12.ひとときの休息 - 5/5


「……振り出しに戻ったな」
「困りましたね」
 適当な場所に腰を下ろし、キュカはユリエルとお茶をすすりながらぼやく。
 船の修理には光明が差し、ダークプリーストの脅威からも解放されたが、肝心の温泉について収穫なしとなると、この二日間、単にダークプリーストに追いかけ回されただけということになる。
 ロジェは、結局捕まり損だったことにショックを受けて、ワッツの隠れ家に戻って来るなり穴の奥でふて寝してしまった。女達は温泉に、ワッツとニキータは夕食の準備を始め、自分達は穴の外で時間が過ぎるのを待つだけだ。
 レニに至っては、跳び回るラビを不気味なくらい穏やかなまなざしで見守り、時折、思い出したかのように『クスクスクスクス……』と笑い出す。たぶん、なんかの後遺症とかなんかの病ではないかと思う。
 そして、突然笑うのを止めたと思うと、側まで来たラビを捕らえ、無表情にその丸い体を地面にびったんびったん叩きつけ、こねくり回し始めた。
 その動作に――パン生地を台に打ち付け、こねる作業を思い出す。そうか。パンだ。彼はきっとパンを作っているのだ。
「温泉調査が済んだら、次は心理カウンセラーを捜さないとな」
「そうですね。サボテンでも置いてみますか?」
 ユリエルの提案に、一瞬、船の隅に置かれたサボテンに、双子が焼酎の一升瓶を片手に絡んでみたり、クスクス笑いながらピンセットでサボテンのトゲを一本一本抜き、その抜いたトゲをキレイに並べて壁に貼り付けてみたりする光景を想像し――
「やめよう。気の毒だ」
「そうですね」
 却下する。ユリエルも反論しなかった。
 再びレニに目をやると、ぴちぴちと暴れるイキのいい生地を、無表情のまま、今度は真上に放り投げて片手で器用にぐるんぐるん回転させていた。
 ……どうやらパンではなく、ピザを作っていたらしい。彼がどこでピザの作り方を覚えたのか、なぜピザなのかはこの際どうでもいい。これまで料理などしたことのない彼が、誰かに言われたわけでもなく、自らパンなりピザなり作ろうとするその姿勢に少し感動した。おめでとう、脱・箱入り。トッピングは何にするつもりだ。
「キュッ……キュゥゥゥゥゥ~!」
 くるくると、遠心力で伸ばされていく黄色いピザ生地が切ない声を上げ、何かを訴える目から涙がこぼれ落ちていたが、それから目をそらす。
 自分も少しおかしくなっているのかもしれない。ピザが泣くわけないじゃないか。
「……いや、やっぱりサボテンが必要かもしれん」
「まったく、どっちなんですか?」
 そう言いつつ、ユリエルは、さっきから恐怖でガタガタ震えるテケリの背をなでる。
「キュ~! キュゥゥゥゥゥゥゥゥゥ~ッ!」
 再び、なにやら悲鳴が響くが、あれはピザ。ピザだ。ピザが悲鳴を上げるわけがない……
「ゥキュッ!?」
「あっ、ラビきち!」
 手元が狂ったのか、放り投げた拍子にピザが茂みの向こうへとすっ飛んでいく。
 テケリがその後を追うのをぼんやりと眺め――
「――ぐまっ!」
 入れ違いにアナグマが茂みから飛び出し、慌てた様子で前を横切ろうとしたが、レニがすかさず覆い被さるように捕獲する。今度は何を作るつもりだ。
 いや、それはさておき、
「なんだ?」
 ゴゴゴ……と、アナグマが飛び出してきた方角から、ヘンな音がする。
 そして、
「――うきょっ!?」
 テケリの声が聞こえると同時に、どばっ! と、木々の隙間から水が勢いよく噴き出した。白い煙が立ち上っているので、お湯のようだ。
「なんだ!? 間欠泉か!?」
 慌てて茂みをかき分け、湯の出所へ向かうと、湯柱の前でぽかんとしているテケリを下がらせる。
 見上げると、災難続きのピザ、もとい、ラビが、勢いよく吹き出す湯柱に、なすすべなく押し上げられている。
 見下ろすと、地面に開いた穴からお湯が勢いよく吹き出していたが、その勢いは次第に弱まり、みるみるうちに湯溜まりが出来――ぷかぁ、と水死体のように浮かび上がったラビを、姿を現したウンディーネが救出する。
「――なんでぇ、またか!」
 音を聞きつけたのか、食事の支度をしていたワッツとニキータが駆けつけ、出来上がった湯溜まりを見下ろす。
「『また』って……」
 ちょうどその時、温泉の方角からエリスの悲鳴が聞こえた。
「今度はなんでありますか!?」
 反射的に、悲鳴がした方角へテケリと共に走り――そして、
『――来るなァッ!』

 ――ガンッ!

 ……女二人が入浴中だったことを思い出したのは、二つの石が直撃してからだった。

 ※しばらくお待ち下さい。

「……理不尽だな」
「お、驚いたのよ!」
 こちらの言葉に、エリスはヒールライトで手当てをしながら怒鳴る。
 頭に石の直撃を受け、数分ほど気を失っていたらしく、気がついた頃には女二人はきっちり服を着て、こちらの手当てをしていた。まあ、心配して駆けつけてやった相手にこの仕打ちなのだから、手当てをするくらい当然だが。
「温泉はどうしたんです?」
「わからない。急にお湯が減り出して、すぐこれだ」
 首を傾げるユリエルに、ジェレミアは濡れた髪を拭きながら、温泉――今はただのくぼみになっている――を見下ろす。
 昨日は膝より上まであったと思うのだが、今ではくるぶしの辺りまでお湯が減っている。この調子だと、あと数分もせずにお湯は完全になくなるだろう。
「あーあ。とうとう、ここもか」
 ワッツがため息混じりにつぶやき、パイプに火をつける。
 その様子に、ふと、
「なあ。ひょっとして、さっきそこで湯が噴き出したことと関係あるのか?」
「ああ、アナグマのヤツら、よく温泉を掘り当てるんだ。いや、掘り当てるっつうか、水の流れを変えちまってんだろうな。おかげで少し前まで湧いてた温泉が枯れて、別のトコに温泉が湧くなんてしょっちゅうだ」
『……え?』
 ぴたりと、ワッツを除く全員の動きが止まる。
「あの。ちょっとお伺いしますが、アナグマ達はイシュの町まで穴を掘ったりとかは……?」
 ユリエルの問いに、ワッツはパイプをくわえたまま、
「さあ? でも、結構深くまで掘っちまうみたいだからなぁ。ひょっとすると、町の地下も穴だらけだったりしてな」
『…………』
 全員言葉を失う中、ワッツは煙を吐く。
 その煙は、細く、長く――ゆっくりと、天へと向かって上っていった……

「なるほど……そりゃあ悪いことしちまったなぁ」
 鍋のシチューを器によそいながら、ワッツは苦笑いを浮かべる。
「別に、あんたが謝ることじゃないんだけどな」
 ワッツが差し出した器を受け取り、隣にいたレニに回す。(ラビやらアナグマをこねくり回しているうちに、少しは正気に戻ったらしい)
 ワッツは全員に食事を配ると、最後に自分の分を器によそい、腰を下ろすと、
「しかし困ったな。あいつらに穴掘るなっつーわけにもいかねぇし……」
 ちらりと穴の外に目を向けると、食事のにおいが気になるのか、数匹のアナグマが鼻をひくつかせていた。
「町まで来ないようにするのは?」
「それは無理ですね。柵を作ったところで、地下を移動するわけですし」
 エリスの提案を、ユリエルがあっさり却下する。
 ニキータは手を止め、
「じゃ、じゃあ、最悪……駆除?」
「そんなのダメであります!」
 はじかれたようにテケリが叫ぶが、ユリエルは難しい顔で、
「とはいえ、本来、この地にはいない生き物ですからね。町のことを考えると、やはり……」
「そんなぁ……」
 最悪の事態を想像したのか、テケリは顔を青くする。
 確かに、アナグマにとっては理不尽な話だ。
 理不尽だが、他にいい方法など――
「――おい。いい引っ越し先があるなら、引っ越したいと言っているぞ」
『え?』
 振り返ると、いつの間にか、レニが一匹のアナグマの前にしゃがみ込んでいた。
 アナグマは身振り手振りしながら、
「ぐまぐまま、んぐんぐ、まっ。ぐげっ」
「……そうか。大変だなお前達も」
「ぐまっ」
 その光景に、キュカは思わず、半分以上シチューの残っている器を落としそうになった。
 あるわけがない。
 馬鹿げている。
 しかし、どう見てもその光景は――
 そして意を決すると、代表として、こう聞いた。
「お前……アナグマと会話出来んのか……?」
 こちらの問いかけに――レニは、『は?』と、こちらを心底馬鹿にするような顔で、
「何馬鹿なことを……アナグマと会話など、出来るわけないだろう」
「でも今、会話していませんでしたか?」

 ………………。

 その沈黙は、永遠のようだった。
 そして、レニは心底驚いた様子で立ち上がると、
「――なぜ会話出来るんだ!?」
「能力覚醒した!?」
 やはりサボテンを置こう。
 結局、シチューの入った器は落としてしまったが、とりあえず固く決意する。
 一方で、ロジェはへらへら笑いながら、
「やだなー、兄さん。アナグマ語なんて小さい頃に教わったじゃないか。必修教科だっただろ?」
「む。そういえば出来て当たり前だったな」
「お前らの実家はアナグマでも飼っていたのか?」
 納得する二人に、ジェレミアが引きつった声でつぶやく。別に、ヘンな能力が脈絡なしに覚醒したわけではなかったらしい……(だからと言って安心していいのか謎だったが)
 それにしても、
「アナグマ語が必修教科?」
「そういえば父上も、『なんでこんなもん』と首を傾げておられたな」
「……そりゃそうだろ」
 彼の父も、その前の代でも、アナグマ語などまったく役に立たなかったのだろうが、きっちり伝えているあたり、律儀というかなんというか。
 とはいえ、レニの代で役立つ時が巡ってきたとなると、伝えられてきたことは決して無駄ではなかったのかもしれない……
「ねえ。なんて言ってるの?」
 エリスの問いに、レニはアナグマに目をやり、
「無理矢理、ここに連れてこられたそうだ。好きで故郷を離れたわけではないと……そう言っている」
「ぐまっ」
 その言葉を肯定するように、アナグマは大きくうなずく。
「……そうか。やっぱり、今でも帰りたいか?」
「ぐまっ!」
 ワッツの問いに、アナグマは、再び大きくうなずく。
 確かに、それが一番いい解決方法だ。本来住んでいた場所なら誰も文句は言わないし、彼らも望んでいる。
「でも、ヴァンドールは滅亡して、もう人は住んでいませんにゃ。今じゃ危険な怪物がうろついているとか……いくら故郷とはいえ、そんにゃところに連れて行ったら、怪物に食べられちゃいますにゃ」
「ふむ……」
 ニキータの言葉に、ワッツはカラになった器を置き、ヒゲをなでてしばし考え込んでいたが――顔を上げると、
「よし。じゃあおめぇら、俺んトコに来るか?」
「ま?」
 首を傾げるアナグマに、ワッツは笑みを浮かべ、
「近くにでっけぇ草原があるんだ。あそこなら土も掘れるしな。ちょいとおめぇらの船に乗せて、運んでやってくれねぇか?」
「ナイトソウルズに?」
「アナグマを……」
 一瞬、ユリエルは渋るような顔をするが、ワッツは自分の膝を叩き、
「仕方ねーだろ。俺の戦車じゃちょっとしか乗らねぇ。話を聞いた限りだと、おめぇらの船なら、アナグマくらい十分乗せられるだろ」
「ですが、我々の目的は温泉が出なくなった原因の解明で、それ以上のことまでは……」
「隊長~! このままじゃ駆除であります~!」
 テケリに服を引っ張られ、ユリエルは困った顔をしたものの――結局、
「……まあ、仕方ないですね。乗りかかった船です」
「なるほど。アナグマの身元を引き受け、報酬を上乗せするんだな?」
「…………」
 レニの言葉を、ユリエルは肯定しなかったが、否定もしなかった。

 * * *

「あー……こりゃひでぇな。真っ黒じゃねぇか」
 黒く焦げたエンジン本体、その周囲の焼き切れたコードを前に、ワッツは頭をかきながらぼやく。
 翌日、予定通りイシュの町で当初の言い値より高額な依頼料を脅し――もとい、受け取り、その後、ワッツを船まで案内したのだが、発火したエンジンはコゲだけでなく、サビまで浮いていた。
 原因は消火の際にかけた水だろう。一応拭き取ったのだが、隙間に入り込んだ水までは拭き取れず、そこからサビが広がったようだ。
 ワッツはエンジンを調べながら、
「それにしても、こんなエンジンであちこち飛び回っていたのか?」
「ええ。元々、長距離飛行用に造られた船ではないので。……やはり、無理が祟ったんでしょうね」
「そりゃあおめぇ、無理しすぎたらぶっ壊れらぁ。機械も、人も」
「…………」

 ――無理すりゃ壊れる、か。

 ワッツの何気ない言葉に、機関室の隣――ブリッジで、テケリと一緒に荷物をあさっているレニに目をやる。
「? どうした?」
「あ、いや……」
 こちらの視線に気づいたのか、振り返るレニに、適当にごまかす。
 レニは首を傾げつつも、荷物の中から取り出したぱっくんチョコを半分に割り、片方をテケリに差し出す。

 …………。

「――ってお前! それ俺の荷物じゃねぇか! また勝手にあさってんじゃねぇ!」
 指を突きつけるが、彼は真顔で、
「私のものは私のもの。貴様のものも私のもの」
「キュカさん、ゴチであります!」
「オイッ!?」
 テケリまでもが元気にそう言うと、二人共包み紙をめくり減ってもいないHPをモリモリ回復する。
「で、直るのか?」
 こちらの悲劇などお構いなしに、ジェレミアがワッツに問うと、彼はしばし考え、
「そうだなぁ……直らねえことはないが、このエンジンで世界中飛び回ろうってのは、ちとツライな」
「ええ。ただ修理しただけでは、また同じことを繰り返してしまいます。なんとか、長距離飛行を可能にすることは出来ないでしょうか?」
 ユリエルの要望に、ワッツは再び思案し――手を打つと、
「よし。こういうのはどうだ? 今のエンジンをはずして、もっと馬力のあるエンジンと丸ごと交換する。一番手っ取り早いし、確実な方法だ」
「出来るんですか?」
「交換ったって……交換用のエンジンなんてあるのか?」
 眉をひそめるロジェに、ワッツは自信満々に人差し指を振り、
「それが、あるんだよ。元々、俺の戦車用に作ったエンジンがあるんだがな。戦車に取り付けてみたら、パワーが強すぎて暴走しちまったんだ」
「ようするに、失敗作か?」
 ジェレミアの一言に、ワッツは肩をすくめ、
「おいおい、そいつぁひでぇな。『適材適所』って言うだろ。俺の戦車にゃ適さなかったが、この船なら行けるかもしれねぇってことだ。試してみる価値はあるぜ」
「それは助かりますが……よろしいんですか? こちらは、満足なお礼は出せないのですが……」
「もちろん、タダじゃやれねぇ」
 ユリエルの言葉に、ワッツは即答だった。
 そして、焦げたエンジンを叩き、
「修理代はコイツだ。このエンジンをもらう」
 その言葉に、全員、目をぱちくりさせる。
 ユリエルも驚いた顔で、
「そ、それでよろしいんですか?」
「おうよ。このエンジン、改造すりゃあ俺の戦車に使えそうだ」
 確かに、エンジンの交換がうまくいけば、今のエンジンは不要になる。言うなれば『ゴミ』だ。
 こちらとしては別に異論も何もないのだが、タダより高いものはないとも言う。
「金はいいのかよ?」
「俺は根っからの技術屋だ。金なんかより、こういった機械いじれるほうがワクワクすらぁ。……こりゃあ、腕が鳴るぜ」
 そう言うと、すでに頭の中ではどう改造しようか考えているらしく、心底楽しそうな笑みを浮かべる。
「ただし、手伝いはしてもらうぜ。さすがに俺一人じゃ、時間がかかって仕方ねぇ。それに作るところを見ときゃ、また修理が必要になった時、その知識が役に立つからな」
「……ありがとうございます」
「よし! そうと決まれば、ポルポタへ向かうぞ。――おめぇら、俺の戦車とこの船を繋げろ!」
『ぐまっ!』
 ワッツの指示に、ついてきたアナグマ達は元気よくうなずくと、慌ただしく船を飛び出し、ロジェとジェレミアも、ワッツの手伝いに行く。
 それを見送り、
「戦車と船を繋げるったって……あの戦車で、この船が引っ張れるのか?」
 あの戦車は水陸両用らしく、海路でポルポタへ向かうらしいが、ナイトソウルズを牽引するにはあの戦車は小さすぎる。
 しかし、ユリエルは笑みを浮かべ、
「まあ、ワッツ殿が出来ると言っているのなら、出来るんじゃないですかね」
「そうかぁ?」
「ところでキュカ。あなたの荷物の中からこれが出てきたんですが」
「あ」
 ユリエルがつまんでいたのは、しっかりとユリエルの名前が書かれたまんまるドロップだった。
 ……そういえばイシュに来た日、宿に帰る際、自分はひどく慌てていた。
 何が理由があったはずだ。たしかその理由は――
「さらに包みの内側にこんな一文字が」
 まんまるドロップの包みを広げると、そこには手の込んだことに『死』の一文字が書かれていた……
 ユリエルは笑顔のまま、小首を傾げ、
「イタズラとしてはなかなか悪質ですね。あちらでじっくり話し合いましょうか――」

 ――さらばモミアゲ。

 虚しい悲鳴を上げながら、ユリエルに連行されるキュカに、レニは心の中で絹のハンカチを振った。
「――船と戦車を繋げたぞ。あとはお前の魔法で、こっちの船を動かしてくれ」
「なに?」
 意外な要求に目を丸くするが、ワッツはさも当然と、
「見りゃわかるだろ。俺の戦車だけで、お前らの船を引っ張れるわけねーだろが。……それともお前、魔法使いじゃないのか?」
 そう言うと、目をぱちくりさせる。どうやら、最初から戦車と魔法の力で牽引するつもりだったらしい。
「ブースカブーに引っ張ってもらったらどうだ?」
「おめぇ、ありがたい海の主を、俺達の都合でそう何度もこき使うとバチが当たるぞ。自分達の力で出来ることは自分達でやる。何でも他人任せじゃぁ、ロクなことになんねぇ」
「だが、私は――」
「――ええやん。やってみようや」
 ウンディーネが姿を現し、サラマンダーも、
「こないだ化け鳥吹っ飛ばしといて、今出来ないなんてことはねぇだろ」
「…………」
 たしかに、あの時は自分でも不思議だった。
 火事場の馬鹿力とは言うが、奥底から力が湧いてくるような、そんな感じだった。もっとも、昔なら造作もないことだったのだが……
 ワッツは首を傾げつつも、
「事情は知らねぇが、出来るだの出来ないだのうだうだ言ってねーで、やってみろ。案外、簡単かもしれねーぞ?」
「そうは言うが……」
「――大丈夫よ。きっと」
 振り返ると、これまで黙って様子を見ていたエリスが、気楽な笑みを浮かべ、
「これまでだってそうでしょ? あんた、なんだかんだ言って、ちゃんと出来たじゃない」
「…………」
 本気で言っているのか、気休めで言っているのかは知らないが、魔力が戻ってきているのは確かだ。
「そうそう。これを返しておかねーとな」
 突然、ワッツは何かを思い出したのか、ポケットからハンカチを取り出す。
「わりぃな。うっかり忘れるところだった。ちょいと遅くなったが、約束通り、新品同然にしといてやったぜ」
 そう言ってハンカチを広げ、出てきた小さな指輪を差し出す。
「これ……同じ指輪か?」
 手に取るが、一瞬、別のものではないかと思った。
 自分がこの指輪を受け取った時はすでにくすみ、なんとも安っぽく見えたが、今は、窓から差し込む陽光を反射して、白く輝いている。これが、この指輪の本来の姿なのだろう。
「いい指輪じゃねーか。大事にしろよ」
「あ……ありがとう……」
 自然と、口からその言葉が出てきた。
 ……もう、ずいぶん長い間、礼を言うようなことなどなかった気がする。
 ヒモに指輪をくくりつけ、首に下げると、精霊達に目をやり、
「……手伝ってくれ」
 そう言うと、返事も待たずにMOB召喚施設へと向かった。

「……これで動くのか?」
 ジェレミアは半信半疑といった顔だったが、お構いなしに、床にチョークで文字を書き込む。
「これで……いけると思うが……」
 書き終わり、辺りを見渡す。
 とにかく魔力を増幅させなくては、こんな船、動かせない。
 召喚施設の床全体にそのための魔法陣を書き込み、書き漏らしがないか確認する。
 エリスは複雑な魔法陣に目を丸くして、
「あんた、一応こーいう知識あったのね」
「……一応?」
 一応も何も専門なのだが、説明するのも面倒なので黙っておく。
 ユリエルはモップとバケツを差し出し、
「無事についたら掃除して下さいね」
「…………」
 とりあえず、いつかどさくさに紛れて痛い目に遭わすと固く心に誓う。
「試しに、少し動かしてみたらどうだ? 動きさえすりゃあ、後は俺の戦車で舵取りしてやらぁ」
「そうだな」
 ワッツの言葉にうなずくと、精霊達に目をやり、
「お前達、頼むぞ」
「了解ダスー」
 精霊達もうなずき、ウンディーネとジンが外から船を押すために姿を消し、続けて、ルナとサラマンダーが、魔法陣に力を注ぐ。
 魔法陣に力が十分行き渡ったことを確認すると、その中央に立ち、目を閉じる。
 意識を集中させ、船を動かすイメージを脳裏に描き――
『――うわっ!?』
 がくんっ! と、船が急発進し、驚いて停めると、その激しい揺れに、自分も含め、全員、派手に転倒する。
「なっ……!」
 想像していなかった事態に、倒れたまま、目をぱちくりさせる。
 今、確かに――
「――なによ! 簡単に動くじゃない!」
 体を起こしたエリスが、真っ先に怒鳴る。
「まったく……心配して損しましたね」
「…………」
 全員が体を起こして立ち上がる中、座り込んだままぽかんとする。
 エリスの言う通り、簡単に動いた。
 さすがに飛ぶまでは無理だが、動かす時の手応えというものが、ひどく軽く感じた。こんなもののために、自分は一体、何をためらっていたのだろう。
 突然、ワッツの笑い声が辺りに響く。
「ホレみろ! やっぱり簡単だったろーが!」
「…………」
 その言葉に、返す言葉もなかった。