて食いたかねぇよ。だがあんたにとっちゃ有益情報だっただろう? あんたは何一つ変えることも出来ず、自分の無力に打ちひしがれて死ぬ。早めに気づけてよかったじゃねぇか。おかげで、余計な犠牲者が増えずに済む……」
「余計な……犠牲者?」
「ま、あんたにとっちゃ、俺達なんて昔散々人を殺した悪者だ。いくら巻き込んでも、痛くも痒くもねぇだろうよ」
まだ意味がわからないらしい。仕方がないので、わかりやすく、
「あんたが『書きたい』と言ってる本。もしそれを軍のお偉方が読んで、不快に思ったらどうなる? 『これは自分達への非難の書だ』と気づかれたら? なにしろ俺に勘づかれるくらいだ。身に覚えのあるやつは、みんな勘づくだろう。あんたはいいだろうよ。自分でしたことだ。だが、あんたの家族や仲間のその後は? あんたの『正義』に共感し、協力しちまった俺の昔の仲間達は? 軍が『そういうヤツら』をどうするか、俺には手に取るようにわかる。なにしろかつての俺が、今の軍の立場だったからな……もしそうなった時、あんたに何が出来る? ま、どうせその頃には、あんたは土の下だろうが……」
考えたこともないのだろう。顔にはびっしりと汗が浮かび、みるみる青ざめていく。
その顔を見ていると、自然と笑いが込み上げてきた。背筋がゾクゾクする。
「ああ、昔を思い出すなぁ……あんたみたいなヤツはわんさか見た。いっぱい殺したなぁ……どいつもこいつも人の苦労も知らねぇで、『自分の正しさ』をいかに行使するかで頭がいっぱいだ。気持ちいいだろう? 『正義』ってヤツは。俺も気持ちよかったよ。そういう勘違い野郎の鼻っ柱をへし折って、てめぇがどれだけ罪深いことをやろうとしているか、誰が本物の『正義の味方』か、しっかり教えてやったよ。そいつに『罪悪感』ってのが芽生えりゃこっちのもんだ。反論も反撃も出来なくなって、一方的に責め放題の殴り放題。あんたも新聞記者なら身に覚えがあるんじゃないのかい? 相手が何も言えないのをいいことに、言葉の暴力、数の暴力で一方的に殴りまくるのは新聞屋の十八番だろうが」
「…………!」
身に覚えがあるようで、わかりやすいくらい動揺している。顔面蒼白になり、うつむいて小さく震えだした。
こんな気持ちは久しぶりだ。そうだ。『自分は家畜じゃない』と勘違いした、思い上がった『家畜』に、身の程というものを教えてやるのは気持ちいい。ああ、やはり自分は『こっち側』の人間だ。
「俺は、エレンや、軍の連中の気持ち、ちょっとはわかるつもりだ。そりゃあ気持ちいいさ。弱者を踏みつけ、いっぱい殺しても、誰も自分を裁けないんだぜ? それどころか褒められるなんて、そりゃあまるで、選ばれし『神の子』だ。まさに『これが自由だ!』って気分だろうよ。……人間風情じゃ、神様は裁けねぇよ」
記者は、震えの止まらぬか細い声で、
「……でも……あなたは、『神様』じゃ、なかった。だから……裁かれた」
「ああ、その通りだ。あの悪魔達さえ現れなけりゃあ……」
『悪魔』という言葉に、記者の目に、一瞬、生気が戻った。
立ち上がると、棚からコップを二つ出し、水差しの水を注ぐ。
「あんたとあの悪魔達は違う。あいつらは、俺にギャアギャア言われたくらいじゃビクともしねぇ」
「悪魔、とは?」
「ま、あいつらは、仲間の救出と任務遂行のためであって、『正義』なんてものには毛の一本ほどの興味もなかったんだろうがな」
言いながら、水を注いだコップを記者の前に置いてやる。
「それ飲んだら帰んな」
そう告げると、自分も水を飲む。少々しゃべりすぎた。
ふと見ると、記者はコップを両手で包み込み、水面をじっと見つめたまま、何やら考え込んでいた。
「……家畜では、神様にかなわない……でも、悪魔なら。悪魔なら……神様と戦える、ということですか?」
「さぁねぇ。だが少なくとも、神様にケンカ売れるのは、神をも恐れぬ悪魔だろうよ」
記者は、再び静かになった。どうやらこれ以上、話すことはなさそうだ。
家の外まで見送ってやると、彼はこちらに振り返り、
「ヘンなこと言いますけど……あなたは『いい人』です」
ホントにヘンなことを言う。
「どうした急に? また絞めてほしいのか?」
「いえ、それはもう結構です」
手で首をつかむポーズをしてやると、記者は一歩離れた。
「実はここに来るまで、もう六人くらい会ってるんです。誰一人、取材させてはくれませんでしたが……私は、彼らに原因があると思っていました。後ろめたい過去なんて話したがらないのは仕方ないとか、過去の罪と向き合いたくないからだとか……でも、おかげでわかりました。私に原因があったんだって」
ため息をつき、肩を落とす。
「『正義の味方』が『弱い者いじめ』なんて、一番やっちゃいけないことですよね」
「……それは俺への嫌味か?」
「あ、いえ、あなたのことを言ったわけでは……」
慌てて、さらにもう一歩下がった。
記者は、バッグの中を探りながら、
「本を書くことそのものをあきらめたわけじゃありません。あの時と今と、何が違うのか……もう一度、よく考えてみます」
そう言いながら取り出したのは、原稿用紙の束だった。こちらに差し出すと、
「気が向いたら使ってください」
ありがたく頂戴した。かまどの火起こしに使えるだろう。
窓越しに、遠ざかる新聞記者の背中を見送りながら、ぼんやりと考える。
あいにく、あの記者は『悪魔』にはなれないだろう。『いい人』すぎる。
その姿が見えなくなると、どっと疲れが出てきた。
ついさっきは、久しぶりに気持ちよく、饒舌にしゃべっていたというのに。
この感じ、そうだ。昔の、ひと仕事終えた時の感覚に似ている。
異端者に罰を与え、粛清し。その『善行』を行ってる瞬間は心地よいのに、すべて片付くと、途端に重苦しい疲労感に襲われるのだ。
眠りたいのに眠れず、きつい酒を飲んだりもした。
ようやく眠りについても、いまわの際の恨み節が、断末魔の叫びが、夢となって蘇り、眠らせてくれない。
そのイライラを、家族にぶつけることもあった。結局、自己嫌悪と家庭不和を悪化させただけで、そんな時は教会に行った。家族にはしゃべれないことも、王にならしゃべることが出来た。
どうやって人を殺したかを。
そいつがどんな『悪いこと』を行い、どんな『罰』を与えたか、誇らしげに報告した。すると、あの重苦しい気持ちが一転、自分がいかに『いい人』なのか、『正義の味方』なのか、酔いしれることが出来た。
そして王はいつも、開口一番にこう言ってくれるのだ。
――いつもすまない。
突然、まるで冷水を浴びせられたような錯覚に陥った。
その瞬間、理解した。
「そう……か。俺は、俺の『正義』のために、王を利用していたのか……」
全身から力が抜け、その場に膝をつく。
『いつもすまない』
王は、自分の報告に、困ったような、どこか申し訳なさそうな顔をして、そう言ったのだ。
当時は、まったく気にしなかった。それどころか、褒められているとさえ思っていた。
しかし王は、謝ったのだ。『すまない』と。
なぜ王は、そんなことを言ったのか。
自分が殺せば殺すほど、その『罪』を、王が肩代わりしていたからだ。
しかし王は、自分達にそんなことは知らせなかった。
知っていたからだ。『食われることを知らないからこそ、家畜は幸せでいられる』と。
王は、哀れな家畜達から『幸せ』を奪わぬため、真実を黙った。その代わりに、謝った。『すまない』と。
王が本当に言いたかったのは、きっとそんなことではなかっただろうに。
手が自然と、曲がった鼻に向かった。文字通り鼻っ柱をへし折られた時の、痛みと恐怖が蘇る。
結局、自分さえよければそれでよかったのだ。民をどう殺したか、そんな報告を聞かされた王の気持ちなど、考えたこともなかった。
仲間に裏切られたと思い込み、王の正体をバラしたりもした。自分が言わなくたって、どうせ他の誰かがバラすのだと言い訳して。
収容所に入れられ、裁かれている気分に安心すらした。それで『終わった』のだと。もう『順番』は、次に回って行ったのだと。
しかし、違う。
あの悪魔達は、自分に『痛み』を与えることで、『神』でも『家畜』でもなく『人間』に戻しただけだった。だから『罪』が発生した。
そうだろう? 家畜はただ、生かされてるだけだ。
神様の気分ひとつで、かわいがられ、道楽のおもちゃにされ、腹いせにぶたれ、そして食われる。どこに『罪』があると言う?
神様もそうだ。『自分の所有物』である家畜を、自分の自由にして何が悪い。
『罪』があるのは人間だ。
人間が人間を殺すから『罪』が生まれ、したことに対する『責任』が発生する。
『責任』を果たせるのは、生きた『人間』だけだ。
だから自分はまだ、生きている。
……あの悪魔は、未来でも見えているのだろうか? 予告通り『友人が受けた以上の苦痛』を、現在進行形で生きながら体験させてくれている。
どうやら『順番』が来たようだ。